003

少なくない季節を巡り、新しい朝を迎えたというのに。とびらの向こうをのぞくたび、指先は震え、腕の傷が痛む。

なぜ、どうして、こんなにもよわいのかな、どうしたらいいのかな、先生。



朝のお祈りを終えて、鍵盤から手を離して、一息つけば、オルガンの横に置いたちいさな椅子から、彼が膝の上へと移動してくる。ぬくもりに触れながら、朝の身支度の合間、ちいさな水筒にいれてきた紅茶をひとくち。

...なんて、一息ついていると、彼のちいさな耳がぴくりと動いて、次いで扉の向こうから忙しない足音がきこえてきた。まっすぐこちらに向かってくるようで、心当たりはなかったけれど、とりあえず水筒を片して鍵盤の蓋を閉めれば、ひとつ大きな欠伸をした彼が肩に飛び乗ってくる。それと同時に、足音は扉の前で一度止まり、ノックを三回。ゆっくりと開く扉の向こうには、同じく教会で働く先輩の姿があった。


「百架、ごめんね、ちょっと頼みごとをしてもいいかしら。…急なご依頼でね、席に飾るお花が足りなくて」


申し訳なさそうな表情をほんの少し覗かせる先輩にひとつ頷いてみせて、てばやく外出する準備を整える。午後三時くらいからだから、お昼も外で食べてくるといいわ、と、ほしい花の色を書いたメモと、花を買うにはすこし多いお金を渡された。こんなにいらない、と首を振ると、たまにはいいのよ、と微笑まれたので、ありがたく受け取ることにして、鞄の中にしまう。


「気をつけてね、いってらっしゃい」


おはようございます、や、またあした、はきくけれど。いってらっしゃい、は、久々に言われたものだから吃驚して、いつもより慌てて頭を下げてしまい、つられて落っこちそうになった彼に、ぐわし、と爪を立てられる。痛かったけれど、その痛みも含めて、なんだかおかしくて、あたたかくて、そしてほんの少しだけ、さみしかった。



切り花は、持ち歩けば持ち歩くほどほんの少しずつ萎れていってしまうものだから、帰り道に買うことにして、手早くお昼をすませようと街に出る。いろいろなお店が並ぶうち、教会から図書館へと続く大通りの途中にある小さな喫茶店は、休日によく訪れる場所のひとつだ。おもに珈琲豆を扱っているお店なのだけれど、どうしたって珈琲は苦くて飲めなくて、そのことを店主も知っているから、顔を覗かせるとメニューにはないココアにホイップを、そして、彼には人肌にぬくめたミルクとちいさなビスケットを出してくれる。

いつもどおり、からんころん、とドアベルを鳴らして店のなかにはいる。胸いっぱいに珈琲の香りが広がるのが心地よい。匂いは好きなのにどうしてあんなに苦いのかな、なんて考えながら空いた席に座ると、店主が檸檬水が注がれたグラスをそっと置いてくれた。いつも伏し目がちな店主は、どうやっているのか、唇の動きを読んでくれる(滅多と話さないせいで動きが悪いのだけれど)から、ゆっくりとなら会話をすることができる。


「こんにちは。今日は食べてゆかれますか」

「こんにちは。ぜひ、」


うれしいです、といって、店主の目元が柔らかくなった。


「スコーンかパスタ、どちらにしましょうか」

「スコーンで、お願いします」

「わかりました。おまちくださいね」


そういってカウンターの向こうに戻り、しばらくしてテーブルまでやってきた店主の手元には、色彩鮮やかなワンプレートがあった。メインは、細かく刻んだ野菜がたっぷりとはいったハンバーグ。じゅわりと滲む肉汁のそば、付け合せのトマトとアスパラガスにはとろりと溶けたチーズが絡んでいる。瑞々しいベビーリーフとグレープフルーツが、人参だろうか、橙色のドレッシングで飾られており、窓硝子越しの陽射しをうけて煌めいていた。どちらかといえばがっつりとしたメニューのなかで箸休めとしてだろう、ちいさなガラスの器のなかにはペコロスとラディッシュのピクルスが飾切りをされて添えられている。そして、中割れをおこしたスコーン。ソースと絡められるようにプレーンだけれど、バターがたくさん織り込まれているようでとてもいい匂いがする。


