音の形

初葉

音の形


 僕がふとしたときに思い出せるくらいの、それくらいの記憶ってなにがあるだろうか。そう考え一番最初に思い出されたものは音だった、綺麗なピアノの音、そしてそれを弾く誰かの白い指。

 僕、青山は『溶解性記憶』という病気のようなものを発症させ約二年間生きているらしい。らしいというのもおかしな表現だと思うけれど、曖昧に表現する方が僕的には正しいのだ。何せ頭の中は二年前の十九歳で止まっているのとほぼ同義なのだから。

 『溶解性記憶』、簡単に言えば一定の時間が経つとその間の記憶が溶けてしまうというそんなもの。今の僕が記憶を保持できる時間は二十四時間、区切りは深夜二時、そこを過ぎると昨日の深夜二時からの記憶は溶けてしまう。

 これまでの記憶はあるから生活の仕方、に困ることはないとは思うけれど、普通に一人で生活するのは困難だろう。なにせなんで病院で寝ているのかすら朝起きた時はわからないのだから。

 首に下げた懐中時計を見る。僕の記憶の問題を知らされてからだいたい十四時間が経った。そしてその十四時間分の記憶が消えるまであと五時間。

「どうしようかな」

 暇だからとりあえずカラカラと音を引きずって病室の外に出てみた。まだ春だけれど今日はそこそこに暖かい。こんな小さなことすら記憶できない自分が少し嫌になってしまう。

 忘れるために目的地を設定しようと、すぐ目の前にある病院内の案内図を見る。

「食堂にでもいくか」

 指先でウエストポーチに直に入ってる小銭を弄りながら、どれくらい入ってるかを計算、算出する。

「八百円くらいか?」

 まあそれくらいあれば何か食べられるだろう。そもそも開いてるのかわからないけれど、まあ別に開いていなければ開いてないでいい。暇つぶしに、趣味として食べに行くそんな感じなのだから。

 カラカラと音を聞きながら広い廊下を歩き、エレベーターを使い地下一階の食堂にたどり着く。

 いい匂いがする。病院食堂、というよりも高級レストランみたいな感じだ。

「うわぁ、これは入りにくいな……」

 僕の今の格好は病院から借りた寝巻き、ドレスコードがあるとは思えないが入りにくい。とはいっても中で食べてる人はあまり多くなく、両手の指があれば数え切れるほど。しかもその半数以上は僕と同じような服装だった。

 ガラス扉に貼られている注意事項を読む。ペット禁止とかかれているが、僕のペットのリードはしっかり血管に刺さっているし、吠えることもなければ毛が抜けたり不衛生なこともないだろうし問題ないだろう。カラカラと足音はなるけれど。

 扉に近づき、扉に開いてもらう。

「いらっしゃいませ。こちらに入院なさってる方ですか?」

「入院っていうより、研究対象みたいな感じなんですけれど……」

 そう、僕はこの病気を治すため、というより研究されるためこの病院にいる。

「お名前お伺いしてもよろしいですか?」

「青山です」

「青山さんですね、かしこまりました。お好きな席にお座りください」

 適当な席に座る。椅子のクッションが効いてて、なんとなくいい店に来たんだなって気分になった。まあ店ではなく食堂だけれど。

「ここってあれか、一応レストランとしても機能してるのかな?」

「ええ、そうですよ」

「うぉっ⁉︎ びっくりした」

「失礼しました」

 とにっこり笑う店員。豊かな膨らみを持つ胸元に付けられている名札には『すずき』と書かれていた。漢字は鈴木だろうか?

