002
森と湖、そして海に囲まれた小さな街。そこにひとつだけ在る古い教会には、様々な声が届く。なにせひとつしかないものだから、街のすべての人々は、すべての節目をこの場所で迎える。新たな縁への祝福であったり、後悔の色彩をのせた懺悔であったり、大切な人との永別であったり。心が揺れるときに真綿で包んでそっと寄り添ってくれる場所はやわらかな乳白色をたたえている。
そして、真綿のぬくもりは身寄りをなくした子供にも分け与えられた。心因性のものか、父と母の葬儀が終わった頃には声が出なくなっていた。怪我をした腕もうまく動かせなくて、小さなときから教会で賛美歌を歌い、オルガンを弾いていた自分にとってはもう何もかも出来なくなったようにしか思えなかった。綺麗と思ったはずの星のひかりさえ思い出せず、いま生きている理由もわからなくなった。そんな、二重の現実に打ちのめされたときも、哀れみもなく、あたたかく静かに受け入れてくれた。
その教会で働くようになったのは、一人の神父ー先生と呼んでいたーが声をかけてくれたからだ。
母を小さな頃から知っている先生は、あのこのオルガンが聴けなくなるのはさみしいね、といって。どうかよければ、君のオルガンを聴かせてくれないだろうか、といった。いつもすらすらと弾けた賛美歌が、うまく弾けないのはわかっていて、でもその事実をみたくなくて。母がよく歌ってくれた子守唄を、なんとなく伴奏をつけて弾いた。歌詞だけが頭にぐるぐる回って、うまく動かせない腕で弾いたそのメロディは、飛んだり跳ねたり、間違ったりして、あまりにも拙かったのに。
ああ、あの子と同じ、あたたかい音だね
そう、涙をこぼしながら微笑んでくれたから。
ありがとう。もしよかったら、また聴かせてくれないだろうか
そう、かなしい瞳のなかに幸せの色彩をほんのすこし交えて、手を差し伸べてくれたから。
そのてのひらの上に自分の手をのせた。目が熱くて、鼻が痛くて、視界がぐらぐらと揺れて。そこまで動かすので精一杯だった。
うまく力が入らなくて、握り返せなくて震えるてのひらを、先生はやさしく握ってくれた。
はじめは先生に乞われたときに、子守唄を弾いていただけだったけれど、そのうち誰も講堂にいない間をみてオルガンを練習するようになった。熱中すると腕が痛むのにもかかわらず弾き続けてしまって、そうすると必ず先生が塗り薬を片手に講堂に顔をのぞかせた。どうしてわかるの、と、視線で問うと、ほんの少し、無茶しいな音になるからね、と言って笑って。腕の傷跡はとても人に見せられたものではなかったのに、優しい眼差しのまま、いつも丁寧に薬を塗り込んでくれた。
そのうちだんだんと腕を動かせるようになって、春。指先もきちんと動くようになった頃、おそるおそる賛美歌を弾いてみて。ちゃんと弾けたことに安心して、ぼろぼろ泣いた。先生は泣いていた自分をみつけて、ひどく驚いた顔をしておろおろしながら涙をぬぐってくれた。その日から、空いた時間に弾く曲は多様になった。
先生のいう無茶しいな音は、腕が動かせるようになるにつれて減っていって。だから先生が薬を片手にすっ飛んでくるなんてことはだいぶとなくなったのだけれど(新譜をみると一度はやらかしてしまうのはもうどうしようもない)、代わりに午後四時ごろ、こっそり顔をのぞかせる先生のリクエストに応えるようになった。二曲、多くて三曲。そして最後に子守唄。それだけは決まっていた。
それもしばらくして、夏。先生から、教会でオルガン弾きとして働いてみないか、と言われて。少し考えさせてほしい、と伝えたのは、自信がなかったからだ。先生はあたたかい音だと言ってくれたけれど、それは母の音を知っているからじゃないのか、だとか、ひとの声をちゃんと届けられるだろうか、だとか。ぐるぐる頭をまわって、知恵熱なんてものを出した。二日ほど休んで、まだほんの少し微熱があったけれど、オルガンが弾きたくて教会に行って。いつも通り空き時間に弾いていると、朝の礼拝に参加していたちいさなこが顔をのぞかせた。
おねえちゃん、元気になった?あのね、おねえちゃんひいてる曲をきいてるとね、ぬくぬくしておひるねできるから。
きのうはちょっとねにくかったの、だからね、今日も弾いてね、たのしみにしてるね。
講堂に広がったその言葉は、教会とは違う種類のぬくもりをもっていて。あまりに真っ直ぐだったものだから、生返事になってしまったのだけれど、そのこは言って満足したのか、にっこりと笑顔をみせてから、ぱたぱたと足音を立てて走り去っていった。だんだん小さくなる足音と入れ違いにはいってきた先生が、ゆっくりゆっくり、オルガンまで近付いてきて、こちらをみて。
ほらね、あたたかいって、いったろ、と。あのときよりも寂しさや哀しさの色彩がきえた眼差しで微笑んだから。
