第5話
村を出て、舗装のされていない山道を走る。その速度は人間離れしており、視界の端を走る景色は高速で後ろへと流れていく。例え常人ならば一日掛かる道のりでも、魔力により強化された身体ならば然程のものでもない。
気だけが逸る。届けられた速文は魔獣の大群が村へと襲い掛かった、という第一報のみだ。村の損害も、魔獣の規模もわからない。
山道を逸れ、藪をかき分けるように獣道へと入る。肩や頬を枝葉が掠めるのも気にせずトップスピードのまま山頂を目指して疾走を続けた。昼間、捜索の途中で山頂から見えた村が目的地だ。山裾を迂回するように作られた歩きやすい道よりも、山中を突っ切って走る方が早いはずだ。
獣道すら途切れ、視界が塞がる。シーナは生い茂る木の中から太い一本を選び、その枝に手を掛けて片腕の力のみで飛び上がる。木々の向こうに山頂が見えた。樹冠を蹴り渡り、山頂へと辿り着く。
「…そんな」
樹上のシーナは眼下の光景に言葉を失う。村が炎に包まれていた。魔力によって強化された彼女の目に、村人たちの死体が、村を徘徊する魔獣が、動かなくなった人間を貪り食う魔獣の姿が映った。
「村が襲われているな」
突如、隣から声を掛けられた。シーナは反射的に声と反対方向の木へと飛び退き、刀の柄に手を掛ける。
声の主は、彼女が昨日の昼に拾った、記憶喪失の男だった。男は感情の読めぬ表情でシーナを見る。
「貴方、どうして…」
「お前に付いて来るべきだったんじゃあないのか?」
若干戸惑ったような声色が返る。
「…違ったのか?」
シーナは僅かな逡巡の後、小さく首を振った。
「私に付いて来れたということは、基本的な身体強化の魔法は使えるのですね。協力して頂けるのでしたら、貴方は極力戦闘を避け、避難した方々の保護をお願いします。宜しいですか?」
「宜しいも何も、そうするべきなんだろ?」
男はそう問い返す。まるで物を知らぬ赤子が、母親へ物事の善悪を問うかのように。
「…はい。虐げられる誰かのために嘆き、救いの手を差し伸べることは、間違いなく『正しいこと』です」
シーナはそう言い、朝靄の立て込める山裾を勢い良く駆け下りる。
ーーこの男は、どこかおかしい。
昨晩から抱いていた疑念が確信に変わった。例え記憶を失ったとしても、人間として生きた頃に培った常識や倫理観まで失うだろうか。男の様子はまるで、これまで善も悪も知らぬ獣として生きてきたかのようである。
だが、今はそれを深く考える時ではない。強化された彼女の五感に木や油、肉の焼ける臭いが、そして血の臭いが届く。シーナは強く強く奥歯を噛み締め、村までの直線上を駆け抜ける。
「おい」
「ええ、わかっています」
足を緩めぬまま、二人は横目で周囲を伺う。四方を、一定の距離を保ったまま複数の何かが並走していた。恐らくは昨日も遭遇した魔狼、もしくはそれに類する存在だろう。
「どうする? 刀で斬るのか?」
「襲いかかって来ないということは、自分たちでは敵わぬ相手だと認識しているのでしょう。ならば、考えられる狙いは二つ。罠に嵌めるかーー」
地面がなだらかになり、木立が途切れる。視界が開けると、予想通り二人を取り囲むように五体の狼が並走していた。昼間に見たものよりも小型であったが、その身体に満ちる魔力は比べ物にならない。それらは獰猛に牙を剥きつつ、決して距離を詰めずに二人の様子を伺っていた。
相手は高度に統制された群である。それを率いる者も恐らくは相応に強大な魔獣であろうとシーナは察した。
朝焼けに照らされた村が見える。その前に、複数の魔狼と、一つの人型の影。シーナの背中に汗が伝う。魔獣は知性と魔力を高めると人型に至るという。あれも恐らくはその類だ。
周囲を走る魔獣が速度を上げ、二人を追い越し、自らの主人の背後へ侍る。
「成る程、成る程。昨日山中をうろついていた女だったか」
影は尊大にそう言い、一歩前へと踏み出す。その姿が露わになる。
「加えて、報告に無かった男もいるな。騎士が二人、何用だ?」
狼の顔。銀の体毛に覆われた体。丸太のように太い首と手脚。見上げるような体躯。ナイフのような爪ーー。その魔獣は嘲るような視線を二人へ向けた。
二人は急制動を掛け、獣人を見る。明らかに周囲の魔獣共とは格の違う相手だ。
「もしくは、群で一番強い奴のところへ送り届ける、か?」
男はそう小さく言う。だがシーナの答えは無い。彼女の視線は魔獣たちの足元、無数に散乱する人間の死体に向けられていた。百に届くかという数の死者達は、一様に恐怖と絶望に満ちた表情を貼り付けたまま息絶えていた。
「どうした、人間?そんなに『これ』が気になるのか?」
獣人は死体の一つを掴み上げ、腕を捻じ切ると、大口を開けて骨ごと咀嚼する。
「大して旨くも無い肉だ。人間たちは何故か女や子供から ーー旨い奴らから先に逃そうとする。困ったものだとは思わないか?」
そう言うと、獣人は興味を無くしたかのように死体の腕を放り捨てる。
「まあ構わん。次は山向こうの村だ。そちらへ行けば逃げた者共もいるだろう。楽しみは後に取っておくのも良い。それでーー」
獣人はゆっくりと二人に歩み寄る。大量の血でぬかるんだ地面がビシャビシャと音を立てる。
「お前らは何をしに来た? まさかとは思うが…我らを阻みに来た、などとは言わんだろうな?」
「…何故、ですか?」
「何故?」
シーナは血の滲む程両手を握り締め、低く押し殺した声で問う。
「何故、このような事が出来るのですか? 貴方は…貴方は誰かの嘆きの声に、悲しみの声に、胸を痛めることが無いのですか?」
シーナは顔を上げ、真っすぐに獣人を睨む。
「何故殺すのです! 何故奪うのです! 何故燃やすのです! 何故…何故命を弄び、蹂躙し、何も感じないのですか!」
少女の叫びが暁の空に響く。
「何故。何故か。これは面白い! 千年の眠りから覚めて以来、貴様ら騎士は随分と殺して来たが、そんな問いをした者は初めてだ!」
獣人は獰猛に頬を吊り上げ、侮蔑的に笑う。
「教えてやろう。殺さねば生きられぬからだ。奪わねば生きられぬからだ。燃やさねば生きられぬからだ。それが千年前から変わらぬ魔獣の性だ! 我らが命を弄び何も感じない? そんな訳があるか! ヒトの絶望の叫びが、怨嗟の声が楽しいから、心地良いから殺すのだ! それだけが我らの楽しみだ! 故に食わぬ肉も殺し、意味もなく火を放ち、欲しくも無いのに奪う!」
一瞬の静寂が訪れる。男は無言のままシーナと獣人の様子を交互に伺う。
「…そう、ですか。貴方もそう答えるのですね」
予想だにしなかった反応に、獣人は僅かに眉間を顰める。
「…すみませんが、貴方は生存者の救護をお願いします。村の中はもはや絶望的でしょうが、あの魔獣の言葉によれば隣村へと逃げた者も多いはずです」
「お前はどうする? 勝てるのか、あいつに?」
「勝つ、勝てないの話ではありません。私は…私はあの魔獣を斬らねばなりません」
シーナは白い柄に手を掛け、ゆっくりと刀を抜く。光沢の無い純白の刀身が朝日に照らされた。
「貴様、その刀…!クハハ…クハハハハ!」
獣人は驚愕に目を剥き、次いで狂ったように笑い始める。
「そうか! そうか! そういう事か! まさか今の世にもいたか! 狂人め! 気狂いめ! 白い刀を持つ、狂った騎士め!」
「あいつ、急に何を言っているんだ?」
男は豹変した獣人を訝しみ、隣へ問う。だがシーナはそれに答えず、一切表情を変えぬまま刀を正眼に構える。彼女の隣に、虚空から沸き上がるようにひと抱え程の水塊が現れた。
「魔力で水の生成が出来る程度の腕はあるか。先日の半端者どもとは違うようだな」
獣人は血走った目を細め、残忍に笑う。
「貴様は特に念入りに殺す。目を抉り指先から四肢を刻み無様に命乞いをさせ、舌を抜き、生きたまま腹わたを我が下僕どもの餌としてくれる」
「…行ってください。行って、命を救って下さい」
「そうか。わかった」
男は踵を返し、迷いなく元来た道を駆け出す。
「むざむざ逃すと思うか?」
獣人が手を挙げる。すると、背後に控えていた魔狼が一斉に身を屈め、男を追って跳躍する。
八体の魔獣はシーナの頭上を飛び越え、走る男の背後に着地し、そしてそのまま力なく崩れ落ちた。
「させません!」
彼女は地を蹴り、一飛びで獣人へと迫る。刀を引き、鋭い突きを放つ。獣人は上体をのけぞらせ突きを回避し、そのまま横腹めがけ右腕の鋭い爪の斬撃を狙う。シーナはそれを左手の鞘で受けた。
「良い動きだ」
空中へ跳ね上げられながらも体勢を立て直し、危なげなく獣人の背後に着地したシーナは、油断無く刀を構え直す。彼女の刃を退けたはずの獣人の身体が裂け、血が吹き出した。
「先程、我が下僕共を殺したのは水の刃か。悪くない。だが、足りぬ」
交錯の瞬間、三つの水塊が少女の陰より飛来する様子を、獣人の秀でた動体視力は見逃さなかった。薄く鋭く圧縮された水の刃による傷は深い。だがその傷は見る間に塞がり、完治してしまう。
「…貴方も斬られれば痛むでしょう。突かれれば死の恐怖に怯えるでしょう。それなのに何故、他者の痛みを推し量れないのですか?」
最後通牒とでも言うように、シーナは僅かに剣先を下げて問う。
「まだ言うか。逆に訊く。何故、強者である我が弱者共を気に掛ける必要がある? 貴様の刀も、水の刃も、いくら重ねようとこの『魔狼将』ガハルを、魔狼王の一番槍を殺すには能わぬ」
魔狼将ガハル。
シーナはその名に覚えが無い。しかしその素性を察することは出来た。千年前に起きた魔王による災禍の際、魔獣達は八つの軍団に分かれ人類と戦いを繰り広げた。その軍団長の一角にして魔狼の王がガレド。眼前の獣人はその眷属の一体だろう。
しかも、その言葉が真実ならば、彼は魔獣の軍団の中でも有力な立ち位置にいたことになる。彼女の想像を遥かに超える大物である。
だがーー
「…貴方が何者であろうと、私が成すべきことは変わりません」
刀の切っ先越しにガハルを睨み、シーナは胸を張る。そして騎士の流儀に則り、改めて声高く名乗りを上げる。
「私の名はシーナ。生まれはコルワ、父は騎士ヒルド。それが貴方の命を奪う者です!」
地を蹴り、彼女の敵へと大きく踏み込む。それをいくつにも分かれた水塊が追従した。ガハルは丸太のような腕を引き絞り、鋭い爪の斬撃を放つ。シーナはそれをかい潜り、下方から刀の峰を担ぐようにして斬り上げた。刀は突き出された右腕の根本に食い込み、分厚い皮膚と筋肉を切り裂くものの、骨で止まる。
「くっ!」
渾身の力で地面を踏み締め、骨の表面を滑らせるように刀を振り抜き前方へ抜ける。一瞬の後、彼女がいた地点を左の爪による斬撃が通過した。
「先程よりも更に良い太刀筋だ!」
二人の頭上で水塊群が円状の刃となり、高速回転を始める。狙うは刺突や打撃ではなく、治癒の難しい切断だ。彼女は一切の容赦を捨て、水の刃を操る。
「貴様、何年生きた? 何年刀を振った? 十年か? 二十年か? 三十年か? 弱く儚きヒトがここまで技を練り上げるのに、どれだけの時を費した?」
ガハルは叫び、前方へ飛びながら爪を振り下ろす。巨体に似つかわぬ敏捷性だ。
「三つで初めて刀を握り、それから十四年」
獣人の背後に狙いを外した水の刃が次々と着弾する。シーナは左の一撃目を刀で逸らし、続く右を刀の鞘で止める。いまだ傷の癒え切らぬ右の一撃ですら、両足が地面にめり込むほど重い。押し合いを避け右の爪も流し、後方へと飛び離れる。
――強い。
必死に息を整えながら刀を握り直す。たった数呼吸の攻防であったが、敵の致命的な爪を幾度も紙一重に躱した。対してこちらの刃は大した傷跡を残していない。ガハルの言葉は決して誇大表現ではなく、彼はシーナがこれまで戦ったどの魔獣と比べても別格の強さだった。
だが、彼女に退く気は微塵も無い。
「…私の剣技は、貴方のような者と戦うために鍛えた力です」
再びシーナの周囲に無数の水塊が浮かぶ。速さでも力でも勝る相手と拮抗するならば、まずは手数を増やす必要がある。
「良い覚悟だ。しかし悲しいことに、貴様の力は我に遠く及ばぬ」
獣人が仕掛ける。素早い踏み込みで距離を詰め、左右の爪による続け様の斬撃を繰り出す。シーナは後退しつつ、刀と鞘とで交互に爪を受け流した。彼女は魔力を鎧として身に纏っているものの、あの爪に対していかほどの効果があるだろうか。恐らくはまともに受ければ致命傷に至りかねない。
「どうした! 我を斬るのではないのか? 爪を弾くだけでは我を殺すことなど出来ぬぞ!」
ガハルの挑発を無視し、シーナはひたすらに一瞬の勝機を待つ。敵の右腕の深手はとうに完治している。再生能力の高さは十分に理解出来た。どれほど手脚を切り刻もうと、恐らくこの獣人が息絶えることはないだろう。首を斬り落とすか、心臓を突き抉るか。一瞬で回復不能なレベルの損傷を与える以外に手はない。
シーナは水塊を杭のように成形し、頭上から高速で撃ち出す。ガハルがそれらを煩わしげに振り払う一瞬の隙を突き、後ろへと大きく飛び離れた。気付けば村の入り口からは遠く離れ、山裾を背にする格好である。
「どうした? 我の首を落とす算段でも立てているのか? その細腕で叶うとは思えんがな」
その言葉通り、魔力による強化により常人を遥かに超える腕力を得ているとはいえ、彼女の力ではガハルの腕の骨すら断てぬことは明白である。況やこの獣人の異様に太い首、分厚い胸筋と胸骨を、である。
だがーー
「出さぬのか、あれを?」
獣人は大きく横に裂けた口の端を上げ、不遜に笑う。
「見せるがいい、『騎士の誇り』とやらを!一刀一殺の『奥義』を!」
「…言われずとも」
シーナは刀を構え、一切臆することなくそう返した。
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