014
じゃあ、すこし長話になるけれど。そういって一口、珈琲を口に含んだ青年の瞳は、どこか遠くを見つめるような色彩を帯びていて。
わたしも訊いて、いてもいい?そう、静かに訊ねてきた少女の瞳は、どこまでもやわらかく、しなやかな色彩を帯びていた。
自分から訊ねたことだというのに、今更ながら、それを知ることを恐れる自分の声にも気付いてはいたのだけれど、気付かないふりをした。
「おねがいします」
あのうただけは、どうしても、譲れなかったので。
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知っていることを時系列順に話していくことにしようか、と。澄んだままの瞳でこちらを見つめて、こちらの緊張をほぐすように、やわく微笑んでくれた彼は、一番初めに、君とは今日が初対面ではない、と告げた。それはどれだけ記憶を振り返っても全く身に覚えのない話で、動揺が現れたのか、手元の水面にさざ波が立つ。そっと璃々がこちらに手を伸ばして、カップを取り除いてくれたおかげで、机の上は大惨事にならずに済んだ。小さく鳴いた彼は、そっと足元にすり寄ってから器用に膝の上まで登ってきて丸くなる。そっとこちらを見守っていてくれていた夏樹は、覚えていないのも仕方がないと思うよ、といった。
「知り合いから連絡がきたんだ。腕に大怪我をしたちいさなこどもがいるから診てくれないかってね。…それまでは、ひとを診たこともなかったし、師匠から独り立ちしたばかりで…はじめは断りかけたんだけど」
あまりにも必死に頼み込んでくるものだから、とりあえず薬箱と応急処置用の器具を持っていったこと。
その時の自分の腕は、一度切断されたその面を糸で縫合されただけの、あまりにちぐはぐな姿であったこと。
傷口は奇跡的にも膿んだりはしていなかったけれど熱を持っていて、油断したらすぐに落ちてしまうであろうと理解したこと。
彼からみてきた当時のことを、出来うるかぎり真っ直ぐに。どんな感情をも重ねてしまうことのないように、ひとつひとつ言葉を選んで話してくれていることがわかる。揺らがないように、大切に。きっと、夏樹の言っていた準備というものは、このことだったのだろう。
「一度診てしまったものはしょうがないから、とりあえずは傷口の熱を抑えることと、傷口が膿まないように清潔に保つことを重点的に処置した。当然だけれど、君の熱も十二分に高かった。…それが下がって。ひとつきぐらいして、傷口が落ち着いて。指先まで神経が通じていることを確認して、教会に引き取られていくのを見送ったよ」
聴こえてくるそれはまるで他人の出来事のように、遠く離れた場所からみている景色のように思えた。金色の星のゆめの後は、気がつけば教会で心配そうに顔を覗き込んでいた先生の顔と。声が出ないことにも両親の葬儀が終わっていたことにも心が追いつかなくて、呆然としていた自分を抱きしめてくれたぬくもりのことしかおぼえていない。
でも振り返れば、その年はめずらしく夏から秋への季節の移ろいを示す雨が降らなかったと記憶している。雨が降っていたのかどうかをきくと、ちょうど雨のじきだったよ、といって、夏樹はその手元から珈琲を口に含んだ。降らなかったと思っていた雨は実は降っていて、その間、自分は寝込んでいたらしい。
「…忘れてしまってすみません」
「ずっと夢うつつだったから、しょうがないんじゃないかな」
「そうなん、ですか」
「…とにかく安静にしておいてもらわないといけない状態で、よく寝てもらったほうが回復も早い時期だった。痛みを薬で全部取るのは難しくて、だから少し眠くなる処方をしていたのもあるし」
お手数おかけしました、と、軽く頭を下げると、いえいえ、と夏樹は淡く微笑んでくれる。両親の葬儀のことは知っているだろうか、と訊ねると、行われたことは知っているけれど参列はしていないから、そのときのことはあまり知らないのだ、といって、応えられなくてごめんね、と返された。
「続き。…まあ其処で出来ることもひと段落したから、俺を呼んだ知り合いが、教会へ連絡した。ここから先は基本的には君と俺は接触していない、知っているのもここまでかな。最後に手当てして、お迎えが来て、見送って、終わり」
「...もしかして、大きな黒貝の塗り薬、夏樹さんのですか?」
「そう、まあちょっとした置き土産。しみなかった?」
「はい、だいじょうぶでした」
ならよかった、そう言って軽くひと息をついて、珈琲を口に運んだ夏樹から、とりあえずここまでで質問ある?と尋ねられたから、ひとつだけ気になったことをきくことにした。
「その、お知り合いの方というのは、金色の髪のかたですか」
「期待に添えなくて申し訳ないけれどちがうかな。ごめんね」
「いいえ...」
「なんでかきいてもいい?」
「...たすけてもらったひとなのだとおもいます」
金色の光。さらさらの髪。そっと頭を撫でられた感覚。一回だけなのにそれはとてもよく覚えている。
それを話すと、大切な記憶なんだね、と言われて。うん、と答えた。
「そういえば、あんまり知らないっちゃ知らないんだけど。風向きによってオルガンの音が聞こえるぐらいからかな、よくとある男性の客が来てね。腕が痛いのに、ひたすらオルガンを弾き続けるおんなのこがいるから、塗り薬を見繕ってほしい、といってやってきてね?」
「え」
「本人診ないと処方できないって言ってんのに、いちばん効果が弱いのでいいからとかうんたらかんたら言ってしつこくて」
「…えっと」
