第6話

 人間の子供を拾った。どうやら足を負傷しているようである。

 木陰に蹲っているところを偶然発見した彼は、シーナの言葉に従い、魔獣の来ない場所までそれを運搬をすることに決めた。

「あなたは誰?」

 泣き喚き抵抗を続けていた子供も、しばらくすると彼に害意が無いことを察したのか、小脇に抱えられたまま恐々とそう問うた。

「知らん。俺が知りたいくらいだ」

 彼はぶっきらぼうに答える。

「…もしかして、騎士様?」

 男の腰の刀に気付いた子供の態度が一変し、彼に憧憬の目を向ける。

「どうやらそうらしいな」

「村を助けに来たの?」

「いや、人間を助けるようにと言われただけだ。これからどうすれば良い?」

 山中を走る。当面の見通しが何も立っていない。とりあえずは山頂へと向かうつもりであったが、それも何か根拠に基いた選択ではなかった。

「逃げる時は山の上の方に、って言われた。魔獣が来たらとにかく上に逃げろ、って」

「そうか」

「村はどうなったの? みんなは?」

「知らん。わからん」

 彼は背後を振り返る。大規模な山狩りを行うことを見越してか、山中に魔獣の姿は無かった。彼を追って山へと入った個体以外は。

「敵が来る。斬るべきか?」

 抱えた子供へ判断を仰ぐ。だが、まさか自分への問いだとは思わないその子供は、怯えたような瞳で見つめ返すだけだった。彼は口を噤んだままの子供に困惑する。

「俺はあいつに人間を助けるよう言われた。このままだと魔獣に追い付かれ、俺とお前は襲われる。俺が魔獣を止めようとしても、他の奴がお前を襲うだろう。どうすればお前は襲われない?」

「木の上、とか…」

「木?」

「木の上なら登って来れないかも」

「成る程。そうかもしれないな」

 彼は曖昧に頷き、そして突如急制動をかける。獣の牙が僅か前方を翳めた。彼は子供を降ろし、刀の柄に手を掛ける。茂みから続々と魔獣が姿を表す。その数、五体。いずれも先程獣人の背後に控えていたのと類似した個体だ。

「木に登れ」

 背後の子供に声を掛ける。だが、子供は彼の服の裾を掴んだまま動かない。

「どうした?」

 二人を包囲すべくジリジリと動く魔獣たちを睨みながら問う。

「こんな高い木、登れない…」

 力なく答える声に、僅かに視線を上向ける。周囲の木々は高く、幹も彼の背丈より上から伸びている。

「跳べないのか?」

 子供の返答の代わりに、一体の魔獣が彼へと飛び掛かって来た。彼は柄に掛けた手をそのまま握り込み、魔獣を振り払うように首筋へ裏拳を叩き込む。背後から引き攣ったような悲鳴が上がった。

 弾かれた魔獣は空中で体勢を立て直し、身を低く沈め着地する。ダメージを与えた感触は無い。

 恐怖に身を竦め蹲る子供を再び抱え上げ、次々と襲いかかる魔獣を横っ飛びで躱す。

「刀は使わないの?」

 涙混じりの声が彼に問う。彼は刀の柄に手を当て、僅かに思案する。

「…使った記憶が無いな」

「騎士様じゃないの…?」

「そうかもしれん」

 彼は脚に力を込め、高く高く跳躍し、木の幹へと飛び移る。どのような原理か彼自身にも理解が出来なかったが、村を出てシーナを追おうとした際に、初めて自分がこのようなことが出来ることに気付いた。

「もう死んじゃうの…?」

「死ぬ? 死ぬとはあれか。体が動かなくなって、意識が途絶えることか」

 子供に言葉を返しつつ、下方を伺う。魔獣の一体が飛び上がり、樹皮に爪を突き立てて彼らに迫るところだった。彼は魔獣の顔に蹴りを叩き込み、地面へ突き落とす。

「登って来れるみたいだな」

 何となしにポツリと呟く。他の魔獣たちが手近の木へと登り、同じ視線の高さから今にも飛び掛からんという様子で彼らを伺う。子供が強く強く彼の服を掴み、嗚咽を漏らす。

「…なあ。そんなに死ぬことが嫌なのか? 何故だ? 意識が途絶えればそれで終わりじゃあないのか? 生き物は全ていつかは死ぬのだろう?」

 彼はいつ得たのか彼自身すら知らぬ知識で問う。樹上から魔獣が飛び掛かる。彼は幹を蹴り、他の木へと飛ぶ。

「いつか死ぬなら何も変わらんだろ? いや、そもそも死ねばもう死に怯えることも無いんじゃあないのか?」

 地上と樹上の魔獣から逃れるため、次々と木を飛び渡る。少しずつ山頂が近付く。いつの間にか魔獣の数が増えていた。ざっと十五は下らないだろう。

「そもそも、何故あいつは人を守れと、人を助けろと言ったんだ? 人が死ぬと、人が減ると何が困るんだ?」

 小さな声で呟く。それはもはや抱えた子供にではなく、自分自身に対してのものに変わっていた。思えば、何をすることも無いからと周囲の言葉に唯々諾々と従っていたが、何故自分はこのようなことをしているのかーー

 注意が散漫となり、飛び掛かる魔獣への対応が遅れる。魔獣の牙が肩口を翳め、肉が抉れ取られる。体勢を崩し、木から落下する。

「マズイか?」

 どうにか両の脚で着地をし、周囲を見回す。地上と樹上、二人を囲む形で無数の魔獣たちが唸り声を上げていた。

「け、怪我…! 怪我をしてる!」

「怪我?」

 子供に指差された箇所を見る。傷口からは決して少なくない量の血が流れ出ていた。

「痛くないの?」

「痛い?」

 襲い掛かる魔獣たちの牙と爪を素手で捌き、蹴りで応戦する。身体の至る所の肉が切り裂かれ、抉られる。その度に彼を強烈な不快感が襲った。

「なるほど。これが『痛い』ということか。良い気分じゃあないな」

「このままだと死んじゃうよ!」

 子供が叫ぶ。傷の不快感に思わず顔を顰める。

「なるほど。つまり、痛いから死にたくないんだな」

 答える声は無い。子供は歯を食いしばり、必死に彼にしがみついていた。

 魔獣の爪を避け、次の一体を蹴り飛ばし、次の一体は避け損ね脇腹を裂かれ、次の一体を辛うじて避ける。

「痛みが嫌で。死ぬことは痛いことで。だから死にたくない」

 木へ飛び移り、飛び渡り、再び地面へ飛び降り、斜面を駆け登る。魔獣の追撃は一切緩まることがない。しかし、彼は思案に没頭するかのように言葉を続けていた。

ーー何故、殺す?

 唐突に、脳裏に声が響いた。

ーー何故、燃やす?

 声が彼へ問い掛ける。ズキリとこめかみが痛んだ。思わず膝を突きかけ、手近な木へ寄り掛かるようにして堪える。

 傍らで悲鳴が上がった。彼の腕が緩み、血と疲労と続く極限状態により限界を迎えた子供が、地に力無く蹲っていた。

 好機とばかりに、五体の魔獣が一斉に飛び掛かる。彼らはこれを待っていたのだ。獲物が疲れ果て、立ち止まる時を、狡猾に。

 死を目前に、彼の体感時間が著しく鈍化する。五体の魔獣は木を背にする男を半円状に囲んでいた。防ぎようがない。彼は諦観の念で目の前の状況を眺める。

「ーー助けて!」

 傍らの子供が叫ぶ。彼を見、彼に向けて手を伸ばし。目に涙を浮かべながら、懇願するように叫ぶ。

 突如、知らぬ光景がフラッシュバックする。燃える街。悲鳴。死体。助けを求める声。それを遮るように命を奪うものたちーー

 瞬間、彼の意思に反して身体が動いた。

 右足を下げ、左足で地を強く強く踏み締める。右手の平を岩のように握り締めると限界まで下げ、右足と同時に前へと突き出す。

 拳が飛び掛かる魔獣の顔面を捉えた。今までの反射的な防衛行動ではなく、明確な意思を持つ『攻撃』だった。

 彼は打撃の成果を確かめることもせず、牙を剥き出しに飛び掛かる魔獣の内の一体の脇腹へ蹴りを喰らわせ、二体を巻き込み吹き飛ばす。同時に刀の下げ紐を強引に引き千切り、子供へ向かっていた一体を刀抜く間も惜しいとばかりに柄頭で殴る。

 徐々に体感時間が戻る。全ては一呼吸にも満たない時間の出来事だった。

「お前らは何故奪い、何故壊す? こんな事の何が楽しい?」

 掠れた声が、彼の意思とは無関係に口を突いて漏れた。

「騎士様…?」

 子供の怯えた声にハッと我に帰る。吹き飛ばされた魔獣の内、重傷を負った個体は拳で突かれたものと直接蹴られたものだけだ。しかし、魔狼たちは怯えたように彼を取り囲んだまま様子を伺っていた。

「…良かったな。どうやら、死なずに済むようだぞ」

 彼は自分自身ですら出所の知れぬ確信を元にそう言う。周囲の魔獣が一斉に雄叫びを上げた。まるで、強大な何かに立ち向かうため、自らを奮い立たせるかのように。

ーー懐かしい感覚だ。

 彼は、失われた記憶の中にも同じような事象が存在していたように思えた。誰かに助けを乞われ、誰かのために刀を振るう、そのようなことが。

 魔獣の群が包囲の中心へ向け、一斉に跳躍する。先程までとは違い、全ての魔獣の動きが手に取るように把握できた。彼は子供の襟首を掴むと垂直へ跳び、樹上へ飛び上がる。

「死にたくないなら落ちるな」

 子供を太い枝の上に置き、再び地上へと降り立つ。魔獣たちを一瞥し、刀をゆっくりと抜くと、鞘を投げ捨て不格好に構える。まるで全ての光を吸い込むかのような、光沢の無い黒い刀身が露わになった。身体中を何かが激しく巡る感覚を覚える。全身の傷が瞬く間に治癒を始め、気怠い不快感が消え去った。

「刀はどう振れば良い?」

 誰に問うでもなく呟く。シーナの姿を思い浮かべ、刀を見様見真似で正眼に構え直した。再び魔獣が飛び掛かる。まず四体。

 しかし、遅い。ついさっきまで動きが追い切れず、牙や爪を必死に避けていたことが彼自身嘘のように思えた。男はその内の一体へ狙いを定め、大きく踏み込みつつ刀を振り下ろす。滅茶苦茶な太刀筋で振られた刀は魔獣の厚い毛皮に阻まれ、表皮を浅く切り裂くのみだった。

「何かが違う。何が違う?」

 背後からの二体を避ける。刀の振り方が狂っている。それだけはハッキリと理解できた。彼は刀を片手に持ち替え、絶え間無く飛び掛かる魔獣の一体の脚を斬る。二本の足が切断され、魔獣は地面に転がる。それを容赦ないストンピングで仕留める。

「違う」

 一体を踵落としで地面に叩き付け、逆手に持った刀で突き殺す。

「違う」

 次の一体を横薙ぎの一閃で切り捨てる。

「違う」

 次の一体を頭から串刺しにし、右手で刀を打ち振るい、死骸を放り捨てる。

「違う」

 刀を両手で握り直す。先程までとは手の上下が逆だった。次の一体を、最初と同じ大振りな動作で頭頂から尾まで両断する。

「これか?」

 次の一体を同様に両断する。

「これか」

 確信を深める。腰を沈め、強く地面を蹴り踏み込む。すれ違い様に二体を斬る。

 血が騒ぐ。心が躍る。刀を振るうことが、ただただ楽しかった。魔獣たちは半狂乱で襲い来る。

 一体を斬る。腕から不要な力を抜く。

 また一体を斬る。刀を握る手から無駄な力を削ぎ落とす。

 また一体を斬る。目を瞑り、聴覚を研ぎ澄ませる。

 また一体を斬る。重心をさらに下げ、身体を安定させる。

 最後に残された二体の魔獣が、反転し一目散に駆け出す。

「逃がさない」

 後を追い、一瞬で追い付き、そしてそのまま一刀の元に切り捨てる。魔獣たちは断末魔を上げる間も無く息絶え、地に倒れ伏す。

「なるほど、こうか。刀はこう使えば良いのか」

 彼を追っていた魔獣は全て斬った。彼は刀を振り血を払い、血溜まりの中で満足げに小さく頷いた。

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