「お冷や、それとメニューです。青山さんみたいにこの病院に協力されてる方は毎日一つ無料なので是非」

「あ、そうだったんですか」

「では、メニュー決まりましたらお呼びください」

 失礼しますと言って、すずきさんはこの場を離れた。

 メニューを開くと和洋とそしてさらに中華、様々な美味しそうな料理が載っていた。しかも全て千円以内ととてもリーズナブル。患者用になのか半分にするということもできるらしい。

「そうすると半額になる、ってことは五百円以内で食べられるのか……お財布にも優しいな」

「メニューお決まりになりましたか?」

「うぉっと、えーまだ呼んでないですけれど?」

「暇なんですよ、少し構ってください」

 それでいいのか店員……厨房の方を見たが、誰もあまり気にしていない様子。

「平日のこの時間は外からのお客さんを入れないので暇になるんですよね。しかも今日に限ってあの子来てないですし」

「あの子?」

「んー、そっちは来た時のお楽しみということで。あ、メニュー決まりました?」

「ああ、そうだった、どうしよう」

 ぺらぺらともう一度メニューをめくり眺める。

「今日のおすすめは、冷麺ですよ」

「じゃあそれで」

「かしこまりました」

 メニューを閉じ机の端に寄せて、空いた手で水を一口。軽くレモンが効いてて美味しい。

 五分ほどで冷麺がテーブルの上に置かれた。そこそこに大きい器に、細い麺、軽く酢が香ってくる薄く茶色がかったスープ。卵、トマト、きゅうり、鶏肉、その他にもたくさんの具材が上に乗せられている。

「豪華だな」

「ですよね、これで六百円なんですから安いですよね。あ、青山さんは無料ですよ」

「確かにこれで六百円は安いですね。僕はタダだけれど」

 でもまあ、タダより高いものはないともいうけれどこれが無料で食べられるくらいの仕事はできていると思いたい。

 『溶解性記憶』はあまり発症例がなくそもそもの研究が進んでいない。治すことは現在では難しく、病状を進めないための措置だけでいっぱいいっぱいらしい。僕が生きている間にこの症状が良くなる治療法が見つかればラッキー、そのくらいに考えていて欲しいと今朝言われたから、まだまだかかるのだろう。

 そんなことよりまずは目の前の冷麺だ。

「ではいただきます」

 麺を持ち上げるだけでふんわりと香るだし。これはかつおだしだろうか。啜るとうまさが口の中に広がり、麺に歯を食い込ませるようにするとまたうまみが広がる。一口、また一口と次々に入れたくなる。

「うん、美味い!」

「でしょう? 青山さん好みに私が作りました」

 好みなら仕方ないな! 美味い!

「ん? 僕と会ったことあるんですか?」

「ええ、ほぼ毎日のように来てくださいますからね、好みも覚えますよ。よく私のおしゃべりにも付き合ってもらってますし」

「あー……」

「申し訳ないとかやめてくださいよ? 一応私はここの従業員で、青山さんはお客さんなんですから、サービスですサービス、お仕事。だからちゃんと最初に名前も伺いましたよね?」