「お待たせしました。どうぞ」

「ありがとうございます」


まずは一口大に切ったハンバーグを、ソースと絡めて口の中に含む。じゅわりと滲む肉汁はかなりの熱さを持っていて、どうしたって火傷をするのだけれど、美味しさの前では他愛もないこと。...他愛もないのだけれど、やはりひりひりとするものだから、うまみをたっぷりと堪能したあとにラディッシュを口に運ぶ。果汁をたくさん使い、酸味が抑えめな自家製ピクルスは、口の中でさわやかに弾けて鼻まですっととおった。グレープフルーツにベビーリーフという一見身体が冷えそうな組み合わせは、ドレッシングのなかに仕組まれた生姜によってあとから喉元や胸のあたりへとじんわりとしたあたたかさを連れてきてくれる。

檸檬水でいちど口の中をすっきりとさせたあと、もうひとつのメインディッシュに手を伸ばした。熱々のスコーンをまずは一口、そのままで。表面はさっくりと、中はふんわりと蒸気をまとったままの食感に感動する。ついではハンバーグのソースと絡めて、そのままでもふんだんに口の中に広がるバターの香りは混じり合ってまた別の顔を覗かせた。


「お口に合いますか?」

「とても。とてもおいしいです」

「それはよかった」


ワンプレートは、あっという間に綺麗になった。食後ですから、と言って、店主は小さめのコーヒーカップに、いつもよりもほんの少し苦めなココアを出してくれる。その頃には彼もお腹がくちくされたのか、膝の上にのぼってきて一度ぱたんと尻尾を振ってから、くあり、と欠伸をひとつしてまあるくなった。ふかふかなその背中を撫でながら、うつわに口をつける。

まろい茶色の液体は、舌の付け根にほんの少し苦みを残したまま、とろりと胸の奥まで落ちていく。じんわりと広がるぬくもりは血管を伝って隅々まで伝わってきた。指先までほかほかとしている今なら、どんなにむずかしい連符だって弾きこなせそうだなあ、なんて考えていると知らず口元は緩んでいる。

飲みすすめていたココアはいつのまにか残り少なくなっていて、砂糖がほんの少しだけ底に溜まっていたのか、最後の一口はいつもどおりの甘さを伝えてくれた。


ふ、と一息ついて、飲み終えたカップをソーサーの上におけば、彼はぴくりと片耳をそよがせてから伸びをひとつして肩に飛びのった。空になった彼のうつわを指先で掬って、ワンプレートの上にまとめておく。立ち上がって外套を羽織り、レジに向かえば、店主の節だった、それでいて細くすらりとした指で弾かれ、ひとつの数字を示される。運良く硬貨でぴったり出せたことに、すこししあわせな気分になった。店主もぴったりですね、と微笑ってくれる。


「ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした。よいいちにちを」

「はい。よいいちにちになりますように」


会釈をひとつしてから烏羽色の扉を押し開ける。春は近いもののまだまだ冷たいからっ風に、ぶわりと彼が毛を逆立てたので、いつもは背中に流しているフードを浅めにかぶって、ずりおちることのないように一箇所をピンで留めた。それに応えるように彼が、なあう、と鳴いてからだの強ばりを少し緩めたから、もっとあったかくなあれ、と、首を少し傾けて擦り寄る。まだまだ、自身の身体中にぬくもりは巡っているから、いつも熱を分け与えてくれる彼にお返しを。


(頼まれた花は結構な量だから、帰り道はもしかしたら少し汗をかくかも)


風邪を引かないようにしなくちゃ、なんて考えながら、彼とふたり、街で唯一の花屋に向かって足を進めた。春が近いから、そろそろ店の中では一足先に春が咲き乱れているのかもしれなくて、もしそうなっているのなら、選ぶのに少し苦労しそうだ。春の花はあたたかな、陽の光を閉じ込めた色彩が多くて、それらはとても好ましくて、どの花も選びたくなってしまう。


よろこびであろうとかなしみであろうと、ひとのこころに寄り添う色彩を選ぶのはむずかしい。

色の淡さも、その大きさも、みたひとのこころでかわってくるものだから、よりいっそうに。

何回やっても正解というものはなくて、結局は寄り添えているかもわからなくて、考えることしかできないのだから。


(どうか上手くいきますように)


一緒に選んでね、という気持ちを込めて、もういちど首を傾けると、彼は首元に柔くまきつけた尻尾で、しょうがないなあ、とでもいうように、とん、と肩を叩いてきた。

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