第9話

 燃える街。人間の死体。それを貪る魔狼。それらを睥睨し、ガハルは不愉快げに鼻を鳴らす。

ーー違う。

 また一つ、街が滅びた。彼が率いる群は素早く街を包囲し、そこに住む人間を一人残らず皆殺しにした。抵抗する者もいたが、彼の敵ではなかった。

 だが、ただ一つ、気掛かりな点があった。彼の前に立ちはだかった人間の中に、見慣れぬ様相の者が一人いた。その者は厚い鎧も重厚な武具も無しに、刀一本で挑み掛かってきた。純粋に魔力のみで作られたその刀は獣人の筋肉を切り裂き、良く練られた魔法は魔狼の群へ少なくない損害を与えていた。

ーーこれは、違う。

 今までは一方的に押していた魔獣の、魔王の軍勢も、方々で停滞していると聞く。何かが、何か好ましく無いことが人間たちの間で起きている。それが不気味であった。

 ふと、顔を上げる。そこに見知らぬ人間が立っていた。ガハルには最初、それが何なのか理解できなかった。獣人の発達した五感に探知されぬまま、人間がここまで入り込むことなど不可能である。

「…酷いことをする」

 その人間は一つの死体の前に片膝を突き、そう呟いた。

「貴様…何者だ?」

 ガハルは呆然と問う。何か、異様な事態が起きている。ガハルの想像が及ばぬような、何かが。その確信だけがあった。

 いつの間にか静まり返った村を見回す。先程まで嬉々として人間を狩り殺していた魔狼たちたちは、まるで巨大な手によって押さえ付けられているかの如く低く低く伏せ、尾を丸め怯えていた。

「何故、殺す?」

 その男は立ち上がり、顔を上げた。黄金色の髪に、青い瞳。ガハルには判然としなかったが、年の頃はまだ若い。まるで街へ散策に出て来たかのような軽装であるが、その腰には不釣り合いにも鞘に収まった刀が吊るされていた。男の青い瞳を見たガハルの背筋が、理由も知れぬ恐怖に凍り付く。

ーーこんなものは、我の記憶ではない。

「殺せ…」

 獣人は掠れた声で眷属たちへと指示を下す。しかし、動くものはいない。

「殺せ!」

 声の限り叫ぶ。魔狼たちは怯えを掻き消すかのように一斉に雄叫びを上げ、男へと飛び掛かった。

 その男は、既にガハルの眼前に立っていた。男を襲ったはずの三十を超える魔狼たちは尽く地面に打ち倒され、恐怖から毛の一本も動かせずにいる。

「斬られれば痛む。痛むと死に怯える。僕も、君も、命ならば例外無く、だ。それなのに、何故君は無用に命を奪うんだ?」

 男はガハルから数歩の距離に立ち、哀れむような、悲しむような目で獣人を見ていた。獣人の心を激しい怒りが塗り潰す。

「何故殺すか、だと? 楽しいからに決まっているだろう! ヒトの悲鳴が! 助けを乞う声が! 慈悲を望む叫びが! 心地良いのだ! それが我らだ! それが貴様らが魔獣と呼ぶものの性だ!」

 ガハルの言葉に、男は無言で首を振る。

「君だって、きっとわかるはずなんだ。誰かの嘆きの声が、悲しみの声が心地良いなんてこと、あるはずがない。命とは、須く尊いものなのだから」

 ガハルの怒りが沸点を超える。弱く儚い人間風情に哀れみの目を向けられることなど、そう生まれた魔獣の本性を否定されることなど、許せるはずがなかった。

 ガハルは全身へ魔力を通し体毛を硬化させる。この男は生かしてはおけない。殺さねばならない。両脚に力を込め、地を蹴ろうとする。

 獣人は、うつ伏せに地面へ叩き付けられていた。一拍遅れ、四肢を焼けるような激痛が襲う。ガハルの目の前に、無数の斬撃が加えられ皮一枚で辛うじて繋がる自らの腕が、力なく横たわっていた。ガハルは自身の身に何が起きたのかをようやく理解する。

「痛いだろう?」

 恐怖に見開かれた瞳に、男の靴先が映る。

「死が恐ろしいだろう?」

 域値を超えた怒りは一瞬の内に恐怖へと転じていた。

ーー違う、違う、違う!

「君も、死にたくないはずだ。君が殺めた者たちのように」

 腕の損傷は激しいが、既に治癒が始まっている。だが、そんなことはもう関係がなかった。目の前の化け物が、ただただ恐ろしい。胸の中には既に怒りも屈辱も、何も無い。生への渇望だけが残っている。

ーー我は魔狼王の一番槍、魔狼将ガハル!

「た…助けて…くれ…」

 声が震えた。瞬きの間にも、理解の及ばぬ化け物に容易く命を奪われるかもしれない。生きたい。何をしても、どのようなことをしても、そのように死にたくなどない。まるで羽虫が容易く潰されるかの如き、圧倒的な力によって一方的に与えられる死が、終焉が、心を塗り潰すほどに恐ろしい。

 男は変わらず、哀れむように獣人を見ていた。

ーーヒト風情に助けを乞うなど、有り得るはずがない!