 まあ確かに、そう言われるとそういうサービスだと割り切ることはできなくはないけれど、複雑だ。相手は覚えているのに僕は覚えていられない。

「いつもどおり、たまにはゆっくりお喋りしましょうよ」

 いつもどおりなのか、たまにはなのかわからないけれど僕にとっては初めてだ。それが嬉しくもあり悲しくもあった。

「あ、お冷や持ってきますね」

 いつの間にか飲み干していた水。言いたいことがあったのだが、あのほのかな酸味と同時に飲み込んでいた。

 小走りで向かい小走りで戻ってくるすずきさん。

「はい、お冷やです」

「ありがとうございます。このレモン水、美味しいですよね」

「そうなんですよ、しかも結構人気で患者さんの中にはこれだけ飲みにくる人もいるらしいですよ」

「へぇー」

「すっきりしますからね、ごくごくいけちゃいます」

 すずきさんは新しいコップにレモン水を注ぎこくっと一口飲む。

「ぷはー、仕事終わりの一杯はいいですねー」

「仕事終わったんですか?」

「まだですよ?」

「……仕事中の一杯じゃないですか」

「まあまあこういう美人な人に話しかけられて青山さんも嬉しいんでしょー?」

「美人とか自分で言うんですね……まあ否定はしないですけれど」

「そうでしょうそうでしょう」

 この人本当に酔ってないか? 大丈夫か心配になってきた。

「最初に美人と言い出したのは青山さんですからね」

「僕、ナンパでもしたんですか?」

 それに対してすずきさんはにっこりと静かに笑うだけ。その笑顔は美人のものだったが、まあ怖かった。


 一時間ほどおしゃべりをして、満足したのか食堂の奥に消えていったすずきさん。持ってきたレモン水の残りはコップいっぱい分ほどだった。

 思った以上にするっと胃に落ちた冷麺。お腹に溜まったけれど、それでも何か物足りなかった。とりあえず残りのレモン水を全て入れてしまう。

 何か追加で頼もうかと考えていると扉の開閉音とともに、コツンと床を叩く音が聞こえた。ヒールか何かかと思ったが違った、杖だ。

「綺麗……」

 口から漏れてしまった言葉、聞こえてなければいいなと顔をレモン水のほうに戻す。夜空のような黒髪に透けるように白い肌、真っ白の病院服は天使の纏っている布のようでどこか神秘的に感じた。

 しっかりと見ることもできなかった顔だったけれど、確かに整っていたのは理解できた。けれど目だけは彼女の顔に巻かれていた白い包帯で見ることは叶わなかった。

 レモン水を煽る。奥からすずきさんが出てきて一瞬だけ目が合った。すずきさんは白い杖を持った女性と何かを話している。

 二人は楽しそうにしながら食堂の隅、黒いピアノに近づいていった。すずきさんがポケットから鍵を取り出し、そして鍵盤の蓋を開ける。

 白い杖をすずきさんが預かり、椅子に座る。すらっとした長い足で床をとんとんとノックし、ペダルに触れる。彼女の指が鍵盤を押したのだろう、音が鳴った。和音、よくお遊戯会とか小さかったときに聞いたあの音だった。

 懐かしい。

 一瞬、強い振動を感じた。太鼓のような大きな音だったわけでも、トランペットのように高く遠くに通る音だったわけでもない、ただのピアノの優しくて丸いあの音だったと思う。

 けれどただの440Hzという単純な振動数だけではなく、そこに確かに何かが乗っていた。dBなんてものでは表せない音の大きさと重さがあった。

 彼女が弾いた音楽は色彩豊かに描かれ、表現され、食堂という一つのステージをきらきらと駆け抜けた。目が見えていないはずの彼女が表現した音は繊細で、全てが心地よい音色になっていた。

 三十分ほどだろう、もっと聞いていたいという気持ちと、満たされたという気持ちが渦巻き僕は気がついたら拍手をしていた。

 天使のような彼女が白杖も使わずこちらに近寄ってくる。

「音楽、お好きなんですか?」

「え、あ、まあ、人並みには好きですよ?」

「そうでしたか、月並みな返答ですね」

 彼女は失望したとでもいうかのように顔を僕から背けた。

「なんでそんなにがっかりしてるんですか……」

「いえ、いきなり立ち上がって拍手しだすような人なんですから、少しは面白い回答を期待してしまっていたんです」

 普通で悪かったな、と苦笑した。

「音って、貴方にとってなんですか?」

 そんな僕のなんとも言い切れない雰囲気が伝わってしまったのか、少し語調を強め彼女は問いかけてきた。

「僕にとって音?」

「ええ、そうです。私にとって音は翼です」

「翼?」

「どんなところにも届く翼なんです、私にとっては」

 ——貴方にとって音はなんですか。

 そもそも何故彼女は僕にこんな問いをしているのか。気まぐれか? 多分違う、本当に失望したから試しているんだろう。目が見えない、それなのにあのとき彼女は杖も持たないで一直線に僕のもとにきた。その通り道にテーブルがなかったのが幸いだが、一つでもあればぶつかっていたしもしかしたら大怪我に繋がる可能性もあった。なんて答えれば……違うか、そっか。模範回答はいらない、貴方の答えを出せと言われた気がした。だから笑って答えた。

