005

声に向かって走る。ほんとうは鞄も花すらも投げ出してしまいそうになるけれど、かろうじて残っていた理性でしっかりと握りしめた。彼は器用にバランスをとりながら、それでもいつもよりもしっかりと肩口に爪を立てていて、その痛みが細い糸一本で冷静さを繋ぎつづけてくれた。


あのうたは、大切なのだ。初めて歌ったのは父の誕生日で、びっくりさせようね、と母とふたり、内緒で練習していて。この街の言葉ではない唄は、幼い時分にはとても難しかったことを覚えている。ケーキを前にして、母のピアノを伴奏にして披露すると父は泣いて、母は、どう、このこにぴったりでしょう、と胸を張った。伴奏付きでちゃんと歌ったのはその時だけで大抵は口ずさむだけだったけれど、それでもうたうと、もともと垂れ目の父の目尻がもっとゆるりと下がって、その顔を見るのがとても好きだった。母はそんな父を愛おしそうに見つめていた。ふたりのその瞳の色は、世界中の中でいっとう甘い色だった。


声が出せなくなって、なによりもいちばん恐くてしかたがないことは、父と母の喜んでくれたあの表情を思い出せなくなることだ。現にだんだんと、ふたりの瞳の色は、あんなにも綺麗で自分の中で一等だった色はだんだんとぼやけていって、ふたりの瞳のかたちもあやふやになっていって。どこまで記憶の中で弄っているのか修正しているのか、自分の中の記憶がもうすでに信じられなくなっていた。これだけは忘れたくないのだと神様に希っても。祈りの姿しかとれなくて声が出ないせいか一度も願いは叶うことなく、代わりだとでもいうように、最期の赤く染まった姿だけを繰り返し夢見て、さらに色彩が混濁していくだけの、そんな毎日。


(そうだ)


諦めにも似た色濁が、声に引きずられて、ゆっくりと解けていく。


(そうだ、かあさまは、睫毛が瞳に重なってその影が朧をかたちづくって)


絡まっていた色糸が、あらわれてもういちど編みこまれていく。


(とうさまは、目の下の黒子が笑い皺に隠れて、瞳は雪兎のかたちになって)


だんだんと近づいていく歌声に、頭の中に四季彩がめぐる。

春の八重桜が重なって色を深めるように虹彩がとろけ、秋の黄金の稲穂のような煌めきを瞳がはらんでいたこと。

夏の若葉が空に被さるように睫毛の影が伸びて、冬の雪に埋もれる南天のように赤くまあるく潤んでいたこと。


完璧なかたちで再び姿をあらわしたその色彩を頭に焼き付けたとき。うたうそのひとに追いついて、咄嗟に引き留めていた。



ぱちくり、と、まばたきをひとつして、声の主はじっとこちらを見つめてくる。ゆるりと波を描く暗色の髪は膝まで届きそうなほどながい。深色に縁取られた幼い造作の少女と、視線の交わったさき、瞳のなかに真珠がいくつも転がっているのを認めた。真珠は太陽の光を浴びて淡く解けたり、かと思えば突然輝いたりしている。

どうしてそのことばを知っているのかを知りたくて、問いかけようとして。自分の喉からは掠れた息しかでないことに今更愕然とする。声がだせないことを、だれにもこころがとどかないことを。そして、ひとりになったことを受け入れて季節をいくつも重ねたはずなのに、その事実はもういちど胸に重くのしかかった。ふたたび色彩を忘れていく日々がはじまるのか、と、未来をおそれる気持ちも湧き上がる一方で、絶え間なく浮かびあがる疑問符がただただ声帯を揺らそうとして、失敗する。うまく吐き出されない呼気が肺の中を巡り廻り、つきりとした痛みを伝えてきた。


(どうして伝えられないの)

(どうしてそのことばを知っているの)

(どうして今ここで声が出ないの)

(どうして)


たくさんの『何故』が身体の中をぐるぐると巡って、あまりの気持ち悪さに目眩がした。いきなり掴んだこの行為が失礼に当たるということも、自分の手が少女の服をぐしゃぐしゃにしていることにも気付いてはいたけれど、力を緩めることはできなかったーー手を離せば、頭の中の色彩は、目の前の少女は、あっさりと消滅してしまいそうだったので。口がはくはく、と動くだけ、なにも紡ぐこともないまま、だんだん自分の呼吸の音だけが頭の中に鳴り響いて。


「だいじょうぶよ」


気付いた時には、自分のものではない心臓の音がすぐ間近で鳴り響いて、自分の呼吸の音を打ち消していた。背伸びをした少女の胸に頭を抱え込まれている。髪の毛を溶かす少女の手はほんの少し冷えているのに、少女の身長は自分のそれよりも低いというのに。心臓の拍動はどこまでも暖かく、腕の中はとても深かった。


