010
いきしなよりもほんのすこしおおきく、不規則になった音が扉の前についたから振り返ってみると、ちょうど璃々が扉をひらいたところだった。見送ったときに立っていた場所に視線を走らせて、慌てて部屋の中を見渡した彼女は、おとなしくしているこちらをみつけて、小さく息をついていた。予想したとおり、どうやらあまり信じてはもらえていなかったらしい。弾いていると思った?とたずねてみると、ほんの少しきまり悪そうな顔をして、音がしてないから弾いていないのはわかっていたのだけれど、と返される。
「…ピアノの椅子にはすわっているかな、てね、思って」
言いながらだんだんとまゆげがさがっていくその様子に、不謹慎だけれど、すこし笑いがこぼれてしまう。
「ほんとうはね、弾こうかなとちょっと思っていたのだけれど」
「こら」
「ちょっとだけだよ」
「ちょっとでもだあめ」
璃々は、心配の色彩でほんの少し翳った真珠を、からり、ころりと転がしながら、こちらの指先を取って、氷水に浸したタオルをそっとあてがってくれた。思っていたよりも熱をはらんだままだったようで、いつもなら痛いはずのその温度が心地よい。
「我慢したの。…弾いたら、もっと痛くなるかなあと思って」
すぐにぬるくなってしまうそれを、盥のなかできゅ、としぼってからふたたびあてがってくれる彼女の指先は、赤くそまったり紫色にはなっていないものの、どこまでもましろくなっていた。まるで、あの部屋のように。
そうなのね、と呟いた璃々にひとつ頷いてみせると、ほんの少し下がり眉がまっすぐになる。
「もう少しの辛抱と忍耐をおねがい。…冷やしていたら痛みもすこしはましになるとおもうわ」
そう言って、ほんの少し茶化してみせるその瞳の色彩が、どうにも、もやもやとした気持ちをひきつれてくるものだから。
「ちがうよ」
思わず、口に出していた。
「痛いのは、璃々でしょう」
どうして痛いのかはわからなくて。わからないからどうにもうまく話すことができないけれど、それでも、彼女が、なにかいたみをあたえるものに触れたことはわかるから。
そして、そのいたみを渡してしまったのが、きっと自分であることも、わかるから。
それだけしかわからないままに謝罪をすることは何か違う気がして、そのままに、教えてほしいと告げたこちらを見つめたあとその瞼をまたたかせて、ふたたび覗いた真珠をさざれいしの中で傷つけていきながら。璃々は、そうね、と淡くほろ苦い微笑みを浮かべてみせた。
「うまくことばにできるかはわからないのだけれど」
部屋の隅にあるちいさなテーブルを窓のすぐそばに持ってきて、その上に盥を置いた彼女とふたり、窓枠に腰かける。こまめにタオルを替えていてくれるのがありがたくて、申し訳なくて、もうそろそろだいじょうぶ、といえば、まだだめと遮られた。
「どんな傷もいつかは癒えるけれど、適切な処置はしておくべきよ。……そうね、」
たとえ、癒えるのだとしても。それでも、だいじなものが傷つくのは嫌なのだ、と、視線を森のその向こうの空まで投げかけながら、彼女は語る。そんな彼女の、息を、声音を、そして瞳の色彩を、見逃すことのないように、見つめて。
「私は、自分勝手だから。たとえ私がだいじなものを守って傷まみれになったとして、その傷塗れの姿が、私のことが大切なひとにとって忌むべきものであることも知っているけれど、それでよかった、と笑うわ」
そういって、傷ついた真珠を、その海に溶かして、それはそれは綺麗に微笑んで。
「……きらいなのよ。いたくて、しようがないの。とくに、届くところにいるのに、だいじなものが傷つくのは」
守れるものだったらいい。つぎは、次こそは、まもる。だけれど。どうしたってまもれない相手がいるのだ、といって、その瞼を伏せて。影法師はいつのまにかそのつまさきから地面へとゆるりと溶けこんでしまったのかいなくなっていた。みえなくなった真珠のかわりに、山際の星がそっとその光を強くする。
