007
そのうたは、どこでしりましたか、と。
掌の上の文字を読み切れなかった少女は、すぐに青年へと視線をうつして。
掌の上の文字を正しく読みとった青年は、しばらく口を閉ざしたまま。
青年は睫毛をふわりと動かして瞬きをぱちり、としてから、なるほどね、と呟いて。
少女は眉尻をほんのすこしあげて、それでもてのひらはそのままこちらに向けたまま、青年へと向き直った。
「なにがなるほど、なの」
「…璃々」
「くやしいけれど、なぎが教えてくれなくちゃ、わたしこのこにこたえられないのよ」
少女の言葉を受けて、青年はそうだね、と苦笑をこぼした。そのまま視線を地面に伏せてしまう。
「だから読み書き頑張れっていったろ」
「鋭意努力中よ?………夏樹」
ほんのりと疑問を、そして促しをのせた少女の声に、青年はまだ視線を伏せたままほんの少しかなしそうに微笑ってみせて。うたと歌詞をどこで知ったのか教えてほしいって、と、少女に伝えてくれる。
そして。
ああそれはね、とこたえようとした少女の袖を少し引いて止めたのも、また青年だった。
「その問いに、こたえることはできるけれど。……少しばかり、長い話になる。みたところ、君は何かの用事の途中のようだし」
その言葉に、まさかはぐらかされるのだろうか、と思って。青年を見上げれば、今の考えが全くの誤解であることはすぐわかった。あまりにも、そのひとの瞳はあまりにも真っ直ぐで、そして、その微笑む表情と同じように、かなしみの色彩をじわり、と滲ませていたから。
「準備するものもあるから、うちで話をしようか。璃々は一緒に行くといい、式が終わるころ迎えに行くから」
わかったわ、という少女の頭を青年がぽん、と撫ぜる。その肩にかかる荷物の上にはいつの間にか彼が落ち着いて寝そべっていた。硝子球に光を集めて巡らせたようなその眼差しを一度こちらにやったあと、揺蕩わせてまたその眼を閉じる。なんだかんだ警戒心の強い彼がそうやってくつろいでいるということは大丈夫なのだろう、とさらに信用を深めることが出来た。だから。
それでいいかな、と問いかける青年に、ひとつ頷いてみせた。
ーー頷くしか、なかった。
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手を握りしめて、そのままいつの間にか合わさったおでこがまた同じ温度になるまで、ゆっくりと深呼吸をした。なんだか今日はいろんなことがあって、いろんなことがありすぎて。身体は一生懸命ついていくのにこころは半歩遅れていて、ふわり、と漂っている。うたかたのゆかを踏むような、そんな感覚は初めてだったけれど、こわくはなかった。頭の先から指先までひとの体温が巡って、ほろほろ、ほどけるように交じりあって、また巡っていく。その間ずっと待っていてくれていた少女ーー璃々は。目蓋を持ち上げたその先で、ゆうるりと目を細めてみせた。
「だいじょうぶ?」
言い終わるとともにほんの少し揺らいだ瞳にそっと目線を添わせて。頷きかけて、途中でやめた。
とどくのだから。このこえをきこえるといって、瞳の真珠を融かしてわらう彼女へと、そのまま、くちをひらいて。
「だいじょうぶ」
まだまだぎこちない喋り方で、それでもそのまま応えれば、璃々は、それならよかった、と言ってわらってくれた。その笑顔が眩しくて、なんだか少し照れくさくて、彼の背中に顔を埋めたくなる。ーー彼は青年の上着の帽子の中にはいっていって、いま此処にはいないからできないのだけれど。
たくさんお話するのは式が終わってからにしよう、とふたりで向かい合ってわらって、床においたままの楽譜に手を伸ばした。
「そう、あのね、こんなにいっぱいうたうの?そこまで大きい式に参列したことはないのだけれど…だいじょうぶかしら」
ほんの少しばかり不安な表情をしている璃々に、まずは、と、礼拝歌の楽譜をまとめて手渡して。
「違うの、あのね、選んでほしいの。今日、あなたがうたいたい譜面」
ひとびとの祈りをまとめあげる謳い手は、どうやったって式の後はすごく疲れてしまう。まだ習得していないものや謳いにくいものなら、それはなおさらのこと。そして、謳い手だって同じ街に暮らすひとなのだから、その日のこころの糸がこんがらがって硬い結び目になっていることだってあるのだ。彼等はそれを参列者の前では、お昼寝をする子供達の前ではみせないだけで。
てのひらに、つめのあと。
ほんの少しだけ乱れた髪の毛。
物憂げな陰を潜ませた瞳。
主旋律をうたう表の謳い手と、副旋律をうたう裏の謳い手。
ふたりが少しずれてしまうことだって、ある。
だからこそ、すべての式で、まずは表の謳い手がその日にもっとも自分の声や身体と、そしてこころと沿う旋律を選んでもらって、その譜面を式で弾くようにしていた。苦手な曲がないとは言わないけれど、それは練習量で補うことができる。オルガンの音は、歌声ほどこころを包み込むことはできないけれど、それはある程度自分のこころを切り離して奏でることができるということ。そして声よりも確実に一定の音を奏でられて、ある程度の安定を取ることができるということだから。
