016

ある程度水気をぬぐった彼を腕の中に囲ったまま、先程まで食事をしていたリビングに向かうと、まだ夏樹は食事の時の姿のままで、書き物をしていた。すぐにこちらには気付いたようで、そっと視線を向けてくれたものだから、お先にいただきました、と彼の掌に記すと、おあがりなさい、と笑って、そっと水の入ったグラスを差し出してくれる。


「(入浴剤、すてきなかおりでした)」

「ああ、気に入ったのならよかった」

「(植物があんなにいっぱい入っているのに喧嘩していなくて、小さなお花屋さんみたいで)」


お花屋さんか、それはいいね、とやわらかく微笑む彼にそっと促されて、器の中身を口に含む。ほんのりと檸檬の香りが口の中に広がったあと、冷たいけれど痛くはない温度が喉から滑り落ちていく。


「(おいしいです)」

「よかった」

「(檸檬と、すーってするのは、ミントですか?)」

「正解。あと少しだけ野苺も」

「(のいちご)」

「ちょっとだけだからね。檸檬がやさしくなるから」


冷たいグラスの表面では、こちらの手の温度であっという間に露が身を結んで、伝い落ちていく。それらを軽くタオルで拭きとって、そっと机の上にのせると、じゃあそのままちょっと腕を見せてね、と手を差し伸べられたから、服をまくってからそっとその手の上に腕をのせて。


「塗ってたところはー……腫れてないな、よし。痛みとか、ぴりぴりするとかは、ない?」

「(ないです)」

「そう。じゃあ、また塗って、明日の朝に確認して。それで問題なかったら、明日から使っていこうか」

「(はい)」

「塗り方とかは、また明日教えるけど。塗ってるからって、無理は禁物だからね。薬は君の身体が頑張って治すのを手助けするだけだし、ちょっと君自身が楽になるようにも作用するけど。ちゃんと治すのは自分の身体で、その身体をいたわって、ねぎらって。整えるのも、君の仕事。…わかる?」


その時の夏樹の瞳が、一瞬。夕方の橙に照らされながら覗きこんで、どうかこの曇りを晴らせることができるなら、とねがった、璃々の瞳と重なる。



彼女はなんと、自分にいったのだったか。

(まもりたいものをもつひとが、自分自身を傷つけていくのは。どうやっても、私はまもれない)

その白い瞼にはうっすらと揺らぐ水の膜が張りながら。綺麗にきれいに、わらいながら。

(みんなにやさしい貴女の音は、貴女にだけ、いっとう優しくない)

瞳の真珠を砕いて、揺蕩う藍色に溶かして、一筋だけ。溢れた涙はそのままに、散る姿さえ見ることなく。

(貴女があなたを傷つけるのだけは、わたしはまもれない)



オルガンを弾くことができるなら、それでよかった。

だれかの声にぬくもりを添わせるように、鍵盤の上で、指を躍らせて。


(ああ、でも)


音を繋げて、曲に。こころが、ちゃんと届けたいひとに伝わるように。祈りがそらへと届くなら、それで。


(わざと傷付けていたつもりは、ないけれど)


弾けば弾くほど。ああ、今日は届いただろう、と笑顔がこぼれる、その日ほど。

腕が痛むのだ、ということに。胸が痛むのだということに、気付かないふりをしたのは、いつから。


(…先生が、いなくなってから)


それから。自分で、いたわっていただろうか。ねぎらっていただろうか?

やさしく、薬を塗ってくれたひと。止めずに、受け止めてくれてくれたひとが遠くにいってしまってから。

視線を落とす、その先。まだほんのりと熱を孕む腕に、ぐるりと円を描く傷跡。

その傷を直視しなくなっていつから。いつだって、動くものだ、とみなしたのは、いつから。


「(すこし、わかる気が、します)」

「……うん」

「(今まで、たぶん。上手にできていません。けれど、できるようになりたいです)」

「そう」


それは、良い心掛けだね、と言って。綺麗に微笑んだ青年は、ひとつの贈り物をくれた。





璃々がお風呂に入ってくる間、彼女の自室で待たせてもらうことになった。作り付けの収納がない部屋の中、驚くほどに彼女の私物は少なくて、腰ほどまでのトランクひとつがベッドの傍にそっと置かれているのみだ。ざっとみても、身支度を整えるものと衣服、小さな雨具。少し厚みのある革の書類ケースは開いたままになっていて、中からはおそらくこれまで彼女が覚えてきたのであろう譜面が覗いていた。どれも似たようなところが少し変色しているのは、きっと、彼女の持ち癖だろう。それとは別に、少しざらつきのある紙で作られた封筒のようなものには、今日手渡した譜面たちが入っている。このこたちも、そのうちに跡がついて革のケースの中へと合流するのだろうか。そうだとしたら、なんだか胸がくすぐったいけれど、うれしい、と、こころが咲う。


