008

講堂に入る前。柄にもなく緊張しているわ、なんて、苦笑してしる璃々の頭を胸に抱き込んで、ふたりで呼吸をそろえた。

ふたりの音が交じり合って、三拍子よりは速めの二拍子の音。そのままみっつ、深呼吸。

白の礼服に着替えた彼女に屈んでもらい、その頭に白のレースをかけて、ずれ落ちないようにその上から髪飾りをつける。彼女の全身に目を巡らせて問題がないことを確認して、片手に楽譜、もう片手に樒を持ったまま先に行くね、と声をかければ、いってらっしゃいと小さな声で返してくれた。


いつもどおり、オルガンの前まで進みながら講堂の中を見渡す。まだ参列者も謳い手もいないたったひとりの式場は、溢れんばかりの白と対で映える淡黄、そしてそれら二色を支える緑で埋まっていた。参列席にはそっと寄り添うようにエルダーフラワーやカスミソウなどの小花たちを主体に白緑と黄金のオオムギを添えて。きっと先輩が出迎えたのであろう式の主役には、大輪のダリアと白薔薇をたっぷりと。ひとが通らない場所にはさまざまな柄の、ただしすべて無色透明の切子硝子の花瓶に花束がそれぞれ飾ってある。棺の中で眠るひとの前で立ち止まり、一礼してから、足音をたてないようにして樒を差し込んだ。樒はその果実でそのひとの眠りを、香りで旅路を護ってくれるものだから、さすのは棺の四つ角に。


(よき旅路となりますように)


最後にもう一礼して、オルガンの前へと向かう。式の相棒は、演奏に邪魔にならない範囲で白く彩られ、椅子には左後ろ角にちいさな花束が淡緑に黄金の縁が沿ったリボンでまとめられていた。椅子に座り鍵盤をそっとひと撫でして、それから楽譜のノートを胸に抱きしめて。自分自身に問いかける。


今日は、夢のせいか腕がいっとう痛くて、それだけじゃなくても昼の出来事で頭が混乱していて。

謡い手との練習は十分と言えない状態で、今ここに立っている。その上で。


全ての曲をひきこなすことができるか。

その体力はあるか。

ひとびとの祈りをすべて掬いあげて、その旅路の先におられる方まで届けることができるか。

謡い手がもっとも声をひろげられる場所を自分の音で創り出すことができるか。


いつもであれば、「できる」のではなく「する」のだ、と、震える指先を無視して、早打ちする自分の鼓動を意識の外へと追い出して。無理矢理にでも視点を切り替えて、その黒鍵と白鍵へと指をのせて開場のための曲を奏ではじめるのだけれど。


(なんでかな)


どんな曲でも、弾ける気がした。自分のこころも、腕の痛みさえもを全部捧げるように。

ぜんぶぜんぶ、まっしろにして、


(きょうは捧げることができる気がするよ、先生)


痛みはそのまま、ぼんやりとした意識の中。指先に勝手に力が落とされて、はじめの音が響きわたる。そうやって会場から流れ出した音はあまりにも真っ白で、そこに在るのが当然のような、どんなこころさえも見逃すことなくひとつひとつひろいあげていくような旋律だった。開場を待つ参列者たちは、そのこころにできたささくれをやさしく包まれるような心地を覚えていて、


扉の向こうの少女だけが、そっとその瞼をとじて、肩を震わせていた。











たくさんの足音がする。誰かの背中で泣いているちいさな声。式の意味を知らず、着慣れぬ服にはしゃぐおさなごたちと、それをたしなめるおとなたち。交じりあったひとびとの生きているその熱を受け付けることなく、遠く旅立つひとは静かに眠っていた。

少しずつ少しずつ、ひとつひとつの気配が、旅立つひとを囲むようにしてそれぞれ落ち着いていく。

そうして、大体の気配がひとところに定まったころ。今まで弾いていた旋律を弾きながらゆっくりと音量を落として、ふたたび音量を上げながら別の旋律を繰り返せば、それは開式の合図だ。奥まった扉が開いて、謡い手ふたりの足音だけが、旋律にのって講堂全体にひろがる。


先輩の音は聴きなれているから、もうひとつが璃々の足音であることはすぐにわかったのだけれど。ゆっくり体重移動をするようなその音は、街できいたそれよりも圧倒的に静かで、緊張しているにしろゆっくりすぎるそれに内心小首を傾げていれば、ほんの少し落ち着いてきたのか、綺麗な足音が響くようになって、胸をなでおろした。そのまま、ゆっくりゆっくり、はじめの真白の空間を意識していく。


(だいじょうぶ)


どこまでもしろく、やわらかな空間を、音でつくる。


凪いだ朝の海にどこまでも広がっていくような連符を重ねて、礼拝歌。

厳粛な空気に染まった色彩が、謡い手の声でうみのあおとそらのあおに。大きく窓をつくって、外をのぞくひとびとの瞳に交じりあっていくその色彩のうつくしさが映る。ふりかえればそこに在る真白との対比で、ひとびとの瞳にいっとうあおはきらめいたことだろう。


白砂に散らばったつきのしずくをひとつずつ拾い集めながら偲ぶ低音を境目に、哀悼歌。

真白からゆっくりとあらわれた砂浜のなか、まるで宝探しのように、涙ながらに、また笑いながら、旅立つひととの想い出を拾い上げるひとびとが、だれひとりとして迷子になることのないように。表と裏、高音と低音が、ひとびとのこころをまとめていく。時折つきのしずくを拾っては、想い出に溶かしてさまざまな色彩を湛えた水をつくった。時折まじる星の砂は、もう繋ぐことのできない想い出にそっと寄り添ってみせる。


そして、瓶いっぱいのしずくを夜の海に掲げて燈明とするような旋律で、夢灯歌。

だんだんと陽が落ちていくにつれて、やわらかな光を放ち出したその掌の祈りを持つひとびとへ、いっておいで、と謡い手が扉を開ける。夕闇から夜の海は一見すべてを呑み込んでしまいそうでおそろしいけれど。水面に足を下ろしてみれば、その水面から、さまざまなぬくもりを感じることだろう。掌の上の明かりで足元を照らしてみれば、かつてこの旅路をいったものたちの轍が浮かび上がた。ひとのこころをのせた声に彩られて、形づくられた空間に風が吹き込んで。遠くまで、明かりをともしていく。


(こころは、あなたのこえは。どこまでだっていける)


そして、ここまでくれば、真白の空間はもう必要ないから。窓は大きく開けはなったまま、謳い手のその手で、扉を閉じてもらって。


さいごの空想歌は、海の向こうで眠りにつく月と目覚める太陽を繋ぐ架け橋となるような伴奏を。あれだけきれいな明かりを持ったひとびとの祈りが、あれだけ綺麗な歌声をもったあのこがいるのなら。オルガンの音は窓からだけで充分すぎる。


ーーそう、おもって。鍵盤にもういちど指をのせたときだった。


突然だった。

彼女の声が、璃々が。明確に、彼女の意思でもって、その強さでもって。

ましろの空間を切り裂いたのは。











愕然とした。

うたはつづく、自分の指も勝手に動いている。何回も練習して、何回も式で弾いたから。だから、そこは大丈夫で。

ましろがうめつくされた視界が大きくぐるり、とまわった。璃々の声が、そらのあおとうみのあおが交じりあったその果てへ、うたも、ひとびとの祈りも、そしてオルガンさえをも連れていこうとする。ーーーつれていこうとして、その重みに耐えきれず、彼女の祈りに血が混じっていく。


(いいの)


オルガンは、連れて行かなくていいのだ。その場から遠くを眺めるものだから。手紙と同じように、もしもその祈りを神様がうまく拾い上げられなかったときに、帰ってくる灯台をつくるのも、その役目のうちのひとつなのだから。


(わたしは、つれていかなくていい)


真白の部屋は灯台そのもので、弾き手が奏でるその音色は、その灯台をともしつづける明かりだ。神様からいちばん離れたところにある、こころをそこに注げばそそぐほど、きらきらとまたたくひかり。

だからこそ、祈りの姿をとることはできても声の出ない自分は、弾き手として優秀であれた。自分の祈りはとどかないことを理解していて、オルガンにすべてを預けてしまえるから。きっとだれよりも、ひとびとの帰る場所を、照らし続けることができる。


(いいのに、どうしてつれていこうとするの)


先輩の声は、混乱しているのだろう、すこし揺れながらではあったけれど、ひとびとの祈りをまあるく包んで導きながら、遠いみちの向こうからこちらをそっと見守ってくれていた。そのことにとりあえず胸を撫で下ろして、じゃあ今のうちに、と、部屋の切り裂かれたそこを縫いあわせようと鍵盤を叩いても、璃々の声がひとつずつもういちど切り刻んでいく。痛みもなく、ただその切り口に、やわらかいぬくもりだけをほんの少し遺すような、やり方で。縫い目をほどくその度に彼女の声に血が混じっていくのがありありとわかって、ーーわかってしまえば、もう縫い合わせることはできなかった。


一歩ずつ、その場から動いていく。声に背中を押されて、もうぐちゃぐちゃになった部屋のいちばん奥まったところから扉の方へ。

久々に動かすその足はなんだか覚束なくて、躓きそうになるたびに彼女の声が風となって、そっと支えてくれた。


まっすぐ、まっすぐ。足を進める。

大きく開いた窓のそばを通り過ぎて、半分。

そこから扉まで、もう半分。


急かすことなく、それでもこちらが足を止めることを許しはせずに声が寄り添ったまま。

扉をくぐりぬけたそのさき、ひとつぶの真珠をとかしたその水ごしに空を見上げて。

夜明けの空に瞬くあかつきぼしは、いっとう、いっとう、美しかった。











真白の夢が終わり、しののめから陽が顔を覗かせれば、あまりにもあっけなく、世界はもとの講堂に戻っていた。一度だけ瞬きをして、閉式の旋律にはいる。譜面台の横に飾られているクンシランが、蜂蜜色の花弁をかすかに揺らしていた。


腕が、鉛かとおもうほど重かった。

指が、譜面が歪むくらい痛かった。


届かない指の先、高音は璃々の遠く響きわたるその声で。

遅れてしまう伴奏に、弾いてしまった音は先輩のゆるりと寄り添うその声で。

そのうでのまま、ひいてごらん、というように、ふたりのこえに支えられて、鍵盤の上で指をおどらせながら。


ああ、あのましろの部屋は、ただのゆめまぼろしでしかなかったのだ、と、気付いて、ひとすじ涙が溢れた。


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