第9話 崩れる世界

「ちょっと!どうしたの!」


 母の声がうるさい。


「その怪我!何があったの!」


 うるさい。


「友達はどうしたの!まさか、あなた事故でも起こしたの!」


 黙れ。


「黙っていたら分からないじゃない!だ、大丈夫だから!今すぐ救急車を呼ぶから!そこに座っ……」


「黙れ」


 僕の腕に泣きながらしがみ付こうとする母を、振り払った。


 殴られた子犬のような小さな悲鳴をあげて、玄関にあるペルシャ絨毯の上に、呆気なく落ちた。


 なんだ、母さん、こんなに弱いんだ。


「わ、分かったわ、ごめんなさい……」


 お前に何が分かる。お前なんかに。


 金持ちの父さんと結婚して、何の苦労もしないで暮らして、僕をこんな顔に産んで、お前のせいだ……


 母を殴ろうと思った。誰でも良いから殴りたかった。


 血やあざで紫色になった僕の右手を振り上げた。


 母が引きつった顔で僕を見ながら、何度も謝っていた。


 はあ。疲れた。僕はどうして家にいるのだろう。


「……ごめん。救急車は呼ばないで大丈夫だから。呼ばないでほしいんだ……」


 まだ涙が出るんだと思った。なんで僕は泣いているのだろう。


「分かった!そ、そうね。あなたが大丈夫って言うなら……」


 大丈夫?そうだ、僕は大丈夫。今までと何も変わらない。はは。


 靴を脱ぐのも面倒で、僕の部屋に早く帰りたかった。


 濡れた靴が嫌な音を立ててペルシャ絨毯と、綺麗なクリーム色をしたフローリングの廊下に、血の混じった足跡を付けていく。


 足が痙攣して上手く歩けずに、何度も濡れた体を壁に預けた。手も足も痛かった。


 ガレージで自分の車を殴り、蹴ったんだ。あんな車、買ってもらわなきゃ良かった。


 僕はどうやって家に帰ってきたんだっけ……


 低い唸り声を上げながら、丸い掃除ロボットが僕の足先に当たってきた。痺れる痛みが脳を引き裂く。


「痛ってえな!」


 反射的に蹴り上げ、何度も踏み付けた。右足の裏が燃えているようだった。


 もう足がどうなろうと、どうでも良かった。


 僕はもう疲れた……


 自分の部屋に入って、ドアを閉めた。


 今までどうやって歩いていたのかを忘れたように、膝から崩れ落ち、床に転がる埃の上から何度も拳を振り下ろし、声を出して獣のように泣いた。


 掠れた絶叫と悲鳴を上げる床が、八畳間に反響して、僕の頭をより痛くしていた。


 四角い白いローテーブルに開かれたままの、遊園地の雑誌を力任せに破いた。女性に必ず喜ばれる隠れスポットという文字が宙に浮いた。


 彼女が僕のことを、すごいと言いながら、僕だけに向けてくれた眩しくて優しい笑顔が頭に浮かんだ。


 どれを着ようかなんて一週間前から無駄に考えて、ベッドの上に並べられたシャツやパーカーを引き裂いた。


 隣を歩いたときの甘い匂い。彼女の輝きながら揺れるウェーブの髪を思い出した。


 小学生から使っている勉強机が、無性にダサく見えて、机上のパソコンをなぎ倒した。画面にはモテる方法とか書いてある。無駄な検索だ。何もかもが無駄だった。


 僕に罵声を浴びせる、歪んだ彼女の顔が、頭に焼き付いて脳を焦がしている。


 机上の透明なデスクマットの下にある、カラフルな国旗に囲まれた世界地図。


 海上に鉛筆で書かれた今まで好きになった女子の名前が三つ。


 赤鉛筆で書いた死んでほしい人間の名前は、いくつあるのか分からない。


 頭から血が垂れて滲む。世界の海は赤いんだ。


 一番最初に書いた好きな女子は、小学四年生のときだ。


 キモいと言われ、男子にも女子にも殴られた小学生の記憶。


 迷惑そうな教師の顔。


 何個も持たされたランドセルの重さ。


 道路沿いのドブのような用水路を歩かされた、嫌な感触と足の冷たさ。


 それを見て笑う好きな女子の顔。


 母に自分でドブに入ったと謝る苦さ。


 廊下から母のすすり泣く声が聞こえてくる。


 何で自分からドブに入ったんだと、僕を叱る父の顔が浮かんだ。


 あの時も僕は泣くことしか出来なかった。 


 世界地図の真ん中に、大学のゼミで撮った集合写真があった。


 横一列になって十人ほどが写っていた。真ん中にピースをしている優しい彼女の笑顔。


 その横で楽しそうに笑う優しい彼。


 端っこで無表情な僕。


 残りの人間の顔は油性ペンで塗り潰してある。好きじゃなかった。


 でも、もう、この写真もいらない。地図もいらない。何もかも、もう手に入らない。


 透明のデスクマットを投げ捨てて、何度も破った。写真も地図も、もう見たくなかった。


 彼女が彼と幸せそうに遊園地を歩いているんだ。僕の頭にずっと浮かんで離れない。


 きっと、楽しそうに笑い合って、あの城の下で一緒に写真を撮るんだ。


 色んな乗り物に乗るんだ。彼女はもしかしたら苦手かもしれないから、雑誌に載っていた隠れスポットに連れて行くんだ。


 気が付けば自然と手を握り合って、彼女の冷たい手を心配して、暖かい飲み物を買ってあげよう。


 夜になるまで、彼女との会話は途切れることは無くて、このまま二人だけで過ごしたいねと言い合うんだ。


 打ち上がる花火を、肩を寄せ合って見るんだ。


 彼女は寒がりだから、僕はマフラーを貸してあげるんだ。


 違う。僕じゃない。それは彼がするんだ。


 そして彼女は優しく微笑んで、彼にキスをするんだ……


 どうして彼なんだ。


 どうして僕じゃないんだ。


 どうして……


 世界が回っている、意識が遠く薄くなり、視界がボヤけて回転していた。


 頭が酷く傷むが、どうでもよかった。


 二人がキスをしている、花火がそれを綺麗に照らしている。


 きっと、そうなるんだ。


 僕なんか、この世界には必要ない。分かっていたはずじゃないか。


「はは、分かっていたはずじゃないか。僕なんか、さっさと死んでおくべきだったんだ」


 今まで生きてきて受けてきた沢山の嫌な記憶が。


 今朝の車内の空気が。


 彼女の笑顔と歪んだ顔。僕を蹴る硬い茶色いブーツの痛みが。


 彼の優しい声が。はにかむ笑顔が。


 僕の傷む頭を駆け巡り、僕は耐えられなくなって、絶叫しながら真後ろに倒れた。


 部屋を開ける音、泣き叫ぶ母の声がした気がした……




「おい!意識あるのか!なあ!」


 誰かに話しかけられている。誰だっけ……


「どうされましたか?」


 遠くから聞こえる、知らない女性の声。 


「今、起きました!はい、すぐに来てください!」


 どこかで聞いたことがある男の声。


「おい!大丈夫か!」


 ぼんやりとした意識の中、視界に入ってきたのは泣いている彼だった。 

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