ゆめまぼろしにひのともる

ゐと

本編

哀をかさねて藍よりかなし

001

かくも突然にあっけなく。日常は壊れゆくものなのだということを、あの日、学んだ。



「ただいま、…あれ?」


いつもどおりの時間に、いつもどおりに。家の扉をあけて、目の前にひろがる光景はあまりにも受け入れがたいものだった。かならずおかえり、と声をかけてくれる母は、父の腕に抱かれたまま虚空をみつめていたし、その父も、目を閉じて、ぴくりとも動かない。ふたりからありえない量の赤が床にひろがり、踏み出した足元でぐちゃり、と音が鳴る。音が鼓膜を伝い、頭でその存在を認識した瞬間に、脚の力が抜けた。顔に飛んだ赤は、まだ温もりをもちあわせていたものの、すぐさま冷えていってしまう。


買ってきた花が生けられるはずであった花瓶はそのままダイニングテーブルの上に。料理は、きっと己が帰ってきたらすぐさま取りかかれるようにだろう、器具もすべてきれいに並べてあった。床さえ見なければ、それはあまりにも毎年通りの光景が広がっていて、一瞬頭が混乱する。しかし、どう視線を逸らしても、視界の一部には赤がはいってくる。そしてその先には、動かぬ父と母の姿があった。


「とうさ、ま」

今日はかあさまの誕生日だから、とうさまはお仕事おやすみ!百架は教会のかえりに、かあさまの好きなお花を買ってきておくれ、とうさまは料理の下ごしらえをして待っているから、そこから一緒に料理をしよう。そう言っていたのに。


「……かあ、さま、」

誕生日の朝だけは、かあさまはゆっくり起きるの、とうさまのあさごはんをわくわくしながらまっているのよ、なんていって。ベッドに転がったままやさしく頭を撫でて、寝起きのままの掠れた声で、いってらっしゃい、おはようおかえり、って笑っていたのに。


今日の夜はご馳走をいっぱい作って、かあさまに、家族になってくれてありがとう、と伝えて、そして。お風呂上がりのかあさまの髪にドライヤーをあててふわふわに乾かして。ほんのすこし夜更かしして、ケーキを食べて、三人でひとつのベッドに眠る、そんなこれからあったはずの今日が。ぐるぐると頭をまわって、


「あれ、まだだれかいたの」


後ろからの声に、反応が遅れた。


振り返った先には、あまりにも全身が真っ白の青年がいた。ふわりと微笑ったまま、とん、とん、と足音を立ててやってくる。その微笑みはとてもうつくしく、綺麗、以外の言葉が出てこないほどで、真綿のぬくもりを閉じ込めているような、やさしい表情だった。きっとこの微笑みから、しあわせをうけとるひともいることだろうーー彼の両手が赤く染まっていなければ、の話だけれど。


「こんにちは、あれ、もうこんばんは、かな?......ごめんね、きみにはなんの恨みもないのだけれど」


その表情に視線を奪われている間に、青年は、もう自分の目の前にまでやってきていた。足は震えたまま動かせず、両手が濡れるのをそのままに後ろに引き下がる。もういちど引き下がろうとして、両手は、なにか冷たい物体に触れた。視線だけを巡らせると、そこに在ったのは母の掌で、数時間前までぬくもりを宿していたはずのそれを、いま自分は、物体だ、と認識した、その事実に頭を殴られたような衝撃をうける。打ちのめされて、もう声は出ず、身体も動かせなかった。

青年が目の前に座り込む。両手を彼にとられて、その体温があまりにも低いことに気付いた。赤く染まって冷えたのだろうか、それとも、もともと低いのだろうか。視線を合わされて、青年の眼が深い紫紺の色を宿していることを知った。夜の海の色だ、とだけ、思った。


「せめて痛くないようにしよう、さてと、おやすみ」


首の後ろに衝撃を感じて視界が黒く染まっていく。途切れていく意識の中で、父と母の笑顔が浮かんだ。


(とうさまとかあさまは いたくなかったのかな)

(いたくなかったら、いいなあ)


