第10話 治せない心

 ここはどこだ……


「もう大丈夫ですよ。しばらく安静にして下さい。今、お母さんを呼んで来ます」


 看護婦?


「良かった……」


 彼がどうしてここに?


 良かった?


 何が良かったんだろう……


「大丈夫か?」


 彼が真剣な顔で聞いてくる。


 整った顔立ち、清潔感のある、おでこを出したショートモヒカン。彫りの深い目元に綺麗な茶色い瞳。


 はあ。本当に、こいつはイケメンだな。

        

 右手で近付く彼の顔を払おうと思ったけれど、右手が白く布に包まれていた。指が動かない。


 あれ、僕は骨折していたのか。頭が正常に動かない。左腕には点滴のチューブが刺さっているようだ。


「お、おい、動くなって。お前、右手骨折してるんだぞ」


 右手が使えなくても、別にどうとも思わなかった。ただ、僕はもう疲れていた。


「あのあと、何があったんだよ?」


 思わず顔が歪んでしまう。


 胸の中に何かが這って歩いている。


 赤い大きなムカデのようなものが、歩いている。


 沢山の黄色い脚がブスブスと、心臓に音を立てながら穴を開けて、黒い血を吹き出させている。


 息の仕方が分からなくなり、どこまでも心は落下していった。


 彼の心から心配しているような、怒っているような顔が、僕を酷く責める。


 ざわざわと、鳥肌が立ち、全身に寒気を走らせて、意識が遠くなる。


「お、おい!大丈夫か!」


「だ……」


 声が上手く出せない。それでも、彼に伝えないといけない。


 彼女の優しい笑顔が浮かんでは闇に消えていった。


「だ……大丈夫だから」


「大丈夫じゃないだろ!何があったんだよ!」


「ご、ごめん。ちょっと、転んだだけだから……」


「お前、あの子に何したんだよ!」


「……え」


 彼の真剣な顔が、なんだか、僕の知らない人に見えた。


 僕は、何もしていない。そう、言いたかった。


「お前、彼女に無理矢理、抱き付こうとしたって、本当かよ?」


 ボールペンで目の奥を刺されたような鋭い痛みに、目が覚めた。


 そんなことはしてない、僕はただ、謝りたかっただけなんだ……


「なあ!彼女が泣きながら俺に言ってきたんだ。嘘だよな!お前、そんなことしてないよな?」


 彼女が泣いていた?


 僕のせいだ……


 僕なんかが彼女を好きになったから、僕なんかが……


「なんで答えないんだよ!」


 彼の涙が僕の肩に落ちた。


 じんわりとシミになって、吸い込まれていく。


 彼女は、彼が好きなんだ……


 僕なんかじゃない、この男を好きなんだ。


 彼女に蹴られたと言って、何になる。


 全部、僕のせいじゃないか。


 抱き付こうとなんか、してないと言って、彼が彼女を疑って何になる。


 彼女は彼と付き合うべきなんだ……


 何も言えずに、ただ、無意識に涙が溢れた。


「……最低だな。お前」


 彼の顔が怒っていくのを、ただ、ぼんやりと見ていた。


 走るように部屋を出て行く彼を見て、ここが個室だと気が付いた。


 はあ。疲れた。もういい。


 これで良かったんだ……


 あの二人なら、美男美女でお似合いじゃないか。


 はは。


「ちょっと、どうしたの!」


 廊下から、母の声が聞こえた。


 僕は痙攣する左手で何とか涙を振り払った。左手にも包帯が巻いてあったが、指は動くようだ。


 母は遠慮がちに、ビクビクしながら個室に入って来た。


「……大丈夫?あの、ごめんなさい。あなたが倒れていたから、どうしても心配で、救急車を呼んでしまって……」


 僕は、あのまま意識を失ったのか。


 僕はどうして、こんなにも情けないのだろう。


「あ、あの、水買ったから、キャップ開けて、ここに置いておくわね。そ、その、三日程度で退院出来るらしいから……」


 もう、誰とも会いたくなかった。


 この世界から消えてしまえたら良いのに、僕なんかが生きている意味はあるのだろうか。


「そ、それじゃあ、何か困ったことがあったら、そのナースコール押してね。ま、また来るからね……」


 母の声が遠く感じる。


 これは夢なんだ、きっとそうだ。


 早く目覚めなきゃ、みんなと遊園地に行くんだ……


 僕は止まらない涙を抱えたまま、これが夢だと願いながら、ただ目を閉じた。




 退院して、車椅子で家に帰ったんだと思う。


 あれは、いつのことだろう。


 ただずっと、自分の部屋で暮らしていた。


 地面に転がっている空のペットボトルとお菓子の袋、殴って所々が陥没した壁。


 あれから、どのくらい経ったのだろう。


 もう、母も父も僕に何も言わなくなった。


 何も考えずに、新しく買ってもらったパソコンに電源を付けた。


 ちょうど二年経ったんだ……


 あの日のことは、今も頭に焼き付いて離れていない。


 彼女と彼の歪んだ顔が、僕の胸に穴を開けて、血が吹き出したままだ。


 僕は何も出来ずに、ただ部屋で与えられた物を食べるだけ。ただ、餌代のかかる無駄な動物だ。


 自殺をしようとして、首吊りのロープの結び方も覚えたけれど、ロープを首にかけると、涙が止まらなくなって、どうしても、あと一歩が踏み出せずにいた。


 いつものように、何も考えずにネットサーフィンをしていた。


 彼とよくやったゲームの新作が出るらしい。


 なんとなく、どうして自分でも、そうしたのか分からないけれど。彼のSNSを開いてしまった。


 結婚しました!という文字と添付された画像が、僕から何かを奪った。


 白いタキシードと、白いドレスが重なっている。


 彼と彼女が、あの遊園地で、幸せそうにキスをしていた。  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る