017

璃々がお風呂からあがってきたことにも気付かずに、机に向かったまま船を漕いでいたものだから、そのままもうふたりで寝てしまうことにした。ふかふかの布団は大きくて、ふたりとも小柄な体格ではあるけれど、一緒に被っても十分に余りある。上向きに寝転んで少し背中をそれば、そこには満点の星が広がっているのがみえた。璃々も似たような動きをしていたようで、ふたりそろって同じ瞬間に背中の力を抜いたものだから、予想以上にベッドが揺れて、顔を見合わせて笑ってしまう。


「…今日は空がとても明るいわね」

「そう?」

「ええ。ひかりが、目に刺さりそうだわ」


そういって、そっとその瞼の裏に彼女は真珠を隠してしまった。綴じた瞼がかすかに震えるのをみてから、もう一度空に視線をのばすと、確かにここ数日のなかではいっとうに晴れた夜空だからかたくさんの星たちがみえるけれど、教会の窓から見るものと同じ、いつもの夜に思える。


「璃々は、すごいね」

「なあに?いきなり」

「わたしには、いつもの空に見えるから。…きっと璃々は小さな光も掬いあげられるのね」


そうかしら、といってこちらにころり、と向き直った彼女は、そっとこちらの目元に、そっと手を伸ばしてくる。


「もかのめは、ひかりを映すことが出来る瞳よ」

「そうなの?」

「ええ、反射するのかしらね?とても、きらきらしているわ。…わたしはうつらないけれど。色彩が濃いから、かしらね」


ゆるりと細められた彼女の瞳には、たしかに星は映し出されてはいないけれど。


「それは、璃々の瞳に真珠があるからでしょう?」

「え」

「真珠。真珠があるの。ころころしていて、たまに、砕けて…でもまた丸く、そだつの」


やわらかい光が、中できらきらとしているから。きっと映る前に、星の光の方が逃げていってしまうのだ。


「璃々の瞳は、海みたい。真珠が育って、さらさら砕けたり、ころころ転がったりするの。すこしぼこぼこで、それでもきれい」


だいぶと瞼が重くなってきたからか、星の光はぼんやりとかすんできたけれど。

向かい合った彼女の瞳の真珠はどこまでもやわらかく煌めいていて、いっとうきれいで、このましい。

その目元に、そっと手を伸ばして。こちらを真っ直ぐに見つめるそれを堪能していると、自然に頬がゆるんでくる。


「まさかそんなふうにいわれるだなんておもってもみなかったわね」

「…なあに?ききそびれた…」

「いいえ?だいぶとねむそうね…おやすみなさい、もか。またあしたね」


おやすみなさい、というその言葉がなんだかとても懐かしくて、それよりも胸が暖かくて、一気に瞼は重くなった。おぼえていることができたのは、そっと胸元まで布団をかけてくれる感触まで。おやすみなさい、と呟いた自分の声は彼女に届いただろうか。





大きな窓からさんさんと降り注ぐ太陽に自然と目が覚めたとき、璃々はもういなくて、そっと手を伸ばして触れたシーツも冷え切っていた。眠るときはいなかったはずの彼は、いつの間にやってきたのだろうか、いつもどおりに首元をあたためてくれているものだから、そっと顔を擦りよせてゆっくりとした瞬きをひとつ。応えのつもりなのか、彼はきれいな金色の瞳でこちらを見遣ってからむんずと顔の上で伸びをしてくるのには、首を振って抵抗した。踏ん張った後ろの足爪が刺さるのは、ごめんこうむりたい。


あれほど籠っていた熱が腕に残っていないことを確認して、ほんの少しだけ呼吸を抑えて、ゆっくりと動かしはじめる。指先からひとつずつ握って、痛むところを確認して。手首を動かして引き攣るような違和感があるのはいつものこと。いつも以上の痛みがないことを確認し終えてから、机の上に畳まれていた衣服に手を伸ばして、身につけていく。


白のブラウスに黒のスカート。

靴下に足をとおしてから、コルセットを苦しくない程度に締めて。

最後にブーツの紐を編み上げて、首元で金具をそっと留める。


助走をつけて肩に飛び乗ってきた彼が落ち着くのをまって部屋から出ようとすると、ぱたんぱたん、と尻尾で口元を叩かれるものだから、どうしたのだろうかと視線を合わせれば、腕の中へと滑り落ちてきた。まんまるな瞳に不服そうな色彩が揺らめいて、そのままちいさな鳴き声をひとつ。その声に自分が忘れていたことを思い出して、こちらは苦笑をひとつ。


「おはよう」


ひさびさに告げたそれに、彼はゆっくりとした瞬きをこちらに渡してくれる。

今日からひとつ、毎朝の日課が増える。まだ慣れないけれど、きっとそのうち、この言葉が自然とこぼれるようになるのだろうか。


(なるといいな)


忘れていたら教えてね、なんて、情けないお願いをしたこちらに、しょうがないなあと言わんばかりにこちらの頬を叩いた尻尾は、ほんのりと痛いけれど、どこまでもやさしい。

どうしたってふるえてしまう手を一度握りしめてから扉をあけて廊下に出ると、其処には珈琲のいい香りが漂っていた。ぱたぱた、と軽やかな足音が聞こえてくる方向に進んで、扉の前で深呼吸をふたつ。ノックを、みっつ。


はあい、と軽やかに返された声にこたえて、そっと扉をあけて。閉めることも忘れて、おはようございます、と告げた自分に、ふたりはあたたかな笑顔を浮かべて、おはよう、と返してくれた。





毎日、オルガンを弾きつづけている。

よろこびに、かなしみに。そのひとの色彩が、どうかつめたくこおりつくことのないように、願いをこめる。

祈りの姿をとることはできても、音が出ない自分の声は。誰にでも、どこにでも届くわけではないけれど。


「こんばんは、もか。お隣に座ってもいいかしら」

「いらっしゃい、りり。どうぞ」


すぐそばで、聴きとってくれるひとがいて。


「今日は、何を弾くの?」

「えっとね…」


自分の音にのせて謳ってくれるひとがいる。


「さいごに、いつもの。…いい?」

「まかせて」


とびらの向こうをのぞくたび、指先は震え、腕の傷が痛むけれど。

まだまだ、よわいままだけれど。


(ねえ、先生)


鍵盤を押して、教会に、そして街に響き渡る音が。

ほんの少し、自分の指先に。

ぬくもりを伝えてくれている、そんな気がするのだ。








______________________________

第一章 完


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