第1話 異界の本

 東京の空が茜色に染まる頃、少女は教室を後にした。窓の外からは、まだ運動部が青春を謳歌する声が聞こえる。自分とは違う世界の住人を見るかのように、少女は校庭を横目に下駄箱へ歩いていく。

 運動が嫌いな訳ではない。ただ、少女にとっては運動の後の疲労感よりも、頭を使った後の疲労感のほうが勝っていた。文化系の部活にも属さない少女が、この時間まで学校に残っていたのは一人で勉強する時間が欲しかったからだった。


「羽鳥ぃ、早く帰りなさいよー」


下駄箱で、学年主任が声を掛けてきた。男女分け隔てなく接してくるこの先生は、嫌いではなかった。


「すみません。勉強に集中していたら、つい遅くなっちゃって」


少女は申し訳なさそうな声で詫びたが、表情はにこやかだった。


「流石は学年トップだな。こんな時間まで勉強とは感心ね」


「好きなんですよ、勉強。一人の時間も」


「そういえば羽鳥は、あまり友達と遊んでいるような雰囲気はないわね」


学年主任は目を細めた。


「学生たるもの、友人と青春を謳歌する事も大事な学業だぞ」


「大丈夫ですよ、先生。そこら辺は、上手くやってます」


少女は表情を崩さずに返した。


「そういうことじゃあないんだけどな。まあ、羽鳥が大丈夫というなら、先生は信用するよ」


「ありがとうございます」


そう言うと、少女は校舎を後にした。


 坂だらけの街は夕日を浴びて、何もかもが鮮やかなオレンジ色だった。次第に紫を帯びゆっくりと夜の闇が溶け込んでくるこの時間が、少女はたまらなく好きだった。

日の傾きに合わせ、速度を緩めながら家への帰り道を歩く。夏の空気を一杯に吸い込んだ肺は、生きている事を実感させてくれる。

いくつかの角を曲がる事には、束の間の幸せだった黄昏は終わり、夜のカーテンがあたりを包み始めた。


「これさえ変わってくれれば、良いんだけどね…」


少女はため息交じりに独り言を漏らした。「これ」と称されたのは、少女の目の前に佇むお世辞にもオシャレとは言えないみすぼらしい雑貨店だった。

「ただいま」


少女はまるで、誰にも聞かれたくないかのように小さな声を発しながら、その建物に足を踏み入れた。


雑然と置かれた小物は、いったい誰が買っていくのだろうといつも思う。

決して可愛い訳でもなく、かといって高級感も感じない。あるのはただ、怪しさだけである。

魔除けであろう木彫りの仮面が壁から少女を見下ろしている。古めかしい棚に並べられているのは、星座が描かれた陶器のプレートや、タロットらしきカード。最上段には如何にも未来が見えそうな水晶玉。


――一体、誰がこんなの買っていくのだろう?


鈍色に輝く壺を指で撫でながら、少女はため息をついた。繁盛している様子は全く無いが、かと言って潰れそうな雰囲気も無い。まるで百年前からここにあって、百年後もここにあるような、時が止まった空間。


それが、少女の家だった。


「それは戦前、爺さんが譲り受けた呪詛を貯める壺だよ」


突然、暗闇から声が発せられた。


少女はビクッと体を強張らせたが、その存在に気付きすぐに緊張を解いた。


「おじいちゃん、びっくりさせないでよ」


少女の声に応えるように、暗闇から小さな老人が姿を現した。

 

「おかえり、英玲奈。やっと私の商売に興味を持ってくれたのかい?」

 

