015
飲み込んだ珈琲のあたたかさは、鳩尾のあたりをくるくるとまわりめぐった後、身体の中に根を張るようにじんわりと沈んでいった。話もひと段落したときにはもう夜更けだったから、泊っていくといい、という夏樹の言葉にはそっと甘えることにして、三つのカップを、流しにまで運んで洗う。アネモネのカップは水洗いしてしまうだけでさっと綺麗になるのに、木苺と南天のそれはそこに砂利ついた砂糖であったり、縁にひとまわり描いて残ったミルクの泡だったりは、少し温めた水で何度か擦らなければいけなかった。
「なかなか、落ちないね」
「淹れてから、けっこう時間が経っていたものね。……夏樹もね?よく作業に集中してしまって、淹れた珈琲のミルクがかびかびになってしまってね。若干申し訳なさそうな顔をしてカップを持ってくるのよ」
あっという間にざるの上に揚げられたひとつのカップは、相も変わらず綺麗な花を地面に向けて咲かせている。すぐにでもほかの飲み物を受け入れられるような姿に、胸の中からちいさなだれかが、とんとん、と胸を叩いてくるけれど、気付いていないふりをした。ひとりぼっちのそれは、あっという間に棚の中でそっとたたずむだけの姿に戻ってしまったとしても、自分が選んだ彼女のカップであるはずなので。
「…璃々は、苦いのが。好きなの?」
「苦いのが、好きというか…そうね、一番初めに飲んだときがブラックで。馴れてしまったしね」
「お砂糖を入れてみたりは?」
「しない、かな……ブラックでもおいしくいただける味覚だし、まあ、洗いやすいに越したことはないもの」
「そっか」
きっと。お砂糖を入れたこともないのだろうな、なんて思いながら手を動かして。言葉が途切れるころにはちょうど洗い終わっていたから、ひとつずつカップを拭いていく。すべての水滴を取り込んだ布巾は、そっとやわらかい重量をまとっていた。濯いだ後に折りたたんで絞ってから、もう一度開いて璃々に手渡すと、ありがとう、と笑って受け取ってくれる。彼女がシンクの出窓にそっと手の中のものを引っ掛けている間にカップを元の棚に仕舞った。奥に隠れていたアネモネの場所にそっとほかのカップをずらして、木苺と揃いで並ぶように置いたのは、小さな悪戯心も交じっている。そこは、彼女が次に引き出しを開けた時に手を伸ばしやすい場所だ。そっとカップの縁をなぞって、おまじないのような、ちいなさ祈りをもう一度閉じ込めておく。
「さてと、後片付けはおしまい!もかはお風呂にはいってしまって?寝間着は脱衣所にでも置いておくわね。洗濯するものはあるかしら」
「お風呂の中で洗ってもいいのなら、服とかを少し洗ってしまいたいのだけど。明日までに乾くかな」
「店の暖炉で乾かしてもいいのなら大丈夫と思うけれど、それでもよい?」
「もちろん。ありがとう」
じゃあ、案内するわ、といって背中を向けた璃々に着いてふたつばかり木製の扉をくぐると、ちいさな鏡と洗面台が備え付けられた小さな部屋に着いた。鍵の場所だとか小物の配置などを丁寧に教えてくれる。甘い香りとすっきりとした香りとどちらが好き?と訊かれたので、甘い方が好き、と伝えると、じゃあこっちね、と、ひとつの巾着袋を渡された。リネンだろうか、少しざらざらとした手触りの袋をそっと両手で包み込めば、かしゅかしゅとした音が鳴る。
「開いてみてもいい?」
「どうぞ」
お湯の中では開けないでね、と、笑って告げてくる彼女に、頷きをひとつ返して。結わい紐を弛めたところで、覗きこまずとも、手の中から香りが立ち上った。ほんのりと甘めのやさしい香り。ラベンダー、カモマイル。甘くなりすぎないようにか、ローズマリーもひとさし。それ以外はドライフラワーになっているからか、見覚えのないものがほとんどだった。多くの花弁のなかで、角の取れた片手で包み込んでしまえるほどの石がころころと転がっている。お互いにぶつかっても音がしない不思議な石で、その道行きで小さく花弁が砕けるとまた新たなにおいが立ち込めるようだった。
「いいにおい」
「でしょう?それも、なぎの手作りよ。私も少しだけ手伝っているけれど」
「そうなの、…この石、すてきね」
「中に使われている植物は、私はわからないのだけれど…季節にあわせてなぎがひとつひとつ選んでいるのよ」
それを訊いてみてもいいだろうか、と溢すと、喜ぶと思うからぜひきいてみてちょうだい、と笑ってから、璃々は浴槽の使い方を教えてくれた。
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湯船にそっと巾着袋をおいてから、湯張りをして。水音が立ち、湯気がもうもうと白く立ち込める間に、今日着てきた服を洗った。直接肌に接していたものはいつもどおりにもみ洗いをして、ワンピースはたたんで押し洗いをすることにして。石鹸を溶かした温水にシャワーを当てて、軽く泡立てたあとに服を浸して揉みこむ。すこし透明さを落としたぬるま湯の中で、ゆらゆらと襟元のレースが揺れた。水を替えて、もうあと三回。