腕に着替えを抱えながら扉をあけての振り返り際。好きに使ってくれていいし、何なら探検しててもいいのよ?なんて、悪戯っ子のように瞳を煌めかせた璃々に甘えて、窓際に添えられた小さな机の前に座った。部屋の角を巻き込む形で机の高さにまで広く設けられた窓からは、ちょうど月の光が差し込んでいていて、特別な明かりは必要ない。


そのまま、夏樹からもらった贈り物を机の上に広げる。労わることができるようになりたい、と告げた自分に、じゃあこんなことから始めてみたらどうかな、と彼が渡してくれたのは、一冊のノートだった。何色が好きかと訊ねられて、黒が好きだと返した自分に、そっと彼が差し出してくれたのは二冊。中身は同じものだけれど装丁が異なるようで、一方は黒地に銀で繊細な雪環が描かれたもの、もう一方は黒地に柔らかい金色でカモミイルとラベンダーが寄り添うさまが描かれたもの。どちらもそれぞれ細い線で箔押しされた丁寧なつくりをしていて、いただいてもいいのだろうか、と首を傾げたけれど、まだあるから使ってやって、と言われたので、ありがたく後者を受け取ってきた。

そっと手を添えて表紙をめくれば、てのひらふたつほどの広さを持つ見開きは柔らかな乳白色をしていて、うすく罫線がはいっている。ページの左上角にはラベンダー、右下角にはカモミイルの花がそっと彫られていて、ページをめくるごとにそれぞれ花弁の開き具合が変わるようだ。一番初めのページでは、こぼれんばかりに開ききったラベンダーと、そっと蕾の中に空気を含みつつ二欠片ほど花開いたカモミイルがそこに在った。


(思ったこと、考えたこと。好きなことを書いたらいい)

(でも、反省ばかりは書かないこと。ひとつ反省を書くなら、ひとつ、自分を褒めること)

(まずは深呼吸をしながら、ゆっくり書いて。次の日に読み返してみるといいよ)


やわらかく目を細めながらひとつひとつ、夏樹は丁寧に教えてくれた。その表情を思い浮かべながら、そっと自分の荷物から取り出してきたペン先をインク瓶の中ほどまで浸す。溝までゆっくりとインクが伝ったのを確認して、まずは日付から。

真白のノートに文字を落とすというのは緊張するもので、思わず呼吸を止めてしまっていたから、一度、筆をおいて深呼吸をした。そこから、もう一度、ペン先の向きに気を付けて文字を遺していく。


弾いた曲のこと。選んでもらった花の種類。食べたごはんとお店の名前。

はじめて自分が弾いた子守唄に、声がのったこと。お裾分けしてもらったハーブティのこと。

そして、今日知った、過去の話。声が届いた話。


書き出したらいっぱい書くことがあって、選ぶのは難しくて。途中で選ぶことをしなくてもいいか、とそのままに書いていくと、あっという間に見開きが文字で埋まった。


(いっぱい書く日も、たった数行しか書かない日があってもいい。でも書くことを習慣にして)

(振り返って。なにか自分の調子に添うものを見つけられたなら、それを大切にするといい)

(それがみつかるまで、ゆっくり書くことに慣れてごらん)


黒のインクが乾くまで、見開きのまま、ノートの箸を軽く押さえておいて。窓からそっと外を覗けば、いつもなら見えない、西の丘にそびえたつ灯台が見えた。街の人々の墓所である丘を照らす明かりは、陽が落ちてからまた昇るまで、絶えず、そっと数多の人々の眠りに寄り添っている。


今日は、たくさんのことを知って。たくさんの出会いをした。

今日から、それを少しずつ、このノートに落とし込んでいく。

明日には、今日をまたもう一度ひろいあげて。

明日も、インクで写していく。


(ああ)


ひさびさに、明日について考えたな、なんて。

すんなりと受け止められた自分が、うれしくて、ほんの少しだけ、寂しかった。



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