ふるさとは遠きにありて思うもの
朝を告げる音楽が流れ始めた。部屋の照明が灯り、室内が柔らかい光に満たされる。ユーシャは布団に潜り込んだ。まだ眠いのだ。
しばらくするとトーストの香ばしい匂いが漂い始めた。食欲を刺激されたユーシャはベッドから起き上がった。
『おはようございますYUCA。気分はどうですか』
「いい」
若い女性の声で話し掛けてきたのは仮想ルームメイトだ。性別、年齢、性格など自分の好みの人格を設定すれば、その人格に応じた声と会話を楽しめる。容姿を選択してホログラム映像を空間に現出させることも可能だ。
「今日はレモンティーにしようかな。それとイチゴジャム」
『わかりました』
朝食の準備が整うとユーシャはテーブルに着きのんびりと食事を楽しむ。筵を敷いた床に座って玄米飯を食べていた四日前の自分が嘘のようだ。
「確かに快適だな。新
この都市に着いたその日のうちにユーシャはこの住居に連れて来られた。何もかもが元の生活と同じ、いやそれ以上だった。
数カ月ぶりに浴びた熱いシャワー。リラックス効果のある薬湯で満たされたバスタブ。生体検査に基づいて最適の栄養バランスで調理された料理を堪能し、ふかふかのベッドで熟睡した。
翌日は住居に装備された機能で存分に遊んだ。数億種のコンテンツを視聴できる三次元映像ライブラリー。希望の筋肉を効果的に鍛えられるトレーニングマシン。ボディサイズとデザインを指定すれば数秒で製作される使い捨て衣服。極寒の南極から灼熱の砂漠までリアルに体感できる環境再現装置。ユーシャの時代の最先端技術ばかりだ。一生を費やしても楽しみ尽くせない機能がこの住居には備わっていた。
「元の世界に戻れなかったのは残念だけど、クエストクリアの報酬として有難く受け取っておくか」
しかし新生活が三日目に入ったところでユーシャは息苦しさを感じ始めた。住居は広く天井も高い。一人で生活するには十分すぎる大きさだ。にもかかわらず窮屈に感じるのは窓がないからだ。外がどうなっているのかまったくわからない。ここが地下なのか地上なのかもわからない。そして外出は一切禁じられている。
「これがボクの全世界なのか。ボクはこの鳥かごに閉じ込めらたまま一生を終えるのか」
そう考えるとユーシャは無性に寂しくなった。確かにここは快適だ。きっと病気やケガをしてもすぐ対応してくれる救命機能も備わっているのだろう。生きていくうえでの心配は皆無。自由に好きなことができ自由に何もやらずに済む。だが、そう思えば思うほどユーシャの心は虚ろになった。これでは本当にただ生きているだけだ。これで本当に生きていると言えるのだろうか。
「
ヤマト国にいた時、ユーシャが思い出すのは元の世界の生活だった。両親、友人、お気に入りの場所。一刻も早く高校生の自分に戻りたい、いつもそう考えていた。だがその希望は完全に断たれてしまった。どんなに望んでもあの頃の自分には戻れない。
戻れるとすれば、それはヤマト国の生活だ。ヒメミコもババもイヨも元
四日目の朝食を終えたユーシャは何をする気にもなれず、ぼんやりと椅子に座っていた。
『YUCA、来客です』
突然聞こえてきた仮想ルームメイトの言葉をユーシャはすぐに飲み込めなかった。
「来客……客だって」
いったい誰が来たのだろう。ユーシャは急いでダイニングルームを出ると、この四日間ずっと閉じたままの出入り口へ向かった。しかしそこへたどり着く前にユーシャの足は止まった。リビングのソファーにはすでにリョウとイが座っていたからだ。出入り口の扉は内側からは開かないが、外側からは自由に開けて中へ入れるようだ。
「孔明! 仲達!」
ユーシャは涙が出そうになった。人の姿を見ただけでこんなに嬉しさが込み上げてくるのは初めてだ。
「あら、YUCAちゃん。元気がないわね。ここの生活はお気に召さなくて」
「うん。いや、まあまあ、かな」
「最初は良かったけど今は不満。そんな感じかしらね」
イもリョウ同様、人の心がよくわかる。本心を突かれたユーシャは恥ずかしそうにうつむいた。
「住めば都と言います。じきに慣れますよ」
愛嬌のかけらもない言い方はいつものリョウと変わらない。ユーシャはずっと胸に抱え込んでいた疑問を投げ掛けてみた。