洗い桶も濯いで、その中に衣服を収めるころには湯船にはたっぷりとお湯が入っていた。そのまま湯船への水を止めて、髪の毛と身体を手早く洗ってしまう。動かせば、まだ少し腕は痛んだけれど、そこまでひどいものではないのでそのままにした。まだまだ外は寒くて、食事などでじんわりとあたたまってはいたものの、肌の上をあたたかな温度が通り抜けていくのは、いっとう心地よい。
全てを終えてから、そっと足先を湯船につけたところで、外から躊躇いがちに自分の名前を呼ぶ璃々の声に気付いたからそっと扉をあけて。顔だけを覗かせてみれば、タオルや寝間着を持ってきてくれたらしい彼女の足元には、ちいさな彼がその黒い尻尾を振ってこちらを見つめている。
「えっと、ね?このこ、キッチン周りで鳴いていて、百架を探しているみたいだから連れてきたのだけれど」
「ああ、なるほど。…たまにね、一緒に入るの。それでかな」
「良かったら一緒に入ってあげて。ああ、あと髪をまとめるものも、持ってきたから、良かったら」
「ありがとう」
服は預かるわ、と中身だけを取り出していった璃々が扉の向こうに消えていくのを見送ってから、そっと、首を傾けて微笑みかけると、足元にすり寄ってきたので、そのまま抱え込んで。洗い桶の中でその小さな肉球を揉み洗いしてから、そっと桶の中に湯船のお湯を入れて、そっと小さな背中にかけてやった。首元とお腹のあたり、白い毛並みにもそっとお湯をかけていくと、気持ちよさそうに櫖染の目を眇めるのがかわいらしい。じゃあ、おとなしくしていてね、とそっと桶の中においたまま、こちらも湯船の中に身を沈めると、一気に包まれたその温かさに思わずため息がこぼれた。縁にそっと頭を預けて、ゆるりとかかる水圧に、深い呼吸を、もうひとつ。まだ少し強張っている身体から、そっと力を抜いていこうとしたところで、がこん、と大きな音がすぐそこから聞こえてきたものだから、そっと視線を投げかけると真っ直ぐにこちらを見遣る二つの瞳と対面する。そっと腕を伸ばして、その額を撫でるとそのまま器用に腕をよじ登ってくるのに苦笑をひとつ。
家では一緒に湯船につかることもあるけれど、ここはひとの家で。さらにいうと、一番風呂をいただいてしまっているから、さすがに後のひとのことを考えると一緒に入るわけにはいかないのだ。…いかないのだけれど、何度腕からおろしても、桶に戻してもよじ登ってくるものだから、もう一度念入りに洗ってから抱きかかえることにした。後で謝罪はきっちりすることにして、頭の上に彼をのせてそのまま鼻の下まで沈む。
自分以外の心音を感じながら、もう一度、身体の力をぬいていけば。もくもくとたちのぼる湯気にじんわりと涙腺が刺激されたのか、ゆっくりゆっくりと視界が滲んできた。そっと顎元まで上がると、彼は器用に濡れた腹を思い切りこちらの顔面に押し付けながら、肩まで降りてくる。そのまま肩でぶるぶると身震いされたものだから、思わず抱え込んで。顔面のあらゆるところに水飛沫が飛び散っていて、満足したのか一度こちらを見遣った後、耳元に頭を押し付けてくる。そのままうごかずに、出来るかぎりのゆっくりとした呼吸の音が鼓膜から直接、身体の中に響きわたった。
そのまま、ぽつりぽつり、と。言葉を溢してみる。
「つかれた、ね。…一日なのにね、いろんなこと、あったね」
「今度の先生への、手紙は。なんて書こうかな」
ひとつひとつに、尻尾をゆらりと動かしたり、そのやわらかい肉球をふに、と押し付けてきたり。さすがに肉球を揉みすぎると怒られるのはいつものことだけれど、それでも傍から動こうとはしない彼の厚意に甘えて。
「ハーブティは、今度お礼しに行こうね。…お店も、教えてもらえるかなあ。気に入ってたもんね、上手く淹れられるといいんだけど」
ぴん、と立った尻尾にこらえきれず、ちいさな笑いがこぼれた。だいすきなごはんの準備をしている時と、同じ仕草だ。
「きこえてる、の」
そのまま、ぱたり、と、ひとふりゆれる。
「そっか。……じゃあね、いまさらなんだけど、名前でよびたいなあ」
思わずこちらの腕の力が強くなる。うつむいた視界に、おどる黒は、ゆらゆらとやわらかく舞って。
「……だめ?」
頬にすり寄ってそのざらざらの舌で、潤んだ目元を舐めてきてくれたのが、彼の返事だった。
こちらは彼の言葉はわからないけれど、少なくともその仕草は彼がいっとう機嫌が良いときに仕草だったから、良いのだ、と思うことにする。名前は、先生にも訊いてみよう。もしかしたら読んでいた名前があるかもしれない。もしなかったのなら、どんな名前にしようか。つけたとしたら、その名前を喜んでくれるだろうか。
そう考えていたら指先までほかほかとしてきたから、そろそろあがろうか、と彼を桶にのせて。そのまま緩い水流に調節したシャワーをかけて洗い流すとその水がまだ少し冷たかったようだった。慌てて湯船の中に出戻りした彼に、ごめんねといった声は思わず笑いまじりになってしまって。上がり際、じと目の彼に盛大に目の前で身震いをされ、尻尾による両側の頬叩きも食らうことになった。
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