老人は満面の笑みで英玲奈を迎えた。


「ただいま。そうね、お店を持つのは良いかも。でも、こんな怪しいオカルトグッズじゃなくて。オシャレで可愛い雑貨屋さんが良いの」


「まだじぇいけいには、この魅力が分からないだろうね」


――じぇいけい?JKか…


彼なりのトレンドワードを発せたのが嬉しかったのか、老人は満足そうに近くの椅子に腰を下ろした。


「この店の商品はな、分かる人には分かる物ばかりなんだよ。だから、遠くからわざわざ来てくれる客もいる。特別な力を持った物に、人は惹きつけられるんだな」


「残念だけど、純情可憐な女子高生にはまだ良さは分からないわね」


英玲奈はため息交じりに答えた。


「それで良い。この物たちは、必要な人に、必要な時にその力を開放するんだ」


「何それ。まるで魔法のアイテムみたいね」


「その通りなんだよ、英玲奈。ここにあるのは魔法のアイテムたち。普通の人には必要は無いが、それぞれ特別な意味を持った物たちなんだよ」


英玲奈は笑ってあしらうつもりだったが、老人の目は真っ直ぐに英玲奈を捉えていた。


「お前にも、必要な時が来たら、きっと力を貸してくれるだろうさ」


「そうね、楽しみにしてる」


英玲奈は返事をしながら店内を抜け、そのまま居住区に続く階段を上がろうとした。


――その時。


階段横の本棚から、一冊の古びた本が英玲奈の足元に落ちた。英玲奈は長く艶やかな髪を抑えながら、その本を拾い上げる。


「あら。じゃあこの本は今の私に必要なのかもね」


笑いながら英玲奈は老人に目を向けた。


「そうかもな。これも運命かも知れん。読んで見ると良い」


老人は再び、満面の笑みを浮かべた。


「汚すなよ、売り物だからな」


はっはっはっと笑いながら、老人は店の外へと出ていった。すっかり暗くなり、店仕舞いを始めたのだろう。

英玲奈は再びその本に目を落とした。表紙には、二人の天使が向かい合うような紋章らしきものが金のエンボス加工で入れられていた。


――読書は嫌いじゃないし、折角だから読んでみようかな。


部屋に戻ると、英玲奈はスクールバッグを片付け、髪を後ろに束ねた。飲みかけのボトルコーヒーを机に置き、卓上ライトを点けた。

夏はもうすぐそこまで来ていたが、今夜は涼しくなりそうだ。


「お風呂の前に、少しだけ…」


そんな独り言を言いながら、英玲奈は机に向かい、古びた本に手を掛ける。

表紙にタイトルのような文字は見当たらない。珍しい本だ。厚いハードカバーを開くと、タイトルらしき文字が中央に書かれていた。


が…英語ではなかった。


どちらかと言えば文系の英玲奈は、英語の成績はそこそこ良い。文学小説なら、辞書を使いながら読み進めることは出来る。しかし、そこに書かれていたのは、英語でも、おそらくドイツ語でもイタリア語でもない文字だった。


「何よこれ、読めないじゃない」


途端に気持ちが冷めてしまった。ただ、負けず嫌いな英玲奈は、次のページをめくってみた。そこには、版画のようなタッチで不思議な絵が描かれていた。

 

 空に浮かぶ五つの島と、その下に黒い穴のような風景。子供の頃に見た天空の城のような、美しくアンバランスな景色。白黒のはずなのに、じっと見ているとその世界は色鮮やかに見えてくるようだった。


「綺麗…」


思わず言葉が漏れた。興味を取り戻した英玲奈は、ページを進める。それぞれのページには大きく様々に絵が描かれ、下部には何やら文章が書かれている。絵本のような構図だった。


――これなら、何となく分かるかも。


英玲奈はページを読み進めていった。街並み、人々の暮らし、そして天使が魔法を使うような絵が描かれている。それらは読み進める毎に、まるでその世界に入り込むかのように臨場感が増してくる。数十ページほど眺めているうちに英玲奈は違和感に気付いた。


「あれ、文字読めるじゃん」


先ほどまではさっぱり分からなかった文字が、脳に直接語りかけるように英玲奈はその意味を理解していた。不思議な感覚に囚われながら、英玲奈はその本にのめり込んでいく。


争い、天災、豊穣、祝祭、様々な瞬間が目の前で繰り広げられるかのような臨場感で描かれている。幸せな表情、激しく強張らせた表情、風の流れ、燃える海、どれも幻想的な印象を与えるのは、全ての絵に魔法を想起させる魔法陣やその使い手と思われる人物が描かれているからだ。


「魔法の世界…スラブレー、そしてアビス…」


英玲奈の口から言葉が漏れた。


 その瞬間、古びた本が突如として眩く光り出した。金色の光が部屋中に広がり、英玲奈の体を包んでいく。有り得ない現象が起こっているのに、英玲奈は瞑想するかのように静かに目を閉じて光に身を任せた。


「クオリア…解放の…」


部屋に小さく響いたその声は、英玲奈のモノではなかった。


そして、十七歳の少女は、現実世界から姿を消した。

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