009
講堂の扉が閉まった音をきいて、鍵盤から指を離す。教会から出た後、火葬場へと旅立つ車たちが大通りから見えなくなるまで謡い手と弾き手は音を送り続けるけれど、オルガンの音がよく響くように開かれたままにしてある講堂の扉が閉じられたということは、もう参列者たちは見えなくなったということだから、もう弾いている必要はなかった。
がらんとした講堂の中には、開式前とは違って、オルガンの上以外に花々は残ってはいない。ほんのりと椅子に残るひとびとのぬくもりと、式の間にもはらはらとその花弁を落としていたその名残だけがそこにあった。そこまではいつもどおりで、いつもと違うのは、腕が、指が。じんじんと熱を持っていること。痛みまではなかったけれど、指先をみればかすかに震えていた。握りこんでみても拳ごと震えつづける様子に、まるで自分の体じゃないような気分になって。首を傾げていれば、そっとその手を、すべらかな大人の手で上からやんわりと抑えられる。顔をあげれば、すぐ横に先輩がいて、こちらをのぞきこんでいた。
「おつかれさま、……ああ、だいぶと熱を持っているわね」
こちらを気遣うその表情にもすこし疲れが浮かんでいた。そういえば、今日の式は謡い手にすべて頼り切ってしまったのだということを思い出して、謝罪を込めて頭を下げる。口も何も動かさなかったのに先輩は察してくれて、だいじょうぶよ、私は貴女の先輩だもの、とにっこり微笑んでくれた。その笑顔にもう一度深く頭を下げて、講堂の片づけをするために椅子から降りようとすれば、ああちょっとまだ座っていてちょうだい、と言われて、もそもそり、と、元の位置に戻って膝を抱える。
「璃々、すこしこちらにおいでなさいな」
陽の光がたっぷりとはいるようにまとめられていたカーテンをひとつずつ下していた彼女は、先輩に呼ばれるとその手を止めてこちらへ歩み寄ってきた。その表情はなんだか少し気まずそうで、きっとうたのことを気にしているのだろうということ自体はすぐに予想がついたから、気にしないでほしい、と、伝えようと口を開きかけたところを、そっと先輩の視線で止められる。
「璃々もおつかれさま。急に、しかも、はじめての表で緊張したかしら」
「緊張は、すこし。……うまくできなくてごめんなさい」
「あら、そんなことないわ」
でも、と言いつのろうとした彼女をやんわりとさえぎって、先輩は綺麗にきれいに、わらって。
「式の途中、参列者の方たちが大きく揺れ惑うことはなかったわ。棺の冷たさに畏れをなしてしまうこともなかった。ちいさなこどもたちが雰囲気についていけずに泣き出すことも、大人たちの悲しみが膨れ上がって弾けてしまうこともなかった。十分すぎるほどのお勤めでしょう」
よくがんばりました、と、先輩は璃々をかるく引き寄せて、編み込み結い上げた彼女の髪を、飾るレースの上からぽんぽん、と撫でた。先輩には見えてはいなかっただろうけれど、椅子に座ってちょうど璃々の視線の高さだったこちらからは、彼女の瞳の真珠がふわりと緩み、そのさざれ石をとかした涙がふたつぶだけころり、と零れ落ちるのがみえて、つられたのか、腕だけでなく瞳の奥も甚割と熱を持ってくる。その熱を外へ出したりはしないものの、堪えるのは少し難しかった。
もう涙は止まったのか、いつもどおりにきらきらと真珠を瞬かせながら顔を上げた彼女をみて、にっこりと微笑みながら、先輩が口を開く。
「というわけで、璃々。ちょっと喉をみせてごらんなさい」
んぐ、と変な空気の飲み込み方をしたような声を璃々が漏らした。ポケットから小さなペンライトを出しながらそっと肩を抑える先輩と、じりじり後退しようとする璃々の無言の攻防が続く。
「その表情は自覚ありね、……観念なさいな」
「…ええと」
「百架よりも聴いている回数は少ないけれど、ある程度あなたのうたを聴いているのよ?」
気付くに決まっているでしょう、という言葉と小さな溜息はそっと空気の中に溶けていった。じりじりと二人の距離感が保たれつつ移動していくのを見守っていると、もともと璃々がこちらに半分ほど背中を向けていたのもあって、先輩がじりじりとこちらに向かってだんだん迫っていくたびに璃々の背中が大きくなる。大きくなって視界が彼女の背中とゆったりとした髪に満たされた瞬間、オルガンの椅子につまずいて璃々が真後ろにこけそうになったものだからあわてて受け止めた。たっぷりとした髪の毛を抑える髪飾りが頬にちくちくとささってくすぐったい。
突然の出来事に驚いたのか、茫然としたままこちらを見上げてくる彼女に視線をそっと絡ませて、おつかれさま、と口に出せば、くしゃり、と顔を歪ませるものだから、まさか泣いてしまうのだろうか、と動揺して、とりあえず受け止めた姿勢のまま腕の力をぎゅうっと強くしてみたりして。そんなことをしていると、目の前には笑みを浮かべたままの先輩が立っていた。璃々がもぞもぞと逃げようとするのを、さらにぎゅぎゅっと抱きしめて止める。
「百架、ちょうどいいわ、そのままでいてちょうだい。…璃々?」
「……はあい」
諦めたのか、くたりと体の力を抜いた彼女がこちらにもたれかかってきた。そのままだとずり落ちていきそうだったから、腕を脇に通したり、椅子の上での座り方を変えたりして、こちらが調整し終わると同時に先輩が口の中を覗きこむ。
「やっぱり、すこしあかくなっているわね、…飲み込むのはしんどくない?」