オルガンを弾こう、と思った。ひとりぼっちになって目の前が真っ暗になったあの日、助けてもらったぬくもりを、ほんの少しでも伝えられることができるなら。目の前のひとのように、哀惜をほんの少しでも軽くできるのなら。あのこのように、ひとりぼっちの夢へ陽だまりを連れていくことができるのなら。
もうあえないひとへの、ゆめまぼろしへの。
つめたいかなしみに、いたみに。
ぬくもりを、陽を灯すことができたのなら。
それは、いま生きている理由として、充分すぎるものだと、思った。
働きはじめて、当然毎日の弾く量がとても増えたものだから、しばらくは先生がよく講堂へ駆け込んできた。てのひらで薬をあたためて塗り込みながら、無茶しいの音から無理しいの音になっちゃってもう、とため息をつかれたりもしたのだけれど、それでも先生が午後四時に子守唄を弾いて、と言ってくるのは変わらずに。いっぱい弾いているんだから休みなさいと言われないことが嬉しかった。夕方の子守唄を弾き終わって、二階の大広間をのぞけば、ちいさなあのこはお友達と豪快な寝相で、でもしあわせそうに眠っていたから、ブランケットを掛けなおして。ほんの少し躊躇ってから、頭を撫でて、広間を出た。
フラワーシャワーで弾いてほしいの、と頼まれた曲を弾いた。しあわせの雨を受けとめた笑顔をみた。
最後にあの人の好きだった曲を、と頼まれた曲を弾いた。よい夢を、といったそのひとの涙の色が、ほんの少し、柔らかくなった。
誰かのこころに寄り添えることが、うれしかった。遠くへの祈りを送り出せることが、うれしかった。
オルガン弾きになってから三つの季節を数えたころ、先生は故郷に帰ることになった。それでひとつ頼みがあって、と打ち明けられたのは猫の世話についてで、先生はよく家に忍び込んでくる猫にごはんをあげていたらしいのだけれど、故郷は遠くて、連れていってやれないのだという。それからしばらくは、先生の家に滞在して猫との接し方やご飯のあげ方を学んだ。本当に野良なのだろうかと疑問に思うくらい懐こくて、思う存分もふもふを堪能していると、先生はそれをみて、お前そんなに俺には懐かなかったろう、とじとっとした目で呟いていた。その顔が面白くて、もふもふしながら微笑っていたのだけれど、そのうち目の中に毛がはいってしまったものだから、その思わず彼を落としかけて、短めのしっぽで頬を叩かれたりもした。名前はないらしく、呼ぶこともできないからつけなかった。
先生が旅立つ日。はじめて彼が肩に乗ってくれたから、そのままに見送りにいった。午後四時の子守唄は弾きつづけてほしいといわれて、了承した。さみしいのがどうしようもなくて、でも泣き顔で見送りたくなくて堪えていたら、手紙を書くよ、と頭を撫でてくれた。てのひらはやっぱりやさしくて、そのぬくもりに結局は涙腺が決壊してしまって。先生はいつかのときみたいにおろおろしていた。その姿に、泣きながら微笑った。
はじめての手紙は、無事に着いたよ、という内容だった。先生の瞳の色に似た深い青のインクで綴られた文字は、予想外なことに、とても汚なかった。返信には素直に、先生の字が汚くて吃驚した、と黒のインクで書いた。
それからは、ひと月に一度、窓をこんこんと叩く音がして、開けるとちいさな森梟が手紙を持ってきてくれる。どんなに重い小包でもいつも静かに窓辺に降り立つのは、どんな魔法をつかっているのだろうか。きれいな濡羽色の眼をくるくるさせて見つめてくる彼女にごはんをあげて、手紙を読んで返事を書く間、三日間ぐらいはゆっくりしてもらう。一人と一羽と一匹、みんなで一緒に眠るといつも以上に布団があたたかくて抜け出せない魔法が強くなるから、寝坊しがちになることだけが問題だ。
手紙を書き終わったら、彼女は飛びやすい日を選んで運んでいってくれる。旅立っていったあと、その夜だけはいつもよりなんだかベッドが冷たいものだから、一人と一匹、頭まで布団をかぶって眠るようになった。
太陽と月が交互にまわり、季節は巡る。
雪の下が顔を出して、春。花散らしの驟雨が降ったあと、赤色の若葉が鸚緑をたたえるようになって、夏。
天へのびた向日葵がこうべを垂れて、秋。樹々が葉と果実を落として、霧雨が六花となって、冬。
そして、ひとのいのちも、また、巡る。出会いと別れを繰り返す。
ずっと、オルガンを弾き続けている。
よろこびに、かなしみに。そのひとの色彩が、どうかつめたくこおりつくことのないように、願いをこめる。
だれかの声にぬくもりを添わせるように、鍵盤を押す。音を繋げて、曲に。こころが、ちゃんと届けたいひとに伝わるように。
祈りの姿をとることはできても、声が出ないから。きっと自分の祈りはとどかないけれど。
それでもこの音を聴いて、ぬくもりを抱いてくれるひとがいる。遠くにいってしまったひとへの祈りを送ることができる。
それだけで十分すぎるほど幸せなことを、もう知っている。
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