目蓋を閉じて、それだけを願った。



視界に、花葉色が映り、あまりにも綺麗なそれに手を伸ばそうとして、指一本動かせないことに気付く。なんだかとても体が重く、足の先からだんだんと冷たさが這い上がってくるのに、一方で肩から先はとても熱かった。痛みはなくて、なんだかとても眠くて仕方がない。全身をゆたりと、薄暗いものがおおっていこうとするのだけれど、肩に触れる花葉色を中心にして、つめたくもあたたかい不思議な温度が渦巻いている。

何本もの糸が揺れることで、それがだれかの髪だと気付いた。糸の先を辿ると、ふたつの白藤の星がじっとこちらを見つめている。


ひかりだ、と、思った。


視線をあわせたまま、ゆるりといちど、星が瞬く。

「こども、お前はまだ生きたいか」


死んでしまうということはこの星がもう見られなくなるということだ、ということだけはわかった。初めて見つけたひかりは本当に綺麗で、たった一度の瞬きしかまだみていないままに目を閉じてしまうのは、あまりにももったいなく思えたものだから。


「 」


応えて、ゆるりともういちど星が瞬いたのを確認して。ああ、やっぱり綺麗だなあ、と思ったことだけ、覚えている。



(なつかしい、ゆめをみたな)


視線だけを巡らせて空をみると、端がほんの少しくらいまま、淡い青を覗かせていた。これなら傘は必要ないかな、なんて、瞼を瞬かせながら考えて。首元をあたためてくれているいのちに顔を擦りよせると、短めの尻尾で、頬のあたりをぺしぺしと叩かれる。

大通りを挟んで向かいの店のシャッターが開く音が毎朝の目覚まし代わりとなって、しばらく経つ。ほんとうは、もう四半時ほどうつらうつらしていてもいいのだけれど、ゆっくり朝は紅茶を飲みたくてほんの少しだけ早起きをして。眠っているあいだ動かしていなかった腕はどうしたって毎朝痛むから、ほんの少しだけ呼吸を抑えて、ゆっくりと動かしはじめる。


いつまでたっても慣れることのない痛みに、慣れなくていいとさえ思う。

そうすれば、あの日のことを思い出さない日などなくなるのだから。


(独りよがり、と言われれば、それまでだけど)


毎日の朝、ベッドティは枕元においたケトルで淹れる。汲みたての水で淹れたほうが茶葉はよく開いて美味しくなるのはわかっているけれど、どうしたって布団のなかのぬくもりを手放すのは惜しい。沸かしたてのお湯でいれるミルクティは、あまりに熱すぎて飲めないから、しばらく待たなくてはいけなくて、その待ち時間はとても大事な時間だ。ーー今日のように、過去から今にゆったり自分の時間を進めるにはちょうど良い。

ふ、と、息をついて、ミルクティをひとくち。今日は少しだけ、お砂糖が多かったかもしれないな、なんて考えながら、いい塩梅になったそれを身体の中に流していく。喉元を滑り落ちて、ゆっくりと胸にひろがり、足先まで。ぬくもりがひろがったのなら、ベッドから抜け出して、着替える。夜通し首元をぬくめていてくれた彼には、お礼として人肌程度のミルクを。小さな器を床におけば、尻尾を揺らして大人しく飲みはじめた。この姿も、見るようになってしばらく経つ。

飲み終わるころを見越して、鞄の用意をして、首に御守りをかければ支度は整った。毎朝使うマグと彼の器をさっと水で洗い流して、水切りしておく。帰るころにはきっと綺麗に乾いているだろう。

終わって手を拭き、外套を羽織れば、合図を出さなくても慣れた重みが肩に飛びのってくる。彼はそのまま器用に落ち着くものだから、マフラーは必要なかった。


(いってきます)


応えがないことにひとつ苦笑をおとして、ドアノブに手をかける。指先がほんの少し震えて、でもそのままドアを開けて。


いつも通りのいちにちがはじまる。街の空気は、まだ冷たい夜の静寂をどこかに含んだままそこに在って、胸いっぱいに空気をいれれば、冷たさにほんの少しだけ鼻が痛んだ。




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