012
ごはんをよそうから手伝って、と璃々に声をかけられたのは、ちょうど診察が終わり、これから薬を試し塗りしようとしていたところだった。すぐに扉の向こうに消えていった彼女の背中に向かってすぐいくよ、と声を張った夏樹は、調合した薬を小さな絆創膏の複数に塗り付けていく。絆創膏でかぶれたことはないかと確認されたので、ない、と伝えると、それらは腕の内側や背中、首元、手首に貼りつけられた。沁みたりするだろうか、と少しひやひやとしていたのだけれど、そんなことはなく、まだ火照っている腕に心地よいほどの冷たさを伝えてくる。
「これで明日まで様子見して。だいじょうぶそうだったら、明日、まとめて渡すから」
「(ありがとうございます)」
「この薬を塗っていれば大丈夫ってことはなくてね。君の身体が積極的に治そうとする、それを手助けしているものだと思ってほしい。その時の状況に合わせて配合は変えていきたくて…よければ、定期的に診せてくれると嬉しいかな」
「(どの間隔で来ればいいですか)」
「…まずは一週間?」
了承の意をこめて頷いたこちらに、ありがとう、と目を細めてから。手早く薬箱を片付けて作業用と思われる白の手袋を外して、カウンターの端、小さな扉をあけて中へと招いてくれた青年の姿に、捲り上げていた袖を下ろして。そのまま彼の元に行こうと立ち上がったものの、膝の上に荷物を置いていたことをすっかり忘れていたものだから、床にかばんを落としてしまい、手を伸ばしても間に合わなくて思わず目を瞑ってしまった。重いものは入れていなかったからそこまで大きな音ではなかったのだけれど、振動が伝わったのか、ストーブの前で寛いでいた彼は飛び起きて、そのまま慌ててこちらに向かってきてくれたので、受け止めてその柔らかい毛並みを撫でる。そのまま荷物をもって青年のもとに向かうと、呆れることなく、じゃあいこうか、と微笑んでくれた。
ふたり連れ添って木の扉をくぐると、おいしそうな香りが漂っている。そのまま左の部屋へと進むとそこはダイニングのようで、大きな丸いテーブルとシンプルな椅子が四脚置いてあり、その机の上には色とりどりの料理が置いてあり、エプロンを身につけた璃々がその長い髪の毛を揺らしながらまだまだ忙しなく動き回っていた。これだけ多くの種類を調理するのは大変だったのでは、と彼女を見遣ると、ほとんどが常備菜だから、全然つくってないのよ、と、まるで心を読んだかのようににっこりと笑いながら告げられる。
「まあでもいつもより彩りが豊かなのは確かかな」
「そこは言わなくていいでしょ。…だって何が好きかとかあんまり知らないのよ、せめておいしそうに見える方がいいじゃない」
だってさ、とこちらに二人が視線を送ってくる。片方は心配そうな面持ちで、もう片方はそんな彼女ごとこちらを見守る様子で。その心配りがいっとううれしくて、二人でつくられたその空気がとうとくて。知らぬ間に顔が緩んでいたそのままに、感謝とともにおいしそうだ、と告げたこちらを見て彼女の表情も明るくなっていった。青年の瞳もゆるりと解けていく。
「なにをよそえばいい?」
「オーブンの中の鶏とお鍋のミネストローネ」
「了解」
いつも通りの日常なのか、二人は言葉も少ないままてきぱきと動き出した。なにか手伝うことができればいいのだけれど、物の位置がわからないのもあってできることが見当たらない。とりあえず邪魔にならないように彼を抱えたまま隅の方で立っていると、振り返った璃々に名前を呼ばれたので、そっと彼を床に下ろしてから彼女の方に向かう。
彼のごはんは夏樹が買っておいてくれたらしいのだけれど、量がわからないからよそってほしいということだった。小さな白磁の皿を受け取って、できればおおきめのハンカチかタオルを貸してほしいことを伝えると、不思議そうな顔をしながらもこころよく頷いてくれる。
「かりかり、食べるのが下手なの。小さい時に大きい粒のを食べてね、思いっきりつまらせかけたことがあって」
「あら。ということはこれ、いつも食べているものよりもこれ大粒なのね…ふやかしたりしたほうがよい?」
「ええと、なにかミルクとかあるならもらえると助かる…かな」
豆乳でもよいかと尋ねられたのに、だいじょうぶ、と返して、温めてもらう。ふやかしたそれが人肌程度まで冷めるのを待って、そっと椅子の上に置くと、すぐにやって来た彼は、いつもと違う香りに少し戸惑う様子を見せながら、様子を窺っている。このころには、少し空いていたテーブルの上が湯気を立てる料理で埋まっていた。どれひとつとして同じ器はないものの、全体としてとてもまとまったテーブルコーディネートとなっている。