「だいじょうぶ。…咳が出るほどでもないみたい」
ならよかった、と、ほんの少し表情を緩めてふんわり微笑んだ先輩は、ペンライトをしまうと同時に、琥珀色の小さな飴玉を取り出して、ころころころ、とみっつ璃々の掌に載せた。
「蜂蜜だけでつくられた飴なのですって。二粒ぐらい食べておくといいわ」
百架のぶんもひとつね、疲れた時は甘いものでしょう?という彼女に二人で頭を下げる。そのまま、璃々が立ち上がったので、そろそろ片付けにはいろうと椅子から立ち上がる。時計を確認すればもう四時を過ぎていて、長針はほぼ真下を指していた。いつもの子守歌を弾く時間はもう過ぎていたけれど、片付けを終わらせたあとに弾こうと決める。いろんなことがあったものだから、いつもどおりの日常がほんの少しだけ恋しかった。弾けば、それが少し手元まで寄ってきてくれるような気がして。片付けが終わる頃にはもう指先の震えも収まっているだろうから。
(ちょうどいい、)
そんなことを考えていると、先輩に、そういえば、と話しかけられる。今日も弾くのか、という問いに頷けば、それなら休んでおいでと応えが返ってきた。だいじょうぶだ、と首を振るのだけれど、だめよ、と返される。
「腕から指先まで熱を持っているのだもの。すこしでもはやく冷やした方がいいわ」
その言葉を聞いた璃々はすぐにこちらを振り返って、痛みを与えないようにだろうか、そっと利き腕に手を添えてきた。温度の低い彼女の指先がいっとう冷たくて気持ちがいい。思った以上にぬくかったのか、彼女は一瞬驚いた表情を見せた後、上からと下から、てのひらでくるりと指を包んでくれた。真珠がころころ、きらきらと瞬いている。
片付けはやっておくから冷やして震えが止まったら弾いて。そして帰ればよいと微笑む先輩は、璃々に見張りよろしくね、と笑いかけていて、璃々も任せて、と応えていたものだから、そこにもう逃げ道はなかった。
二人で向かった西部屋は、その白い壁を夕陽の色彩に染め上げていた。ただひとり橙の色彩を帯びることのない黒のピアノは、その深みよりもやんわりとあたたかい濃灰の影を落としている。部屋の中に入ってみると自分たちの足元からも影がのびているのだけれど、立ち位置の関係なのか、璃々の影法師は自分のそれよりも薄くほのかに煌めいているようにさえ見えた。自分のなかに溜まる言葉の海はまだまだあさいものだから、その色彩を表現するにふさわしい言葉は、不思議、というただひとつの単語しか拾い上げることができなくて、そのことがほんのすこしくやしい。
彼女の足つまさきの行き先を辿る影法師にこころのうちで首を傾げていると、そんなこちらの表情を勘違いしたのだろうか、彼女は心配そうな表情でこちらを見遣って、痛みはどうだ、と訊ねてきたので、だいじょうぶだ、とこたえようとしたところを、視線だけで抑えられる。
「だいじょうぶ、は、なし。こんなにゆびがふるえているのだもの。……いたい?それともあつい?」
たしかに、式の直後は腕も指も痛くて重くてしようがなかったけれど。落ち着いたのか、ふたりが支えてくれたおかげなのか、それらは引き摺ることなく徐々に遠のいていたから、そのままに、今はましなのだ、ということを伝えて。
「……どちらかといえばあついかな」
「そうしたらちょっと冷やしましょ。こおりを取ってくるわ」
ちらちら、と視線が黒白の鍵盤に弾かれているのがみつかって、ぜったいぜったい、ひいちゃだめよ、と言われて、頷く。それでもよほど信用がないようで、きらきらしたその真珠はとびらのまえでもういちどふりかえってこちらを射抜いたまま、まっててね、といわれて、苦笑いがひとつこぼれた。
軽い足音が扉の前から離れていくのをきく。そのおとが階段のその下へとはねていくあいだ、ずっと見送ったままの姿勢でまっていた。そのあとゆっくりと視線を動かして、部屋の中を進む。腕の感覚がおかしいせいか、どうにもバランスがとりにくくて、ふわふわあるいているじぶんがおかしくて、ほんのりとわらいがこぼれた。ほんとうは今回うまく引けなかった弾き方を練習したい気持ちでいっぱいだったーーーさきほどまでは。それでもじいっとみつめられたひとみの色彩がなんだか気になって、彼女がいない間にゆびさきをけんばんにそせるのはなんだか違う気がして。
ピアノの前を通り過ぎて窓の方へと近づいていく。視線の先には、西の丘の向こうに姿を隠していく太陽と、東の森がだんだんと深みを帯びた青に染まっていくさまで、それは人の目にも明らかなほど速い調子をたもちながらその色彩を刻々と変化させていた。もりのいろはちょうど、煌めいた時の真珠と同じ色彩になってきていて、硝子越しとは思えないほど、美しかった。それでも、
(さっきのいろは、璃々にとってだけ、つめたかった)
確かに腕はとても痛くなったけれど。それはまだ彼女の声を支え切れるほどの技術がなかっただけのはなしで、練習すればいいから。だからだいじょうぶなのに。
(どうしてかな)
疑問に答えてくれるひとはいなくて、森のそばで瞬き始めた星たちもしずかにしずかにそこに在る。だんだんと暮れていく空に比例して、窓に反射して克明に映し出されていく自分の顔は、まるでちいさなこどもが迷子になったときのような表情を浮かべていた。
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