「よくよく話を聞けば君のことだってわかったから、まあ特別に、見送る前に使っていたやつを少し弱めの効き目にして渡したら、大事そうに抱えてさ」
「…」
「これであのこにまだ自分ができることがあるとか言って。あんまりにも嬉しそうにわらうから、まあいっかと思ったんだけど」
「…黒い服でした?」
「うん。教会のひとでしょ?…本人は連れてこれないから、ってね。眼鏡をかけていたっけな、その時までの様子を聴きまくって、それまでに使ったことのある材料の中からだけっていう縛りの中でなんとかかんとか薬を作って渡していたんだよね」
「それは...ご迷惑をおかけしまして」
「いいよ。でも今日診たかんじ、効き目はあれど、最適な薬じゃなかったみたいだから」
ちゃんとこれからは診せること!と、若干じっとりとした目で見つめられてしまったので、慌てて首を縦に振った。そんなこちらに満足そうにひとつ頷いて、それから彼は、そっと視線をやわらかく、やわく、ほころばせて。
…ひとりで、まちにでれるようになったんだなってわかって、きょうちょっとうれしかったよ、と、言って、わらった。
その言葉に。ああ、そこまで知っていて、ひそかにこのひとは見守っていてくれたのだ、ということを知った。
「さてと、俺が知っていることはここまでかな。あとは璃々に聞くといいよ、本題はこっちだし」
いつもの表情に戻りながら、璃々にクリームちょうだいという彼のコーヒーカップの中はまだ真っ黒のままだった。話しにくい内容だったのかもしれない、と、彼を見やれば、気にしないで、と軽く手を振られてしまった。もこもこの泡を乗っけてみると美味しいよ、という彼に甘えてクリームを乗せてもらったら、そのふんわりとした口当たりがだんだんと張り詰めていっているこころの弓をほんの少しだけ緩めてくれる。
じゃあ次は私かしら、といって、璃々は話し出した。街に着いて、教会にある用事で訪れたこと。璃々を謡い手として誘ったのは、先輩だということ。たまに先輩ともお茶していたのよ、なんて言いながら笑った璃々に驚いた。まったく二人の語らいを見た覚えがなかったので。
「あの歌はね、もかが弾いていたでしょう?毎日。それで、いちばんはじめに覚えたの」
璃々は、謡い手を引き受けてから、オルガンのある部屋の窓下で、よく練習をしていたのだという。実は楽譜が元々読めなくて、曲を聞いて音階を覚えていったらしい。そして、そこには時々先客がいたのだといった。そしてそのひとに、楽譜の読み方を教わったのだという。
「先客…?教会のひと?」
「わからないわ。でも違うんじゃないかしら、少なくともお勤めの服のひとではなかったもの。黒髪の、きれいなひとよ。…まあそれでね、それまでは、練習の一番最後に、ふんふーんって鼻歌でうたっているだけだったのだけれど」
鼻歌ってお前ね、と呆れをにじませた顔で夏樹が突っ込むと、その時は詞を知らなかったんだもの、仕方ないでしょ!と璃々が言い返した。そのまま、一度、けほん、と咳払いをして、こちらをじっと見つめてくる。
「全部、教会のうたをおぼえた最後にね、あのうたのことばを教えてくれたのは、そのひとよ」
「え」
「自分は声が低くてうたえないから、うたってやってくれないか、って」
確かに、結構声の低めな方だったわ、と璃々は言った。そのひとが、手元に視線をやって、それでもどこか、遠くへと思いをはせながら、教えてくれたのだという。そのひとの知り合いである女性が、よくオルガンで弾いていたということ。その横で、たまに舌っ足らずの幼子がうたっていたということ。その声を聞いておぼえたのだということ。大きくなったとはいえ、まだちいさいそのこが、ひとりで曲を弾いているのにうたってやれないのは。そんなときまでひとりぼっちなのは、あんまりだから。そう言って教えてくれたのだという。
「名前も聞いていないし、街で見かけたこともないのよ。たまたま、教会であったら話すだけ。だからどこにいるとかは知らないの」
「うん」
「あまりにも大切そうに教えてくれるから、思わず私がうたっていいの、と訊いたのだけれど。よろしくたのむ、としか言われなかったわ」
「…ん」
ほろほろと瞳を解かしながら彼女はわらった。そのひとにとっても、もかにとっても、たいせつなうたなのね、というその声に頷いた。
「かあさまの、しりあいのひとなのかな」
「そうかもね。…したったらずな声がね、ことばがききとりにくくて、それでも、とてもかわいらしかったよ、っておっしゃっていたわ」
「…はずかしいなあ」
こたえになったかしら、とその手のカップを口元にあてながら、そっと璃々は首を傾げたから、頷いた。その手元で、そっと一輪のアネモネが揺れる。少し遠ざけられたままの自分のカップに手を伸ばすと、丸まっていた彼が伸びをして肩に前脚をかけたものだから、そのまま抱え込んだ。
両手の中に木苺を迎えて飲んだ珈琲は少し冷めていたけれど、まろやかで、ほんの少し苦い。今度からは、お砂糖をもらおうかな、と思って、もうひとくち。ふたりの話をゆっくり解きながら、じんわりと目頭が熱くなるのは苦さのせいにして。ゆっくり、カップの底に咲く果実がみえてくるまで、夏樹も璃々もそのままの空気でこちらを見守ってくれているのに甘えて。
さっき彼女に贈ったその言葉が、脳裏に浮かぶ。璃々にことばをおしえてくれたそのひとから、同じものをそっと目の前に差し出された気がした。
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