ミネストローネには黒のカフェオレボウル。蓮根のマリネには硝子の器。さつまいもとチーズの和え物にはぽってりとした菊花の器を添えて。小さな山型に盛りつけられたパスタは、バジルときのこをそれぞれ和えたものが、丸い平皿の上、交互に載せられていた。かぼちゃの煮物は飴色の角皿のなかでごろごろと。人参と里芋の炊き合わせは深い緑の陶器に。鮮やかな紅蕪の漬物は三人分、それぞれの豆皿によそわれている。
すべてが家庭料理だった。シンプルな味付けで、見た目にこだわらない料理。元々あまり料理は好きではなく、自分ひとりのためにそこまで頑張る気にもなれず、日々の食事を簡単に済ませがちな百架にとって、テーブルいっぱいの食卓を見るのは久々で、なんだか目の奥がじん、と熱くなるのを感じる。
飲み物は炭酸水か水を、と言われて、じゃあ炭酸水を、と頼んだ。厚みのある硝子のグラスにはいったそれを、すべての料理を口にする前に、一口戴けば、ぱちぱちと弾ける気泡がすっと喉を通り抜けていく。
召し上がれ、と笑う彼女に頭を下げて、青年にも会釈をしてから、一番手前にあった小鉢に箸を伸ばした。鮮やかなかぼちゃの黄色は梔子と一緒に炊いてあるのだろうか。自分の小皿によそって口に含むと、予想と異なる味がした。一番初めにシナモンの香り、全体的に砂糖で甘めに味付けられたそれは、粗めに刻まれまぶされた松の実とよく合っている。蒸してから角切りされたさつまいもとチーズはマスタードベースのソースで和えられているようで、チーズのもったりとした甘みやさつまいものほくほくとした触感がさっぱりとして好ましい。
どの小鉢もあまり馴染みのない味付けで驚きはするけれど、ゆっくりと身体の中でほどけていく感触がする。どうしてこんなにも馴染むのかを考えると、思いつくことはひとつだけあった。
――先生がかつて作ってくれたそれと、味の濃さが似ている。
母の料理は、ちゃんと教えてもらう前に会えなくなってしまったから、ひとつを除いて覚えていないけれど。先生の料理はたくさん食べて、いくつかはレシピももらったので覚えている。味付けは違うものの、染み具合が似ていた。やわらかく炊かれた具のやわさも。一口のサイズは璃々の方が小さめ。きっと偶然なのだろうけれど、懐かしい気持ちになる。彼女がこちらの様子をそわそわと見ていたことには気付いていたので、目線があったその時に、おいしいよ、と伝えると彼女はよかった、とわらってくれた。そのまま瞳の真珠をほろほろと揺らしたまま、大きなナイフとフォークで鶏をよそってくれたそれは、香草の塗り込まれた表面はこんがりと、中へは良い塩梅に火が通っているようで、その断面からはしっとりと湯気が立ち上っている。手渡された皿にはちいさなじゃがいもとペコロスがころり、とふたつずつ転がっていた。
「なぎもお皿出して」
「え、や、自分でとるから」
「だめ。ほっとくと全然食べないんだもの」
そういってにっこりと笑いながら片手を突き出す彼女に根負けしたのか、夏樹は苦笑しながら小皿を手渡した。そのまま鶏だけでなく、パスタまでよそわれたのをみて、若干遠い目をしながら皿を受け取っている様子には、失礼ながら笑いがこらえきれない。
夏樹がそっと口に運んだのを確認してから、少し待っててね、といって冷蔵庫から小さなガラス瓶を取り出した璃々は、ちいさなトングとともに机まで戻ってきて、その瓶の中に入っていた白いキューブをひとつずつ、じゃがいもの上にのせてくれる。その立方体はどんどんと溶け出し、芋の切れ目からじんわりと染みていった。
「…バター?」
「ええ。でも少し特別なの、食べてみて」
そう進められるままにナイフでじゃがいもを切り分けて口に運ぶと、鼻腔にほんのり甘い香りが立ち込めた。ほくほくとした触感を少し滑らかにしてくるそれは、舌の上でじゅんわりとまろやかな甘みとコクを伝えてくる。
「美味しい…お砂糖入りなの?」
「惜しい!蜂蜜を練りこんであるのよ。メイプルシロップを練りこんだものもあるのだけれど、お芋にはこっちでしょう?」
少し特殊なバターを柔らかくして、蜂蜜を練りこんで、もう一度固めなおしているのだとか。
その季節の蜂蜜によって味が異なるから面白くて、と告げる夏樹の耳がほんのりと赤かったので、もしや彼の手作りかと訊ねると、その通りだという。蜂蜜はその季節ごとに知り合いから購入して彼自身で調合しているらしい。その話が面白くて、なによりも美味しくて、聞きこんでいると恥ずかしくなったのか、頬までもうっすらと赤らんできた夏樹に、その話はもうおしまい!と告げられてしまった。
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