第7話
敵の爪を避け、捌き、水の刃で牽制し距離を取り、仕切り直す。その繰り返しだった。
「どうした! 最早、斬り掛かる気力も失せたか!」
ガハルは爪の連撃をただただ繰り返す。シーナの斬撃は敵に有効打を与えることが出来ない。既に腕の筋肉を断つほどの創傷をいくつも与えていたが、その全てが完璧に治癒を終えている。一方獣人の一打一打は着実に彼女の体力を削り取っていた。
そもそも、魔獣と人では肉体の基本性能が違う。筋力も、持久力も、耐久力も治癒力も、天と地ほどの差である。いくら魔力で肉体を強化し、魔法による刃を得たとはいえ、所詮は人間、それもまだ十七の女の身体である。正面から打ち合うにも限度がある。
「それとも、裂かれた腹の傷が痛むか?」
再び距離を取り、左手を脇腹に当てる。ガハルの爪は想像を遥かに超える威力だ。軽く掠めただけで彼女の魔力の鎧は容易く引き裂かれ、腹部に深い傷跡を残した。常人ならば身体が引き裂け即死していただろう。
「ヒトとは不便なものだ!」
ガハルは間髪入れずに攻撃を続行する。
「その傷はいつ治る? 我らならば瞬きの合間に治るその傷は!」
シーナは敵の爪を避けることに専念する。確かに傷は深い。戦闘中の僅かな余剰魔力を治癒に回たところでたかが知れている。彼女は最低限の止血のみを施し、戦闘を続行することを選択した。
ーーこの敵は焦っている。
ある瞬間から、この獣人は急に決着を急ぎ始めた。自覚は無いだろうが、攻撃が大振りになり、彼女を挑発する口調からも余裕が薄れていた。ならば勝機はある。加えて、彼女がこの獣人を釘付けにすればするだけ、魔獣たちの侵攻は遅れる。あの男が隣の村へ戻り状況を伝えれば、村人の避難も始まるだろう。彼女は猛攻を凌ぎつつ、ひたすらに一瞬の機を待ち続けていた。
「…どうした、とはこちらの台詞です。この程度の傷では私の剣戟を鈍らせることもできません。魔狼王の一番槍とはこの程度ですか?それともーー」
水の刃で距離を取り、仕切り直す。周囲に新たな刃を浮かべ、小さく笑う。
「まさかそれほどまでに、私の『奥義』が怖いのですか?」
「貴様…!」
獣人は牙を剥き出し、勢い良く距離を詰め、爪の連撃を繰り出す。一撃の精度が落ちてゆく。シーナには原因も知れぬが、しかしそれでも敵の焦りが、苛立ちが手に取るようにわかった。
「惰弱なヒト風情が我に敵うとでも! その刃が届くとでも、まだ思っているか! 貴様の剣が我を断つことなどあり得ぬわ!」
羽虫のように襲いかかる水の刃を払いながら、獣人は怒りに任せ叫ぶ。容易く殺せるはずの相手に想像以上に手間取っている、という怒りだけではない。シーナの持つあの白い刀。あれだけは許すことができなかった。獣人は記憶の底に封じた光景を振り払うように、一際鋭く強烈で大振りな斬撃を繰り出す。爪先が掠めるだけで少女の細い身体はバラバラになるだろう。
しかし、彼女はこの一瞬を待っていた。
「奥義」
小さな声がガハルの耳に届く。体感時間が鈍化し、全身の毛が死の予感に逆立った。少女の纏う魔力が爆発的に膨らみ、二人の上空の水塊が数百に分たれる。一つひとつは指先ほどの大きさだが、込められた魔力はこれまでの刃の比ではない。
奥義。騎士を名乗る者が持つ、一刀一殺の絶技。恒常的に生産される魔力に加え、体内に蓄積した膨大な魔力をも解放して放つ、必殺の剣。
「雫落とし」
数百の水の弾丸が獣人の右の突き手へと降り注ぐ。それらはガハルの肩から先へと狙い過たず着弾し、指先までその骨を粉々に砕いた。鋭い爪がシーナの額の薄皮一枚手前で止まる。同時に、シーナは下方より鋭い斬撃を繰り出した。刀は獣人の右腕根元に食い込み、砕けた骨ごと切断する。獣人の顔が驚愕に歪んだ。
しかし、まだ終わりではない。腕の一本を落としたところでこの魔獣は止まらない。ガハルは半ば反射的に左の爪による斬撃を放つ。
シーナは低く身を沈めた体勢のまま、獣人をキッと見上げる。
「奥義、滝破り」
地中から、これまで彼女が生み出した魔力の水が滲み出、無数の鞭状の刃となる。うねる刃が獣人を取り囲み、視界を奪いながら左腕を切り刻む。ガハルは体勢を崩す。シーナはその左腕に、下から斬り上げるような全霊の斬撃を放つ。水の刃の群を裂くように繰り出した刀が、ズタズタに破壊された左腕を肘上で斬り飛ばす。
「貴様ァッ!」
