006

「気をつけて」


いってらっしゃい、と青年ににこやかに見送られて、少女とふたりで教会への道を辿る。思いのほか時間が経ってしまっていたから足はいつもよりも早めに、昼下がりで少し人通りが落ち着いてきたから手を繋いで肩は並べて。お使いの花々は、いつもどおりの切り花なら数本は萎れかけていただろうけれど、直射日光を避けて栄養たっぷりの水のなかだったから、まだ瑞々しいままに籐の籠の中で咲き誇っていてくれていた。

息を弾ませたまま教会の裏扉をくぐれば、出迎えてくれた先輩に、いつもよりも遅いから心配したわ、と安堵を滲ませた瞳をして言われてしまった。そういえば何も連絡しないままいつもよりもだいぶと時間をかけて外に出てしまったから、いろいろと心配をかけた上に準備も滞ってしまったことだろう。ごめんなさい、という意味を込めて頭を下げる。


「違うのよ、何もなかったのならいいの。おつかれさま、重かったでしょう」


首を振ってその言葉を否定すると、もういちどありがとう、と告げられたから微笑みを返せば、先輩の視線は少女の方に流れていった。それをうけて、半歩ほど少女が前に出る。


「璃々はどうしたの?なにか用事あったかしら」

「いいえ、ちょっと街で会ってついてきただけです。お使いの途中を引き留めてしまったの、ごめんなさい」

「ああ、お話したいって言っていたものね」


知り合いだったということにも話をしてみたいと思われていたことにも驚いたけれど、まるで帰るのが遅くなった理由が彼女のせいかのようになってしまったことに慌てて目の前の袖を引くと、後ろ手のまま腕を辿り掌から指を絡めてぎゅうっと力を込められた。意外なほどの力強さにのまれて、一度開いた口唇をそのまま閉じてしまう。


「なにかお手伝いできることありますか? 準備でも、式でも」

「あら、いいの?まだ式まで半刻はあるけれど…時間はだいじょうぶ?」

「だいじょうぶ!」

「…そうね、じゃあ式の謳い手をお願いしてもいいかしら?準備はこちらで進めておくから、ふたりで練習してきてちょうだい」


いろいろと予想外の展開にすこし頭の糸は絡まっていたけれど、とりあえず頷いてみせた。西部屋は開けてあるから使ってだいじょうぶよ、と告げた先輩は、めずらしくぱたぱたと音をたてて講堂に向かっていく。式までまだ半刻はあるといっても、この教会ではいっとう広い講堂を飾りつけるにはちょうど間に合うか間に合わないか、というところだったものだから、思わず音の鳴る方へつまさきをむけたけれど、それを見越していたかのように先輩は廊下の途中で一度こちらを振り返ってわらってみせた。その瞳がなんだかいつもよりもふわりと重力をまとった色彩だったことにすこし首を傾げつつ、なんだかいつもよりもすてきな色彩のように感じたからそのまま見送って。

さあ西部屋にいこうか、と身体の向きを変えれば指先に違和感を感じて、視線を下に落とす。ーーそういえば、手を繋いだままだったな、なんて。同じ温度になっているとはいえ、あまりの違和感のなさにまばたきをひとつ。少女も目蓋をぱちくりと瞬かせていたから、手を繋いでいたことを忘れていたのかもしれない。今日直接話したばかりなのにここまで馴染んでいることがなんだかおかしくて、そしてなんだか、胸があたたかかったものだから。そのままのぬくもりが伝われ、と思って指先に力をこめてみれば、一瞬驚いたあとに、瞳の真珠をゆるりととろめかせながらわらってくれた。



西部屋は、そろそろ太陽の光がさんさんと降りそそぐ時間が迫っているからか、いつもよりも空気がこもっていて、とりあえずは空気を入れ替えするために窓へ向かう。この部屋のオルガンは練習用のものでちいさく音もそこまで大きくは響かないから全部開けてしまってもいいのだけれど、街できいた少女の歌声はどこまでも風に乗ってゆきそうだったもの、半分ほどにとどめておいたほうがいいかしら、なんて考えながら窓の鍵をあければ、隣の少女が硝子を押し上げてくれた。途端に吹き込んできた風に、少女の長い髪の毛がふわり、と揺れる。


「いい風。…このお天気ならきっと遠い旅路もよいものになるわ」


少女の言葉にそうだね、とひとつ頷いてみせて。そのまま、窓のすぐ横にある大きな本棚の鍵を開けて扉を開けば、ふわりと紙の匂いが漂った。この教会ができた時から少しずつ集められた譜面は棚の半分ほどを埋めていてかなりの数になるけれど、毎日触れているものだから、どこにどの曲が入っているのかはもう把握している。今日の式につかう譜面を取り出していけば、横で少女が、持つよ、と手を伸ばしてくれた。その言葉に甘えてすべてうけとってもらった後、さらにそこから数冊、自分の手にとっていく。始まりの礼拝歌、哀悼歌、夢灯歌、最後の空想歌。それぞれにたくさん種類がある中から少女に合いそうなものを数譜ずつ選んでいくと、ちょっとした厚みになった。ありがとう、といって受け取った少女はそのあとじっとこちらの顔を見つめたまま、ほんの少し困ったような顔をしてみせたので、どうしたのかな、と視線を合わせながら顔を傾げてみる。