「…無用に命を奪うことはしたくない。君はどうだい?」

「も、もう殺さない! 助けてくれ! 命だけは!」

 ガハルは人の形をした化け物へ、懇願するよう叫ぶ。その言葉に男は刀の柄に掛けていた手を下ろし、小さく微笑む。

「そうか。わかった、君の言葉を信じるよ」

 男は短くそう返すと、踵を返し歩き始める。

ーー許せない。

 ガハルの胸を安堵が満たし、そしてすぐに抑え切れぬ怒りが再度燃え上がる。

ーー許せない、許せない。

 魔獣が人間に助けを乞い、命を長らえる。そのような事はあってはならない。

ーー許せない、許せない、許せない!

 指先が土を握る。手足の再生は既に終わっている。村の襲撃の後、人を喰い短いながらも休養を取ったため、魔力も潤沢だ。

ーーこの男だけは、許せない!

 ガハルは血走った目を見開き、上体を持ち上げた体勢から、音も無く地面を蹴る。ここでこの男を殺さねば、ここでこのまま無様に生き延びれば、己が己で無くなる。もはや魔獣では無くなる。ガハルはその一心で腕を振り上げ、男の背後から首筋を狙う。

「雫落とし」

 ガハルの両肘から先が消失した。凄まじい衝撃に煽られ、無様に吹き飛ばされる。

 仰向けに転がるガハルの視界に、青い空と男が映る。男はただただ哀れむように、悲しむように、獣人を見下ろしていた。

「君も、それを選ぶんだね」

 ガハルの頭上に、白い刀が突き立てられる。

「殺す! 貴様は殺す! 覚えたぞ、その白い刀を! 狂人め! 気狂いめ! 地の果てまでも追い、縊り殺してくれる!」

 ガハルは悲鳴を押し殺し、叫ぶ。男は地に突き立てた刀へ手を添えた。二人の周囲に魔法陣が浮かび上がる。

「少しだけ、考えて欲しいんだ。命を。そして、それを奪うということを。それがどれだけ悲しいことか、それがどれだけ虚しいことか…」

「許さぬ! 許さぬぞ! 殺す! 殺してやる!」

 男はその叫びに、小さく首を振って答えた。視界を白い光が覆い、ガハルの意識が遠のく。まるで、深い深い闇へと落ちてゆくかのようにーー



「殺…す…。殺して…やる…」

 うわ言のように続いていたガハルの言葉が止まる。獣人の心臓が停止し、ついに息絶えた。男は安堵の息をつき、死骸の隣に崩れるように座り込む。

「殺せたようだな」

 シーナを見上げて言う。返事は無い。彼女はいまだ刀が突き刺さったままの傷に触れ、黙考している。

「どうした? そいつは死んで、俺たちは生き残った。まだ何か問題があるのか?」

「…いえ。彼の死で配下の魔獣も撤退するでしょう。これでもう、無辜の命が奪われることはありません」

 言葉とは裏腹に、その声色は沈んでいた。男は釈然としないまま次の言葉を待った。シーナは周囲を見回す。人と魔獣の死骸が広がる、凄惨な光景を。

「ただ、あまりにも多くの命が失われてしまいました」

 彼女の言葉に男は曖昧に頷き、同じく辺りを見回す。

「ーー主よ、我らが父よ。彼らの生を照覧あれ」

 シーナの小さな声が、静寂に包まれた村に響く。

「彼らは、あなたが与えた苦しみに溢れる命を生き、そして今それを終えました」

 彼女は指を組み、死骸の山の前で祈る。

「久遠の彼方、その魂が御許へ至る時には、彼らの罪を許し給え。彼らの生を許し給え。あなたが生み出した命を愛し、労い給え」

 シーナは短い祈りの言葉を終え、男へと向き直る。

「それはなんだ? どういう意味だ?」

「略式ですが、父なる神へのお祈りです。全能であるはずのあなたが産んだ命は、精一杯生きました。だから、いつかその魂が神の元へと至った時は、その命を愛して下さい。そういうお願いです」

 男にはその言葉の意味は理解できなかったが、しかしそれ以上は訊かなかった。無言で立ち上がり、獣人に突き立てた黒い刀を引き抜く。そこで刀の鞘を山中に置いてきたことに思い至る。

「鞘を忘れた。取りに行かないといけない」

「そうですか。申し訳ありませんが、私は同行出来そうにありません。早く村に戻って、体力と魔力を回復させないとーー」

 シーナはよろめき、そのまま糸が切れたかのように倒れる。男は反射的に手を伸ばし、地面に激突する寸前でその身体を支えた。

「どうした? まさか死んだのか?」

 彼女のまだあどけなさを残す顔を、男はまじまじと見る。息はある。ふと、昨日の彼女を思い出し、手を首筋に当ててみるが、彼には何もわからない。ただ、手の平に少女の身体を血が巡る感覚だけがあった。

「息をしているのなら、死んでいないんだろう」

 男は一人呟き頷くと、少女の身体を乱雑に担ぎ上げる。そして、白と黒、二本の刀を拾い、村へと戻る道を歩き始めた。鞘は後日拾うことにした。

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