「まもりたいものをもつひとが、自分自身を傷つけていくのは。どうやっても、私はまもれない」
そう告げてこちらに向き直ったその瞼にはうっすらと揺らぐ水の膜が張っていた。
「百架の音が好きよ」
そういって、綺麗にきれいに、彼女はわらう。
「ずっと聴いていたもの。毎日はきけないけれど、朝のカノンも、礼拝歌も、お昼寝のときのまもりうたも」
「みんなにやさしい貴女の音は、貴女にだけ、いっとう優しくない」
「あれだけやさしい貴女の音で、貴女が傷つくの。……それからは、貴女があなたを傷つけるのだけは、」
わたしはまもれない、そういって、その瞳から一筋だけこぼれた涙は、重力に引き寄せられて床まで真っ直ぐと落ちて、煌めきながら散っていく。
むずかしい、と思った。まるで流した涙に気付いていないように微笑む彼女の言葉の意味を汲み取ることも、そのなみだを拾い上げることも。ましてや傷付いているその真珠を包みこむことなんて、もっともっと難しかった。
自分の音で、自分だけが傷付いているのだという。
それが、彼女にはいっとういたくて、だから憂いを帯びた色彩をその瞳に宿しているのだという。
(きずつく、って、)
冷やしつづけてくれている指先に、視線を落とした。だいぶと感覚が薄れてきて、それでもまだ少し震えが残っている。毎朝痛む腕の傷はまだまだ鈍くその熱を伝えてきていたけれど、その痛みはもう失くせないものだからそのままにして。
(なんだろう)
もうだいじょうぶ、と指先を握ったり離したりしてみせれば、その様子にやっと肩の力を抜いてみせた璃々は、手拭を盥の中に戻して、その濡れた指先をそのままに結っていた髪を解きはじめた。もともとは真っ直ぐな彼女の髪がふんわりと癖づいてゆれる。膝裏まであるだろうか、たっぷりとしたその一束を無造作に背中へと流しながら、彼女はこちらをみて、ゆるりと瞳をほころばせた。
「わからない、って、顔をしているわ」
そういって。ましろのゆびさきが、窓枠に手を伸ばしてその扉を解き放つ。部屋との温度差ゆえか、一気に吹き込んでくる冷たい風がそっと全身に絡まって、そのあとゆるりとほどけていくのがわかった。いつのまにか顔は火照っていたようで、その熱も表面をなぜるようにして風が連れて行ってくれる。
本人が一番気付きにくいのだ、と彼女は言った。傷を持つその熱と痛みを知ることが本人以外にないように。その傷付いた様をみたひとがうける胸の痛みは、傷をもつそのひとが一番わからないという。
その言葉の通りなら、いたいものを渡してしまった自分は、ふたたび彼女に痛みを与えるかもしれないということで。でも、それを、わからないのだから、と投げ出すのは絶対にしたくない、と思ったから。
むずかしい、と思う、けれど。
「わかりたい、と思うのは、だめ?」
そう告げてから、どうにもこのことばが、あまりにも情けないもののような気がしてきて、ほんの少し、璃々の表情をみるのがこわくなった。けれども彼女の表情を知らないというのもなんだか違うとおもったものだから、ゆっくりと重い瞼をこじ開けておそるおそる覗きこんでみれば、その瞳の中で、傷ついたその真珠からちいさな月のしずくが生まれていくのがみえた。
「じゅうぶんよ」
ちいさなしずくから欠片が生まれ、再びさざれを纏ってだんだんと大きく育っていくさまは、いっとううつくしくて。
ありがとう、と告げる璃々の瞳の色彩が、澄んだ夕暮れの海の色彩にゆっくりともどっていくことがうれしくて、目頭がじんわりと熱を持った。
ふたりでおでこをあわせて、しばらくじっとして。それから、いつもどおりに子守唄を弾いた。
すっかりと陽の暮れた街に拡がってゆく音はいつもよりゆっくりと、少しぎこちないものになってしまったけれど。すぐ隣に腰かけた璃々の、窓からほんの少し零れおちるくらいのおおきさの声が、とてもあたたかくて、いとおしかった。
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