「ゆっくりいきをして」

「だいじょうぶ、だいじょうぶよ」

「いまあなたはここにいるわ、わたしがつかんでいるもの。つかまえているからだいじょうぶ」


捕まえたのも捕まえているのもこちらなのだけれど、なんて、どこかで冷静な自分が呟くのは、瞬きふたつで聴こえなくなった。早鐘を打っていた心臓が、ゆっくりと落ち着いていって、少女の心臓の音に重なる。少女の音がひとつ重なって、そこからよっつ、自分の音だけ。


「ここは息ができるばしょだもの。おぼれたりしないわ」


しばらく経って、ほんの少し指の力を緩められるようになって、みっつ。


「じょうずね、」


小さくて深い胸の中から腕を伸ばしてしがみついて、ふたつ。


「…いいこ」


身体の中に骨伝導で伝わってくる三拍子が安定したころ、奇しくもそれはあのうたと同じ速度だった。練習のとき、母が、背中を叩いてくれた、そのままの。



「さてと、おふたりさん、…というか主に璃々かな。ちょっとは人目なんてものを気にしてみようか」


そう、第三者の声が耳に届いたのは、ぐしゃぐしゃの結び目をつくっていた頭の中の糸がほんのり緩み、そろそろと周りの様子を聴くことができるようになった頃だった。街ゆくひとびとは気を使ってくれているのか、二人の傍を通り過ぎるときはいつもよりもほんの少し足音を抑えてくれていて、抜け出せない微温湯のような気遣いではなく、ほんのすこし風にやさしさをあたえるような心遣いに頭が下がる。そろそろ離れなくちゃ、なんて、少女にしがみつきながらぼんやりと考えていたときだったから、その声は腕を離すきっかけにはちょうどよかった。よかったのだけれど、顔をあげようとしたその瞬間には、細い腕で引き留められて元の体勢に戻っていて、


「まって、待って。まだこのこの音がちょっとはやいの」

「おまえの音から比べていくつなの」

「三拍子ね」

「それはその子にとってはいつもどおりの速度だと思うけれど」


そうなの?と、身体は寄り添ったままほんの少しだけ頭をはなして顔を覗き込んできた少女にしっかりと目線を合わせ、頷いてみせる。すると、じっと数瞬視線を交わらせたあとに、それならよかった、といって、にこりと微笑ってみせた。指先から腕へ、身体へと力を抜いていって、一旦少女から距離をとる。落ち着けば自分の言葉を伝える方法は頭の中に浮かんできていて、少女の掌をかりて文字を綴っていけばいいことはわかっていた。混乱していた自分を受けとめてくれたことへの感謝を伝えたかった。ーーそしてたずねたいことがあった。

少女の手をとって、一度握りしめたあと掌を上に向けて。真白のそこに自分の人差し指を載せようとしたところで、いつの間にかひとりの青年が傍に近付いていたことに気付く。ちいさな口唇を開いて聴こえてきたのは先程と同じ、少し低めの透きとおった声だった。


「ゆっくりかいてやって。そいつはここの言語、書きの方が苦手だから」


ほんの少し首を傾けて告げられた青年の言葉に頷いてみせると、そのやりとりをみていた少女がふくり、と頬を膨らませる。同時に開かれていた掌がぎゅっと握り込まれてしまった。青年へ向けられた瞳の中の真珠は、そのこころの動きを示すようにちいさく瞬いている。


「苦手じゃないもの、まだ鋭意練習中なだけ」

「…それ、今後上達するにせよ、今は苦手ってことだろ」

「う」

「はいはい、拗ねない。…わからなかったら横から教えるから」

「んむむ、……おねがい」


えっと、お待たせしました、どうぞ、と、言いながら再び開かれた掌に、そっと指先を載せて文字をゆっくりと綴る。


「(ありがとう)」

「えーと、…どういたしまして」

「(とつぜん ひきとめてしまって ごめんなさい)」

「とつぜん、…んんん?ごめん?」

「ひきとめてごめん、って」

「なるほど。いいえ、お気になさらず!」


少し戯けてみせたその様子に、微笑みが零れた。

できるかぎり簡単な言葉を選んで、指で記す。感謝と、謝罪と、そして。


「(しつもんが あります)」

「しつもん…なあに?」


ほんの少し震える指先を誤魔化すように、一度握りしめてから。


「(いまうたっていた うたは どこで しりましたか)」

「(あなたに うたのことばを おしえてくれたのは だれですか)」


その瞬間、手元を覗きこんでいた青年の瞳の色彩は、ほんの少しだけ翳ってみせた。




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