「光」

「ひかり、ですか?」

「あなたの演奏を聞いてきらきらしてるな、ってそう思いました。心が和むまろやかな音、でも何かを湧き立たせるような力強い色彩を持った光だな、って感じたんです」

 いつのまにか僕を見上げていた彼女。白いものを巻かれた顔は半分以上見えなかったけれど、それでも驚きを浮かべていた。

「……本当に音楽、人並みなんですか?」

「中学校のときにピアノを趣味で弾いていたくらいです。人並みでしょう?」

「趣味、ってことは好きだったんですか?」

「今でも好きなことに変わりはしませんよ。でもあんな風に圧倒的な芸術と落書きを行き来するものをみせられてしまったらね、人並みでしたとしか言えないですよ」

「人並み、なんて嘘じゃないですか。変な人ですね、ふふっ」

 僕は彼女の反応に顔を背けることしかできなかった。記憶したい美しいものだったと、可愛いものだったとわかったからこそ、見たくなかった。

「ねえ、名前教えてくれませんか?」

「僕? 僕は青山」

「青山さんですか。わかりました覚えておきますね」

 とんとんと彼女は自分の頭をその細長い指で弾く。

「あの、あなたの名前は?」

「私ですか?」

 ふっと微笑。

「答え、出してますよ」

「え?」

 どちらが出した答えなのかも言わずにピアノの方に彼女は戻っていってしまう。戻ると、すずきさんに白杖を貰って、そして彼女はいつのまにか食堂の扉のところにいた。

「青山さんっ! また会いましょうね!」

 と澄んだ声が食堂に響き、それがろうそくの火のようにゆらゆらと揺れ消えた。

 彼女の背中を見たまま僕は立ち尽くしていた。

「青山さん、彼女凄くないですか?」

「凄い、うん凄いですね」

「青山さんもあの子と仲良くなれるなんて凄いですね。どうやって口説いたんですか? あの子……あの子って失礼ですね青山さんと年齢同じですし。でもどこか幼く感じてしまうんですよね、私年取ったのかなぁ……」

 凄いところ、良いところをマシンガンのように発信するすずきさん。その通りだと思えるところはたくさんあったと思う。けれど僕はそのほとんどを聞き流してしまっていた。

 気がついたら屋上にいた。時計の短針と長針は仲良く重なっている。僕の記憶が消えてしまうまであと二時間。こんなに消えてしまうのが怖いのは、悲しいのは、寂しいのは、嫌なのは初めてだった。

「初めてで当たり前か」

 毎日記憶が溶けてしまうのだから。

「ああ、嫌だなぁ。嫌だ」

 悔しかった。今にも泣いてしまいそうで、それをこらえるために屋上のフェンスを力強く握っていた。八つ当たりだった。

「奇跡、起きないかなぁ」

 無理な願いだった。でも、それに近しいことは起きた。コツンと音が聞こえた。

「青山さん?」

「えっ?」

「あれ、なんでこんなところに、ってなんで泣いてるんですかっ⁉︎」

「泣いてないですよ」

「いや、今の鼻をすする音は泣いてる人のものですよ」

「花粉です」

「泣いて」

「ません」

 大きなため息をつかれた。

「じゃあ花粉ということにしておきますね。そんな花粉症の青山さんがなんでこんなところにいるんですか?」

「気分転換みたいなものです」

「そうですか。私はいつもこの時間ここに来るんですよ。流石に雨とかだと無理ですけれどね」

 暗闇で彼女の笑った顔がほとんど見えなかったのは幸いだった。また記憶が消えて欲しくない理由が増えてしまう。

「そうなんですか」

「よかったら青山さんも毎日ここに来ませんか?」

「僕は……来られません」

「そうですか……」

 悲しそうだった。悲しませてしまった。

 ——あと一歩、あと少し勇気を出せ。僕が僕として誰かの中に残るために。

「でも、またどこかで問いかけてください」

「問いかけるんですか?」

「そうです。あなたの欲しい答えを絶対に出してみせます」

「面白いこと言いますね。じゃあ、今一つ聞いてもいいですか?」

「ええ、もちろん」

 彼女を真正面から見る。大人の女性の艶やかさと同時に、可憐な少女の笑みを僕は受け止めた。

「月、お好きですか?」

「ええ、人並みには」

 彼女はにっこりと笑ったままだ。

「月は綺麗ですからね」

 あなたの翼に僕は虜になった。だから今度は僕のどこまでも届く翼で月の光を捕まえにいこうと決めた。何回出会っても一目惚れするあなたに、挑戦状を突きつける。

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