そう伝えると、璃々は、ころころと音を立てるように真珠をころがしながら、そうやってあのおとになるのね、と呟いた。あのおとってなあに、とたずねると、んーん、もかのオルガンの音はききわけられるっていうことよ、と返される。まだぼんやりとした応えだったけれど、そんなものかしら、なんて思って置いておくことにして。
「それなら表の謳い手さんにきかなくちゃ」
だれが表をするの?せんぱい?ときいてくる璃々に、首を傾げながら応える。
「今日の表は、りりでしょう?」
「え、私、裏しかしたことないのよ」
「でも今日、あなた以外に謳い手をするなら先輩だけれど…先輩がもし表をするのならはじめに譜面を選んで渡してくれるもの」
渡されなかったから、今日の表は璃々よ、と伝えると、若干困惑しているようで、彼女の瞳の中の真珠が揺らぎ端から溶けていくのがみえた。虹彩の端から解けた白が蓄積して元々の深海色に白波をたてていく様は綺麗だったけれど、そのまま何処かへ攫われてしまいそうだったから瞳の奥に視線を絡めて。
「あなたのうたで弾きたいの。…だめ?」
「……それすっごい殺し文句なんだからね」
「うん」
そうだね、と笑いかけてみれば。わかってて言っているのが一番たち悪いのよ、なんて言いながら、ちょっと困ったように、予想外のなにかに面映ゆくなったように、口の端をむずり、と動かしながら了承してくれた。むずむずしている口角の端を人差し指でつんつん、とつついてみると、もう、といいながらやんわり指先を握られる。そのまま、こちらをみて。
「じゃあね、もか。あなたの弾きたい曲を、教えてくれる?」
まっすぐこちらを見つめてくる視線は真剣なそれだった。先程、譜面を選んでほしい理由はもう伝えていたからだろうか、あのね、理由を話してもよい?と問いかけるその声に頷いて返す。
「まずね、裏ばかりしていたのと、そんなに多くの式に出たわけではないの。だから、いま百架に選んでもらった中でも知らない曲があるのね」
この本棚全部の曲をたぶん先輩はおぼえているのだけれど、わたしはまだおぼえていないから。まだちゃんと選べないのだ、と璃々は苦笑した。知っている譜面の題名を言ってくれたら譜面はすぐ出せるし、そこから選んでもらっても大丈夫だ、と伝えると、それもそうなのだけれど、と言った後で。
「驚くべきことに、あと式まで四半刻ちょっとしかないのよ」
その言葉に慌てて背後の柱時計に視線を合わせると、彼女の言う通り、式まではもう四半刻と三分ほどしかなかった。これだと、璃々にひととおりうたってもらって合わせるので時間いっぱいで、いつものように式には臨めない。
どうしよう、とひとりで慌てているのを察したのか指先にきゅ、と力が込められた。式までに残された時間は一緒なのに、そんな中でも、いつの間にか白波をかきけして海を瞳に湛えた彼女は、真珠の煌めきとともに、にこり、とわらってみせる。
「だからね、貴女が弾きたい曲を選んで教えて?おぼえるわ。オルガンに引っ張ってもらう形になるけれど、はじめての表だからたぶんわたしが引っ張ることも上手にできないし」
もちろん頑張るけれど、百架の旋律にできれば寄りかからせてほしいの、といわれれば断る理由はなくて。わかった、といって指先をやんわりと解いてから、とりあえず渡した譜面の中からひとつを選んで手渡した。りょうかい、と璃々は受け取ってくれる。
弾きたいうたなんて、悩まなくても浮かんでいた。街で聴いた彼女の歌声がいっとう広がる譜面が良い。
礼拝歌は、凪いだ朝の海にどこまでも広がっていくような連符を。
哀悼歌は、白砂に散らばったつきのしずくをひとつずつ拾い集めながら偲ぶ低音を。
夢灯歌は、瓶いっぱいのしずくを夜の海に掲げて燈明とするような旋律を。
空想歌は、海の向こうで眠りにつく月と目覚める太陽を繋ぐ架け橋となるような伴奏を。
璃々にとってうたいやすい曲だといいなあ、なんて考えながら選んでいると、礼拝歌の譜面を読んでいた璃々が、あともうひとつの理由があってね、と話し始めたから、そちらを向くと。
「ずっとうたってみたかったひとの伴奏で初めてうたうとき、その人がいちばん弾きたい曲にのせてうたえるのよ。最高でしょう?」
たとえどんな難しい譜面だってうたいこなせるわ、なんて。仕返しのように悪戯っ子の煌めきを瞳に灯してこちらを見遣った彼女の顔面に、慌てて譜面を押し付けたけれど、真っ赤になった顔色はみられてしまったようで、軽やかな声を上げて璃々はわらった。
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