両腕を失った獣人が吠え、背後に逃れようと飛び退く。
シーナはそれを睨み、柄が軋むほど強く強く刀を握り締め、横に構える。
「奥義、水飛刀ーー!」
敵を追い前方へ跳びつつ、三たび魔力を爆発させ、刀を虚空に振り抜く。刀身から沸き上がった水塊が放たれ、孤状の刃と化して右手から獣人に迫る。更に、シーナは両腕に可能な限りの魔力を込め、左から右へ、水の刃と挟み込むようにして獣人の首へ斬撃を見舞う。過剰な魔力の負荷により腕から血が吹き出し、激痛が思考を塗り潰しかける。
ガハルは半ばで切断された左腕を挙げ、水の刃を止めようと試みるが、刃はそれを一瞬で断ち切り首へと至る。全くの同時にシーナの刀が逆方向より皮と筋肉を断ち、首を切断にかかる。
必殺の奥義の三連撃。身体への負荷は計り知れない。ここで決めねば後は無いだろう。彼女は歯を食い縛り、柄が砕けようかという程の握力を込める。
二つの刃がガハルの首の骨へと到達し、ヒビを入れ、そして止まった。シーナは刀に力を込めつつ、悔しげに奥歯を噛む。
獣人は声にならぬ叫びを上げ、少女の細い胴へと不格好な蹴りを叩き込まんとする。シーナは足を上げ辛うじて防御姿勢を取ったものの、大きく吹き飛ばされた。
「…素晴らしい。素晴らしい奥義だ。だが、届かぬ」
獣人は息も絶え絶えといった様子で呟く。シーナは左手と右足でどうにか着地をするも、そのまま体勢を崩し、片膝を突いた。
獣人の腕の切断面の出血は既に止まり、首の傷も塞がり始めている。
「さあ、どうだ? 貴様の奥義は破られた。貴様の刃は、私を殺すに至らなかった。貴様が十四年かけ磨いた技が!」
獣人は高く高く哄笑する。
「さあ! さあ! さあ! 望みは絶たれた! どうする? 逃げるか? 背後は深い山だ。それとも無様に命乞いでもしてみせるか? さあ、どうあがく? どうもがく?」
シーナは荒い息を吐き、顔を上げ、真っ直ぐに獣人を睨む。
「残念ながら、貴方の期待には添えませんね」
刀を握り、立ち上がる。蹴り足を受けた左脚が痛む。骨まで達する程のダメージだが、奥義を放った際の余剰魔力が体表で防壁となり、幸い折れてはいない。彼女はそれを確かめると、再びゆっくりと刀を構える。
ーーまだ戦える。
必死に息を整え、両腕に力を込める。そうでないと刀を取り落としそうだった。腕の筋肉は過剰な負荷に裂け、限界を遥かに超えた機動は彼女の全身の骨を軋ませている。
「…気に喰わん」
ガハルは小さく呟く。
「貴様はこれから死ぬ! ありとあらゆる苦痛を味わい、絶望し、そののちに我が直々に殺す! 助けを乞え! 慈悲を望め!」
「人には…いいえ、命というものには須く尊厳があります」
シーナは決してガハルから目を逸らさず、全身を蝕む激痛を噛み殺しながら、静かに言う。
「貴方にも、きっと理解できたはずです。命を、魂を、心を持つものならば、きっと」
「その心とやらは、尊厳とやらは、指を何本切り落とせば折れる? それとも肉を削ぐか? 目を抉るか? いいだろう! 貴様がいつまでそのような妄言を吐けるか試してくれる!」
激昂した獣人が強く地を蹴り、牙を剥き出しに彼女へ迫る。シーナは魔力を振り絞り水の刃を生成し、迎え撃つ。もはや勝ち目は万に一つも無いだろう。ならば可能な限り時間を稼ぐのみだ。
水の刃が突進するガハルへと襲いかかる。しかしその動きは精彩を欠き、先程の『奥義』とは比ぶべくもない。瞬時に距離を詰めた獣人は大口を開け、少女の肩口へと牙を突き立て骨を砕かんとする。シーナは刀を引き、刺突で応じようと試み、そのまま体勢を崩す。
気力のみが身体を突き動かしていたが、それも既に限界だった。長引く戦いの疲労や脇腹の裂傷による出血も響いている。
シーナは咄嗟に左腕を掲げ、牙を防ぐ盾とした。獣人の牙は容易く彼女の細い腕を噛み砕く。そうなるはずだった。
ガハルの牙が皮膚を突き破る一瞬前、横から何者かが獣人の横っ面に飛び蹴りを叩き込んだ。完全な意識外からの乱入にガハルは対応できず大きく吹き飛ばされ、受け身も取れぬまま無様に転がる。
「どうやら、間に合ったようだな」
少女の瞳に、黒い刀が映る。
その男は振り返り、血塗れのシーナを見、そして僅かに困惑したような表情を浮かべた。
「…間に合ったんだよな?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます