013
テーブルの上をぎっしりと詰めていた料理はすっかり空になっていた。そのあたたかな美味しさとほんの少しの懐かしさで、箸はいつもよりも進んだものだから、鳩尾から少し下のあたりが物理的に少し膨らんでいる。グラスに残っていた炭酸水を最後に飲み切って口の中はさっぱりしたのだけれど、そうやって一息つけばやはり少し食べすぎた感覚があって、こっそり苦笑しながらもお腹のあたりを少しさすっていると、いつもと違う様子を不思議に思ったのか彼が膝の上に飛び乗ってきて、そのまま手の上にくっついてこようとするものだから、慌てて腕の中に抱き上げた。今少しでもお腹に圧力をかけられると、なにかが出てきそうで少し困る。結局のところ、夏樹はあまり食べていなくて、大半は璃々のお腹の中に消えていったのだけれど、彼女は苦しそうな様子もなくぱたぱたと身軽にまた台所の中を歩き回っていて、失礼ながらも彼女の胃袋は一体どうなっているのだろうか、と思わずその腹部あたりをじっと見つめてしまった。
話を始める前に珈琲を淹れるといった璃々から、こっちにおいでと手招きされる。立ち上がって、腕の中の彼を椅子の上にそっと載せてから向かったその先にはカウンター備え付けの棚があり、彼女が開けた引き出しの中には、同じ形のコーヒーカップがソーサ―と一揃えで置いてあった。そのままそっと前を譲ってくれる。
「好きなものを選んでね。それを、もかのカップにするわ」
「…どれでも、いいの?」
「ええとね、南天と蒲公英は避けてもらえると」
「わかった」
指定された柄をふたつ除いたとしても、たくさんのカップが其処にはあった。ひとつひとつ異なる絵付けは誰かの筆で描かれたものだろうか、すべて植物のモチーフで、緑の濃淡はひとつとして同じものはなく、そのうえで全体としてまとまった雰囲気を纏っている。中でもいっとう目を引いたのは、木苺とその葉を描いたものだった。そっと手を伸ばし、掌の上にのせると、すっぽりと口の狭まったそれはしっくりと馴染む。白磁のつるりとした冷たさの中に、土のぬくもりを感じる、不思議な、素敵なカップだった。ソーサーはシンプルな縁の彫模様はすべて共通で、くぼみの部分にカップと揃いの絵付けが施されている。これにする、と告げると、似合うわね、といいながら、璃々は器を受け取ってくれた。そうだろうか、と首を傾げると、瞳の色と揃いだもの、とやんわり微笑まれる。
「璃々のカップは?どっち?」
「あ、ちがうのよ。南天はなぎので…わたしはどれにしようかしら」
「決まっていないの」
「ええ。というか決まっている方がめずらしいの、なぎは南天で、よくなぎに会いに来るひとがいるのだけれど、そのひとが蒲公英。このこたちは、そんなに使うわけでもないし」
そういって食器棚を見つめる彼女の瞳が宙をみつめて揺らいだ。まるで彼女とカップの間に彼女しかみえない極色彩の、透明の壁があるような。ほんのすぐ隣に彼女はいるというのに、どこか手を伸ばしにくくて、そのまま瞳の真珠が全部あっという間に砕けていってしまいそうな、そんな錯覚をみる。
「じゃあ。璃々のカップも。決めてしまってもいい?」
思わず、そう告げていた自分に、言い終わってから驚いた。けれど、不思議と、言ってしまった、というような後悔の気持ちはなかった。ぱちくり、とその真珠を瞬かせた彼女から、先ほどの空気がざっと遠ざかっていく。それでも、まだどこか冷たさは残ったまま。
「え、っと、」
「さっき、さっきね、薬の配合を変えていきたいって、夏樹さんが、」
「…なぎが?」
「腕の様子にあわせていくって、定期的に診せにおいで、っていってくれて」
支離滅裂な言葉だということはわかっていて、それでも、逸るこころのまま、ことばがあふれる。このまま璃々をこちら側に引き留めたくて、必死になる。
腕のことを伝えたいわけではなくて、もちろんそのことが彼女にほんの少し翳りを帯びさせていることを知っていたから、もちろんそれは改善されてほしいのだけれど、それよりも、今、伝えたいのは。
「たびたび、来るから。だから、そのとき、一緒にお茶とかできたら、うれしい。紅茶とかなら淹れるのは出来るから。そのときもこのカップを使っていい?」
「…もちろん、使っていいし、お茶も御一緒するけれど」
「うん。じゃあ、璃々のカップを決めたい」
「そのときどきで、選ぶのはだめなの?」
「それでもいい。…けれど、璃々のカップがここに在って、一緒に使えるのなら、もっとうれしい」
うれしいの、と訊いてくる小さな声に、大きく頷きを返して。その綺麗な瞳を、じっとみる。
「この引き出しの中に、夏樹さんのカップがあって。知り合いのひとのカップと、わたしのカップと。璃々のカップがあって、まだ決まっていないカップがあって」
「…」
「珈琲は、ちょっと淹れ方がわからないから、璃々に淹れてもらうしかないけど。準備、してもらっている間に、この引き出しの中から、毎回、ふたりのカップを取り出して、あたためるの」
「…うん」
たった一回、この店に来た自分に。この引き出しの中に住処をくれるというのなら。
その居場所は、彼女にもあるといい。その住処をつくってしまえばいい。
初めて出逢って、言葉を交わした自分に。この店の生活の中に在処をくれるというのなら。
生活を作るその中に、彼女の場所は在って。手を伸ばせば届く距離に、いるはずなのだから。
「紅茶のときは、わたしが淹れるから。璃々が、あたためてくれると、うれしい」
「うん」
「これから時々、わたしは、此処に来ると思う。自慢じゃないけれど、新譜をもらったら、だいたい一度は痛くなるまで弾いてしまうし」
「…それは聞き捨てならないわね?」
「ごめんなさい。…そのときにも、そうやって、この引き出しを開けて、一緒に時間を過ごせるといい」
日常は、つくるものだ。自分に触れるものを、少しずつ増やして、馴染むまで時間を重ねていくもの。
そして、日常は。たやすく壊れるけれど。その時々で、またつくっていくものだ。何度でも、つくりつづけていくもの。
「此処に、璃々の場所をつくるのは、だめ?だめなら、だめでいい。…けれど、良いなら、いつか良くなるなら、うれしい」
「…うん」
「ここに住んでいないわたしにも、ここに居場所をくれるんでしょう?なら、璃々にもあって、いいと思う。…無理強いは、しないけれど」
長い沈黙のあとに、璃々はちいさく、そうね、と、呟いた。その瞳の煌めきがけぶるように、彼女はゆっくりと瞬きをする。その色彩は、写真でしか見たことのない夜明けの海のそれに似ていた。
「じゃあ、百架が。選んでくれる?」
「え」
「選んでくれたものにするわ。…それをわたしの、に、する」
「選んでいいの?」
「選んでほしいの。…だめ?」
「…ううん」
本音を言えば、彼女の在処を自分で選んでほしくもあったけれど。まだその瞬きが緩慢な彼女に、いきなりそこまで求めるのは酷だろうか、と思って了承した。もしも、此処に居場所があることに彼女が慣れて、そのあとに作り替えたくなったのなら、何度でも作り替えられるから。
もう一度、じっくりとカップを見渡して、選んだのはふたつ。白の鈴蘭が円を描いているものと、濃紫で開き切る前のアネモネが一輪描かれているもの。それぞれを、璃々の掌の上に乗せて、じっとみてから、白の花を、その手から取り除いて、引き出しの中に戻した。
「すごく、じっくり選ぶのね」
「璃々のだもの。…これがいいな。いい?」
「選んでほしいっていったのは、こっちよ?…ありがとう」
瞳の色と合わせたの、と、先ほど彼女に言われた言葉を返すと、ほんとうね、と微笑んでくれた。もしも気に入らなかったらどうしよう、と思っていたのだけれどそれは杞憂だったようで、そのまま準備したら持っていくから席に座っていて、と言われたのに、ありがとう、と伝えて背を向ける。
今は気付かなくていい。彼女はきっと、自分ほど、花のことには詳しくない。
いつか、気付いてくれるといい。もしも、気付かなかったとしても、選びなおしてくれるといい。
同じものでも、違うものでもいい、璃々が、自分で此処に場所をつくってくれますように。
そんなささやかな願いを、彼女の掌に咲く、一輪のアネモネに託しておく。
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夏樹の元にもどると、深緑の布を広げたそのうえで、彼は書き物をしていた。近付いてきたこちらに気付いていたのか、そっと隣の椅子を引いて、そのままさりげなく、左手から力を抜いて、机の上に置いてくれる。
覗いてみてもいいですか、とたずねると、どうぞ、と返されたのでその隣へと椅子を進めると、そこにあったのは乳白色のしっかりとした紙で、文字の部分は凸に彫られていた。百架の名前、今日の日付。種別の欄は空白。アレルギーの欄には、稟告なし、と記載されている。
どうやらそれはカルテのようで、その左端に数個刻まれた穴を使って糸で綴じていくのだという。中には半分透けたような不思議な紙が一枚、今日の日付とともに綴じられていて、夕食前にした体調チェックや彼が作ってくれた薬の詳しい中身が記載されていた。カルテというものはもっと難しい言葉で書いてあるのだと思っていたから、自分でもすんなりと中身を理解できるそれはとても不思議に思える。読みやすい、とそのままの感想を伝えたこちらに、彼は小さくわらってみせた。
「カルテは、誰が読んでもわかるものじゃないと意味がない、てね。…俺の師匠の口癖」
よほどこちらが不思議そうな顔をしていたのか、色々な理由があるけれど、と、少し迷いながら彼が口を開こうとしたとき、ちょうど璃々が珈琲を淹れたカップをお盆の上にのせてやってきた。二人の様子を見て、どうしたの、と首を傾げながらテーブルの上に、ひとつずつ置いていってくれる。小さな音を立ててそれぞれの椅子の前に置かれたそれらは、湯気を立ち昇らせていて、珈琲の量はそれぞれのカップで異なっていた。南天と木苺のそれは少なめに、アネモネのカップがなみなみとその中身を湛えている。
「もかは甘いものが好きだときいたから、牛乳いれるかなあと思ってね、すこし少なめ。なぎはね、珈琲にはクリームを合わせたりするから、その分少なめ。お砂糖は入れないのだけれど」
私はブラックが好きだからそのまんま、なんてこっそり教えてくれる璃々の手元は、小さな泡立て器がしゃかしゃかと音を立てながらその銀色に照明を煌めかせていた。覗き込めば銀色の寸胴のカップの中にはふんわりと空気を含んではいるものの、まだゆるいクリームが白い王冠をその水面につくっている。入れてみる?と尋ねられたので頷いてそっと手元のカップを差し出すと、ゆるいまま、ひとつのカップに垂らしたそれは、黒く鏡面のように光る水面をあわだたせることなく静かに沈んでいった。
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