第2話

 まず目に映ったのは、白だった。

 一度瞬きをし、視覚が捉えたものを理解しようと試みる。それはどうやら人間の頭髪のようだった。

「あ、気がついたみたいですね! 身分証どころか荷物すら持っていなかったので、どうしたものかと困っていたんですよ」

 膝立ちになった人間の少女が顔を覗き込み、彼に届けるには些か大きな声量でそう言った。少女の白い髪が風に揺れ、頬を撫でる。

「貴方、村の入り口近くで倒れていたんですよ。行き倒れですか? 何か持病でもあるんですか?」

 男の頬に、少女の小さな手が触れる。瞼を軽く引き下げられ、額に手の平が乗せられる。最後に首筋へ細い指を当て、少女は小さく首を傾げた。

「身体に異常は無いみたいですね。貴方、名前は? どこから来たんですか?」

 男は問いに答えず、僅かに首を動かしぼんやりとした視線で少女を見る。彼の目を引いたのは、彼女の腰元の刀だった。柄も鍔も鞘も白いその刀に、彼は思わず手を伸ばす。

「私の刀がどう――」

「ノーブル・ホワイト…」

 彼自身でも理解できない単語が喉から漏れた。少女は困ったように曖昧に笑う。

「えっと…。どうしましたか? 私の刀が何か?」

「わからない…」

「え?」

 少女は男の意図の読めぬ言動に困惑し、ジッと彼の顔を見つめて次の言葉を待つ。彼は軽く目を瞑り、一つ息を吐き、ぼやくように言う。

「何も、思い出せないんだ。何も」

 彼は地面に肘を突き、重い身体をどうにか持ち上げる。

「ちょ、ちょっと! 無理しない方がいいですよ!」

 男は彼女の言葉も意に介さず上体を上げ、周囲を見回す。場所は深い茂みを切り開いた山道。少女の後方に、遠巻きにするように二人の男が立っている。皮の鎧と金属製の胸当てを身に着け粗末な剣を佩いた男たちは、不審者を前に小声で何事か言葉を交わしていた。装備からして兵士、もしくは自警団といった趣である。しかし、彼は男たちを興味なさげに一瞥すると、視線を少女へと戻す。

「俺は誰だ? ここはどこだ? 俺は何故ここにいる?」

「あ、あはは…。私がそれを知っていたら話は早いんですけどね…」

 それを訊きたいのはこっちです、という言葉をどうにか飲み込み、少女は頬を掻きながら答えた。

「とりあえず、ここはアヌニの村です。正確には、村を東に少し出た山道。どうです? 何か思い出せますか?」

「いいや、お前が何を言っているのか、さっぱりわからん。アヌニとは何だ? それは場所の名前か?」

 彼はそっけなく答える。少女は肩を落とし、小さく息を吐く。具体的な程度はわからぬが、この男がどうやら記憶を失っているということは察することが出来た。しかし、何を知り、何を知らないのかすらわからないのでは、現状の説明のしようもない。

「その、申し訳無いのですが。実は私、今結構立て込んでいまして。無事なようでしたら、兵士の方々と一度村へ――」

「騎士様、少々宜しいですか?」

 兵士の男の片割れが、遠慮がちに少女へと声を掛ける。

「…騎士?」

 その単語が引っ掛かり、彼は少女をまじまじと見た。彼には構わず、兵士はおずおずと少女へと歩み寄る。

「時は一刻を争います。どうか…」

「え、ええ、そうですね。それではこの方はお二方にお任せして、私だけでも行方不明者の捜索を…」

「それだけではなくてですね。恐らく、ですが。あちらの方も…騎士様ではないのですか?」

 兵士はチラリと彼へ ――彼の隣へと目を向ける。彼が視線の先を見ると、黒塗りの鞘に収められた刀が転がっていた。なんとなしに手に取り持ち上げてみる。その重さが妙に心地良かった。

「ま、待って下さい! あの人は自分が何者かすらわからない様子なんですよ! それを…!」

「当然、強制するつもりはありません。しかし、戦力は多いに越したことは無いですし、もしやその方も我々の討伐隊の募集を見て村へと来る途中だった可能性もありますし…」

 頰を膨らませた少女に半目で睨まれ、兵士の声が尻すぼみに小さくなる。

「何の話をしている? 俺の話か?」

 彼は見様見真似で刀を佩き、意外にも確かな足取りで立ち上がる。

「まあ、そんなところです。…恐らく、貴方は騎士だったのでしょう。何か覚えはありますか?」

「騎士…」

 男は目を瞑り、手のひらをこめかみに当てる。脳の奥で何かが蠢くような不快な感覚に襲われた。

「俺が、騎士…。…俺の刀」

 刀の柄へ手を掛ける。何か、懐かしい何かが脳裏に過りかける。

「時間が無いので現状を簡潔に説明しますが。私たちが今来た村 ――アヌニ村というのですが、そちらではここ数ヶ月、魔獣による被害が多発していました。そこで村は流れの騎士達に魔獣討伐の依頼を出し、集まった十三名の騎士と案内役の村人三人を魔獣の本拠地と思われる山に派遣した、のですが…」 

 少女は痛ましげに顔を伏せ、小さな声で続ける。

「…誰ひとり、戻りませんでした。それが三日前のことです」

「戻らなかった?」

「はい。相応の修練を積んだであろう者たちが十三人。それが一人も戻らなかった。明らかに異常です」

「そうか。異常か」

 彼は神妙に頷く。彼女の言うことはイマイチピンとこなかったが、自らにとってさして重要とも思えず聞き返そうとは思わなかった。

「本来ならば私も部隊に参加するはずだったのですが、到着が遅れてしまい…。せめて増援の騎士が到着するまでに調査と生存者の救出を、とこの方たちに案内をお願いしていたところだったのです」

「そうか。よくわからんが、わかった」

「そういう訳ですので。ひとまずあなたの身柄は村に預かってもらうのが良いと思います。村人の中には貴方の素性を知る者もいるかもしれませんし。不安かもしれませんが、とりあえずはーー」

 少女の言葉が止まる。

「どうされーー」

 少女は小さく手を挙げ兵士を制し、無言で周囲を見回す。僅かに草むらの揺れる、ガサガサという音が届いた。兵士たちの表情が強張る。

 少女は「こっちへ」と口の形だけで指示を出し、刀の柄に手を掛ける。次の瞬間、草むらが一際大きく揺れ、巨大な四足の影が三つ飛び出した。

「伏せて!」

 兵士の一人が反射的に男の頭を押さえ、諸共に転がるように地面へ伏せた。少女の姿が霞み、人の胸ほどの体高を持つ影が三つ、空中で同時に吹き飛ばされた。

「何が…?」

 兵士の一人が呆然と呟く。

 地面に倒れる影の正体 ーー魔獣と呼ばれるそれらは、小さく呻き、フラフラと身を起こした。

 男は少女の背中をぼんやりと見る。一瞬の出来事だった。魔獣が飛び掛かった瞬間、少女は三人の前に庇うように立ち、刀の柄で打ち払うように魔獣の横っ面を殴っていた。人間離れした筋力と反射神経である。

「会話を出来るだけの知性を持ってはいないようですね」

 少女は油断無く、不釣り合いに大きな牙を剥き威嚇をする魔獣たちを睨む。

「こ、こんな村の近くにまで魔獣が…!」

「まさか、こいつらが討伐隊を?」

 兵士たちが怯えた目で魔獣を見る。少女は小さく首を振ってそれを否定する。

「いいえ。この程度の魔狼に、十三人もの討伐隊が帰還すらできぬ程の損害を与えられるはずがありません。しかし…」

 目の前の魔獣を観察する。魔獣とは、人間を除いた魔力を操る動物の総称だ。それらの性質は総じて凶暴であり、遥か昔より人類の脅威として存在し続けている。彼らの中には高い知性を持つ者もおり、それらが群を作り出すこともしばしばである。村へ継続的に被害が続いていることから考え、この近辺に魔獣の群が存在していることは明白だ。

 眼前の魔狼は、脅威としてはそこそこといったところである。彼女のような特殊な訓練を積んだ『騎士』でなくとも、大の大人が数人掛かりで武器を取れば対応可能な程度だ。だが、それが三体、群からはぐれるように徘徊しているということは異常だった。

「今回の件、思ったよりも深刻かもしれませんね」

 少女はそう呟き、威圧するように前へと踏み出す。三頭の狼は一歩、二歩とジリジリと後退し、同時に踵を返し逃げて行った。

「お、追わなくても良いのですか?」

「私の目的はあくまで行方不明者の捜索です。避けられる戦いならば避けるに越したことはありません。…それに、これはどうやら想像していたよりも大ごとになりそうです」

 兵士たちは少女の言葉に不安げに顔を見合わせる。

「…やはり案内は不要です。一度、皆で村へ戻りましょう。魔獣がまだうろついている可能性もありますし、送っていきます」

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