「…ええと、こんなにいっぱい、うたうの?」


その問いには、いいえ、と首を振った。察しが良い少女はそっと掌を差し出してくれたから、片方の手でそのふにふにとした手を包みこんでもう片方の指先をのせる。


「(てのひら ありがとう)」

「…、いいえ、どういたしまして。そういえば、夏樹がいないものね…わからなかったらごめんなさい」

「(だいじょうぶ こちらこそ ごめんなさい)」


でも本当に鋭意練習中なのよ?なんて、ふくふくと頬を膨らませている少女は、青年の言葉を少し気にしているらしい。その頬がとてもやわらかそうにみえて、ちょっとした欲望のままに指先で突いてみるとぷくり、といって弾けたものだから、おもしろくてわらってしまった。そんなこちらをみて少女が驚いた表情をしてみせたあとに、うれしそうな顔をしてこちらの手をぎゅっと握ってくる。


「あのね、あのね。いま、わらったときみたいに、おはなしすることはできる!?」


どういうことだろう、と首を傾げてみせると、なんと説明したらよいのかしら、ええとね、と、少女は眉根を寄せて考え出した。そのまましゃがみこんでしまったので、つられて床に座ってみる。冷静な自分が頭の片隅から、練習時間がなくなってしまうよ、なんていっているけれど、それは無視することにして。そうしていると少女が顔をあげたから、そのまま視線を合わせて、もういちど首を傾げてみた。


「ええと、口元は動かしてほしいのね。でもそれだけじゃなくって、んーと」


喫茶店のときのように、口を動かしてみる。すると少女の口元がなだらかな山を描いたから、どうやら求められているものとはちがうのだとわかった。つぎは少し大袈裟に動かしてみると、真珠が曇ってほんのすこし眉間に皺がよった。…さらに遠退いたらしい。


「なんといえばいいのかしら、くちのなかの空気を動かしながら?しゃべる?かんじ」


求められていることがわかって、すこし息を呑む。

それは、きっと。普通に、かつて声が出たときのように、話してみること。

そして、今のように、と少女が言った、ということは。


いま、自分は。かつてのように、わらった、ということ。



(わらった、の)

あの日の朝のように。かつて、声が出ていたときのように。


(わらえたの、)

声が出なくなってから、そのことを受け入れると決めてから。ずっと、できる限り唇は閉ざしていた。声が出ないということをできるかぎり忘れていられるように。そうしてしばらく経てば、口の動かし方なんて忘れていった。それでよかった。いなくなった父と母が、せめて声だけでも一緒に連れていってくれたように思うことができたから。


(もう、わらっても、いいの、)

口唇だけを動かすようになったのは、喫茶店の店主が、読めるので、もしよければどうぞ、といってくれたから。想い出を辿るときに、呼びたくなったりしませんか、と。唇だけの動きだから、きっと、それこそ店主以外の人には母音しかわからなくて、先生もわからなくて。先生はさみしそうに、それでも少し嬉しそうにしていた。それで、充分だった。



わかる?と少し不安そうな顔つきで、それでも少女が瞳の真珠をほんのり煌めかせたままこちらを見つめてくる。視線を合わせると、こころが揺れているとわかったみたいで、慌てて手を伸ばしてきてくれた。たぶん、また抱き締めようとしてくれたその手をとって、指を絡めて握る。そのまま、頭を下げて、深呼吸をふたつ。顔をあげて、そして、おなかのそこまで空気をいれて。


「りり、」


普通に、かつて声が出たときのように、話してみた。

声帯が震えて音を成すことはないけれど。

かみさまにもとどかない、こえだけれど。


それでも。


「きこえる?」


てのひらを合わせて、指先をぎゅうっとお互いに握り合って。また温度はひとつになった。

痛いぐらいのその力加減が、いっそのことうれしくてしょうがなくて。


「きこえるよ」


床に座り込んで向かい合って。額を合わせて、視界いっぱいに広がる少女の瞳の海に、真珠が融けていく。

瞬きとともに、融けた残砂からもういちど真珠が生まれて、そして育ってゆく。


「きこえる。……はじめまして、もか。貴女とお話してみたかったの」


(もう、いいよ)

(わらっても、いいよ)


そう、記憶の中の先生と、あの日の自分が、微笑った気がした。





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