使者は見かけによらぬもの
「ヒミヒコ様、喋り方についてはもうよろしいのではないですか」
ゴシが耳打ちした。ヒミヒコは思い出した。二人が待っていたのは使者ではなく使者が持参する印綬と詔書だ。それを手に入れば使者などどうなろうと知ったことではない。
「このヒミヒコともあろう者が、下らぬことに気を取られ大事なことを忘れていた。イ殿、さっそくだが印綬と詔書を渡してくれないか。それがそなたのお役目のはずだ」
「えっ、印綬と詔書、何それ? 美味しいの?」
とぼけた言い方が神経を逆撫でする。ヒミヒコは声を荒らげた。
「ふざけてもらっては困る。我が国の使者が呉の皇帝に言上したであろう。倭を呉の陣営に加えるためにクナ国
「ああ、何だかそんな話があったわね。でもごめんなさい。あたし手ぶらで来たの。下賜品の銅鏡ひとつ持ってないわ」
「な、なんだと!」
ヒミヒコは激昂した。怒りで血が上り赤鬼のような形相になった。しかし赤鬼はすぐ青鬼になった。絶望のあまり血の気が引いたのだ。
「終わった、全ての希望が潰えてしまった……」
ヒミヒコは激しく落胆した。こんなことならそのまま絶望の淵に沈んでいた方がよかった。一旦絶望から引き上げられ、これで助かったと思った矢先、再び絶望へ突き落されてしまった。ヒミヒコの鋼のような根性もひび割れ寸前だ。
「イ殿、ならば貴殿は何をしにクナ国へ参られたのですか」
ゴシの心はまだ折れていない。この事態を乗り切ろうとする意欲はまだ残っている。
「遊びに来たのよ。倭に興味があるって言ったでしょ。せっかく言葉を覚えたんだもん。使ってみたいじゃない。ねえ、もう用がないのなら帰っていい? あちこち歩いてみたいの」
こんな言葉を聞かされてはさすがのゴシも平静を保てなくなった。ここまでクナ国を、ヒミヒコを馬鹿にされて、何もせずに帰したとあってはいい恥晒しだ。
「ヒミヒコ様、このゴシ、もはや堪忍袋の緒が切れました」
「うむ。我らの最後の意地、見せてやろうぞ」
ヒミヒコとゴシは剣を抜いた。どうせ捨てる命ならせめてイを道連れにして果てよう、それが二人の覚悟だ。剣を構えてじりじりとイに迫る。
「ぷっ、何をムキになってるの。でもこれでハッキリしたわ。あんたたちが待っていたのは使者のあたしじゃなくてコレなんでしょう」
イは懐から絹布を取り出し広げて見せた。親呉倭王の文字がはっきりと読み取れる。気勢を削がれた二人は棒立ちになった。
「それは紛れもなく呉の詔書! どういうことだ。手ぶらで来たと申したではないか」
「ウ・ソ・よ。あんたたちを試してみたの。単身で見知らぬ土地に乗り込むにはこれくらいの用心深さが必要なのよ。ごめんなさいね。でも騙して正解だったわ。この詔書は簡単には渡せない。だって渡した途端、用済みになったあたしは斬られちゃうかもしれないもの。この詔書は言ってみればあたしの命みたいなものね」
「失礼いたした。その詔書さえいただければ危害は加えぬと約束する」
二人は剣を収めた。さすがは呉の使者。駆け引きにおいては一枚も二枚も上手だ。
「う~ん、どうしようかなあ。あたしって簡単に人を信用できるほどお人好しじゃないのよね。あっ、無理に奪おうとしてもダメよ。持って来たのは詔書だけ。印綬はまだ呉にあるのよ。知ってるでしょ。効力を持つのは金印だけ。詔書なんて真似して書けば誰でも作れるから信用度は低い。でも倭には印を作る技術がないから金印なら本物と認められる。あたしの命を奪えば金印は永久にここには来ないわよ」
やられた。イの態度と言葉遣いに完全に騙されていた。ここまで用心深く事を運べる人物だったとは……ヒミヒコとゴシは負けを認めるしかなかった。
「無礼の段、重ねて陳謝する。イ殿は丁重に持て成すと約束しよう。詔書も奪ったりはしない。そなたが持ち続ければよい」
「それを聞いてちょっとだけ安心したわ。ちょっとだけね」
イは詔書を折り畳むと懐に収めた。ようやく心が静まったヒミヒコは議論を再開する。
「それでクナ国が印綬を受け取るにはどうすればよいのだ。事態は急を要していてな。あまりのんびりと待ってはいられないのだ」
「簡単よ。あたしがこの国を気に入ればいいの。
「なるほど。理に適ったやり方だ」
ヒミヒコは満足している。しかしゴシはまだ胸にわだかまりが残っていた。それとなく嫌味を言った。
「しかし我らも随分と下に見られたものですなあ。使者の言上だけではクナ国を信用してもらえないとは。いささか残念でございます」
「やだわ~、そんなの当たり前じゃない。考えてみてよ。もしこの国にボロ切れをまとった小汚い親爺が突然やって来て『おらたちの国を一番だと認めてくれ。これは手土産の鯵の干物だ。なにとぞよろしく』とか言われたらどうする? 『うん、いいわよ』って二つ返事で認めてあげられる? 無理に決まっているでしょう。呉と
聞いていてゴシは恥ずかしくなった。こちらの要求が如何に分不相応であったか、それを身に染みて痛感させられた。クナ国を思うあまり自分たちの姿が見えなくなっていたのだ。
「無礼な物言いをいたしました。謝罪いたします。それでイ殿がこの国を気に入っていただくために我らは何をすればよいでしょう」
「
「ヤマトに?」
意外な返答だった。クナ国の評価にヤマト国がどう関係するのか、すぐには飲み込めない二人である。
「何故ヤマトに行く必要がある。クナのことはクナにいればわかるであろう」
ヒミヒコの言葉を聞いたイは人差し指を立てて左右に動かした。何を意味しているのかはわからない。
「チッチッチッ。わかってないのねお二人さん。
「しかしヤマトの大王はすでに魏から倭王として認められている。つまりは魏の与国。呉とは敵対関係にある国なのだぞ」
「だからこそ調べるのよ。魏が認めるくらい優れた国なんだもの」
「ならばヤマトがクナより優れていると判断されれば、イ殿はどうされるおつもりなのだ」
「もちろん親呉倭王の称号は
灯り始めた希望の光が再び消えていくような気がした。何故神はこれほどまでに我らを冷たくあしらうのか、ヒミヒコは厳し過ぎる自分の運命を呪わずにはいられなかった。
「ヒミヒコ様、まだ望みを捨ててはいけません。我が国がヤマト国より優れていることをイ殿に示せばよいのです。そうすれば親呉倭王の称号はヒミヒコ様に与えられるのですから」
「そうそう、
イは尻を左右に振って歩きながら謁見の間を出て行った。ヒミヒコとゴシは直ちにヤマト国へ使者を立てる準備に取り掛かった。
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