「あの、二人はどうして今のような役目を担うことになったのかな。よかったら教えてくれない」
「あら、どうしてそんなことを訊くの。もしかしてYUCAちゃんもやりたくなっちゃった、とか?」
「そう、かもしれない。ここに閉じ込められたままよりはいいかなって思って」
「いいえ、ここに閉じ込めらたままのほうがずっといいですよ」
リョウの言葉はやはり冷たく、そして厳しかった。
「最初に新
「じゃあ孔明はボクが使徒には向いてないって思ってるんだね」
「孔明ちゃんだけじゃないわ。私も思ってるわよ。結構ツライのよ、この仕事。もし歴史から外れるようなことをしたり、新
知らなかったとはいえ大それたことをしたものだ。ユーシャは今更ながらに恐怖を感じた。
「使徒ほど業の深い役目はありませんよ。三国志好きのあなたなら知っているでしょう。孔明と仲達によって奪われた命の多さを。どれだけ多くの有能な武将や兵を死に追いやったことでしょう。私も仲達も嫌と言うほど人の死を見てきました。自分の手を血に染めてでも人類を決められた歴史に導く、それが使徒の役目です。YUCA、あなたにそれができますか」
ユーシャは自分の思慮の浅さを痛感した。人の歴史は戦いの歴史。争いがなかった時代など皆無と言ってもいいくらいだ。それを自ら演出しなければならないとしたら、これほどつらい生き方はない。
「ごめん。身の程知らずなことを言っちゃったみたいだね。さっきのボクの言葉、忘れて」
「いいのよお~。YUCAちゃんはまだ若いんだし、色んなことに興味を持って当然よ。あら、やっとコーヒーが出て来たわね」
イの前のテーブルの表面が凹んだとかと思うと、受け皿にのったコーヒーカップがせり上がってきた。リョウの前にも同じようにカップと皿が現れたがこちらは紅茶のようだ。
「ふう~、落ち着くわ。YUCAちゃんも何か飲んだら」
「いえボクは食べたばかりなので」
「あらそう。それならお土産も要らないかしら」
イは傍らに置いたバッグを開けて包みを取り出した。ユーシャが受け取って包みを開く。中身は十枚ほどの煎餅だ。
「これ、ドングリの煎餅、ですか」
「そうよ。この都市では絶対に食べられないお菓子。たまにはいいでしょ。あ、あたしにも一枚ちょうだい」
イはポリポリとかじり始めた。ユーシャも口に含む。決して美味しくはない。と言うよりもマズイ。そう、この世界に来たばかりの時は何もかもがそうだった。
変な味のするお湯、旨みもコクもないドングリ、もさもさした玄米。どれも口に合わず無理やり飲み込んでいた。
それなのに今のユーシャはこの味が愛おしくて仕方がなかった。思い出すのだ。生意気なヒメミコを、粗末な王宮の
リョウは紅茶を飲み干すとカップを受け皿に置いた。
「さあ仲達、そろそろお暇しましょう。YUCA、今日はお別れの挨拶に来たのです。私たちは倭へ戻ります。もう二度とあなたに会うことはないでしょう。ここで幸せに暮らしてください」
リョウの言葉は酷く冷たく聞こえた。親猫に見捨てられた子猫のような目をしてユーシャは言った。
「あの、ボクも、一緒に帰っていいかな」
リョウは驚いた素振りを見せなかった。ユーシャがこんなことを言い出すのも彼の想定の範囲内なのだろう。
「何故ですか。ここは
「それはわかってる。でもここにあるのは千年以上前のボクの世界、過去の遺跡なんだよ。過去の中で生きていて今を生きていると言えるだろうか。ボクは現在の中で今を生きたいんだ」
「その気持ちはわかるけど
「仲達の言う通りかもしれない。でもいいんだ。王宮が受け入れてくれないなら集落に住む。
イは困った顔でリョウを見た。判断をリョウに委ねているのだ。リョウは眉一つ動かさず淡々とした口調で話す。
「あなたはすでにこの世界の真実を知っています。その状態でこの都市を出れば新
「ある。ボクは過去を忘れる。全ての知識を封印する。そして生まれ変わったつもりで生きていく」
ユーシャの決意を聞いたリョウは右手を差し伸べた。
「では一緒に帰りましょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます