第3話 絶望の対峙
目の前で母の持つ包丁が、俺から言葉を奪った気がした。
俺はもう、刺されているのかもしれない、そう思いたくなる空間だった。
古民家の玄関は微かに畳の匂いがしていた。昼間のはずが、どうにも光が届いていない気がした。
寒気なんかじゃない、確かな命の危険を感じる。うつろな目の母を見て思った。
「……母さん、ど、ど、どうしたの……」
「……」
息が詰まり、ただならない空気に悪寒が走った。
つい、この前、あれは一ヶ月前だろうか、父と共に面会に来てくれた母が頭によぎる。
「もうすぐ釈放されるけど、これからの人生は、お母さん達と一緒に、被害者の家族に償っていこう。ここを出れたからといって、到底許されることじゃない。そんな息子に育てた私にも責任がある、何度も死んで詫びようと思った、未熟な親で申し訳ない、あんたが人殺しになったのも、きっと私のせいなのよ……」
もう七十になってしまった両親は、俺のせいで、すっかり疲れ切っていた。俺を説得する言葉も、いつからか、自分自身へ必死に言い聞かせているような気がして、俺は辛かった。母さんのせいじゃない、そう言いたかったが、いつも言葉が上手く出せなかった。
なんで、あんなことをしたんだろう。
俺はこれから、どうすれば、どう償えばいいのだろう。十五年間、刑務所に守られながら、のんびり考えている間に、マスコミに追われ、SNSで特定されて、何度も引越して、何度も謝ってきたのだろう。
死んで詫びるしかない、それが一番楽で、甘えた選択肢なのは分かっているけれど、そう思いながらも、もしかしたら、希望と責任を宿した目で説得してくれた母、ただ黙って俺を見つめて頷いてくれた父に、自殺する前に会いに行けば、引き留めてくれるかもしれない、何か被害者の家族への償いを一緒に見出してくれるかもしれない。
そんな、どうしようもない甘えた考えが、確かに少し俺の中にはあった。
しかし、マスコミから逃げた先、安心できるはずの実家の玄関に立つ母の顔は、俺の知らない母の顔だった。
すっかり白髪になってしまった肩までの緩いパーマのかかった髪は、水分を抜き取られたように、静電気をまとったまま、四方八方に散らばっている。
シミとシワの溢れた顔に、小粒の瞳は怒りに血走り、流れる涙が縦に鋭くシワを寄せた鼻に流れ、震える半開きの口に吸い込まれていった。
「……どうしたの?だって?」
とんでもないことが起きている、それは間違いなく俺のせいだ、ドス黒い濁った声の返答に俺は直感し、狂った母の手に光る包丁に命の危険を感じた。死にたくないと、そう思った。
目の前で肌色の丸襟のパジャマが、不安定に包丁と共に左右に揺れ始めた。幻覚じゃない、震えより大きく痙攣より小さく、確かに揺れていた。
「あんた、本当に私の子供なの?なにかの間違いよね?ねえ!答えなさいよ!」
「お、俺だよ、今日、釈放されて帰ってきたんじゃないか。大丈夫、俺はマスコミじゃないよ、母さん落ち着いて」
「……あんたなんか」
母はうなだれて、ぶつぶつと床に話してた。ゆらりと、包丁を俺に向けたまま。父は家にいるはず、釈放された日は家族で静かに今後のことを話し合って過ごそう。そう言ってくれた、それにすがって俺はここに来たんだ。
「と、父さんは、出かけてるの?」
「オトウサン?ひひ、おとうさーん、人殺しの息子が呼んでますよー」
母の発音がおかしい、いや、何もかもがおかしい、入る家を間違えた、そう思いたかった。いや、違う、優しかった母を狂わせたのは俺なんだ、でも、一ヶ月前は普通だった、なんだ、なんなんだ、この、まとわりつく違和感は。
「か、か、母さん、もう大丈夫だから、とりあえず、その包丁置こう、少し横になって休もう、ね、大丈夫だから」
俺は声を絞るように出した。元の母に戻ってほしい。俺は、あなた達にも償いたい、それが俺の自殺で償えるとは思ってない、でも、最後に普通に話したかった、釈放された身を持って実家で謝りたかった。それなのに、どうして。これは一体なにが起きているんだ、頭が割れそうだった。
「来ないでよ!」
母が力任せに包丁を振り回し、黒い持ち手が影になって俺の鼻先を掠めた。鼻先が熱い。このままでは殺されてしまう。こんな姿を外にいるマスコミに見られる訳にもいかない、逃げれない。
「ちょ、ちょっと、落ち着いて!はあ、はあ、おかしいよ……。なにがあったの?」
「何があったかって?あんたが人を殺したのよ」
心臓が音を立てて軋んだ、これも夢であってほしい。十五年間、寝る前にいつも思った、時間が経つほどに罪の重さは質量をまとい、足元からカビて腐っていく。
そんな俺を母は、面会でいつも励ましてくれた。俺を責めすぎないように気を使ってくれているのも辛かった、はっきりと責めてくれれば楽なのにとも思った……
でも、実際に母から包丁を向けられて、人殺しと血走った目で言われて、俺はもう、だめなんだと思った。
「あなた、自分が殺したのは、一人だけだと思ってるでしょ?ねえ!」
俺は反転しそうな世界の中で、ただ、何も言えずに母を見つめていた。
「あなたが殺したのは三人よ、誰だか分かる?」
「さ、さん、にん」
自分の歯がガチガチと音を立てていた、上手く喋れない。
「一人は、遊園地で刺してしまった見知らぬ女性でしょ。私たち夫婦は何度も謝ったの、お金も沢山払ったわ。私たちは当時五十五歳だったわね、あの人と定年後にね、夫婦で世界一周旅行に行こう、なんて話してたのよ。実際は近場でも良いから、色んな場所に行きたいねって。子育ても終わって、息子も自立していたはずだしね。ねえ、あなた?」
父は家にいるのか?母の問いかけは、何も言えずに固まっている俺の脳に突き刺さってくる。
「二人目は、あなたを振った女よ」
「……え」
そんな、あの子が……
「あなたが釈放する日が近づいて、マスコミやニュース番組で十五年ぶりに取り上げられるようになってね、今は素敵な時代よね、あなたを振った女性がSNSで特定されちゃったのよ」
訳が分からなかった、あの子が死んだ……?振られた時の記憶が、俺を拒絶して軽蔑するような目が、脳に爪を立てて崩れていく。
「あなた、女を見る目が無かったのね。その女ね、あなたが釈放される日が近づいてるってニュースを見てね、自分のSNSでね。私が振った男が、人を殺して出てくるんだけど、怖すぎて無理なんだけど、死刑にしてほしいんだけど!って呟いてね、ふふ」
楽しそうに話す母の眼球が、上に向きすぎて微かに見える半円の黒目が俺を見つめていた。
「それだけで本人だって、特定される訳ないじゃない?ほら、あなた、遊園地で告白した日、男女六人で行ってたらしいじゃない、あなたが告白する前に、他の男に告白されて、その男と結婚してたのよ。その子が自慢げに書いていたわ。それでね!出身校とかも書いてあったのよ、プロフィールに。色んな人に叩かれて、家まで来られてね。先週、首を吊って死んだわ、馬鹿よね、四十歳で何をやってるんだか。ふふ、ふふふ」
母さんが壊れてしまっている、そう思った。その話が本当なのかどうか分からないけれど、母は人の死を笑うような人じゃない、あの子が俺のせいで死んでしまった。いや、今はそれを考えている場合じゃない気がした。ゆらゆらと左右に揺れる母が震え出していた、木製の床がギシギシと悲鳴をあげている。
「全く、どっから人の住所探してくるのかね。私たちも何度も引っ越しても駄目だった。こんな古い家に住んでも駄目、なにもかもが駄目。ねえ、あの女が、あなたを拒絶しなければ、あなたが、他の男より早く告白していれば、違っていたの?あれ?ねえ、なんで告白したの?そんな女が好きだったの?え?なんで人を殺したの?私は人殺しを育てていたの?ねえ?なんで?私の教育はどこで間違ったの?」
息の仕方が分からなくなった、ここで俺は刺し殺されるんだ。首を真横に傾けて小さな黒目が俺を捕えて離さなかった。
「なんで?私の旦那まで死ななきゃいけないの?」
母が何を言ってるのか分からない、これは夢なんだ、そうに決まってる。
母が包丁を落とした、床に垂直に突き刺さる。母は魂を置き忘れていたかのように、父の書斎へと消えていった。
外からマスコミや野次馬の罵声が聞こえてくる、いつからか耳に入る余裕も無かったみたいだ、俺は玄関に崩れるように座り込んだ。額から汗が逃げるように流れていく。心臓が冷たくなっている気がした。
「なんでよ!ええ!おい!なんでだよ!」
父の書斎から、母の奇声が聞こえてきた。行ってはいけない気がする、嫌な予感どころではなかった。
恐る恐る、靴を脱ぎ、軋む床音で気付かれないか痛む胸を引きずって、父の書斎を覗いた。
六畳間に、所狭しと本が並び、灰色の事務机に重厚な黒い革張りの大きな椅子。そこに父は座っていた。
椅子に座っているのではなかった。事務机の後ろ足を起点として、机上を周って、一本の白いロープにぶら下がる首が、引き出しの下にあった。座るように尻の浮いた状態で首を吊ってる父を、母が蹴りながら罵声を浴びせていた。目が眩む光景だった、バチバチと脳の血管が切れるような感覚。
「あら、帰ってたの?あ、この人?今朝ね。死んでたの。おかしいわよね、今日はあなたを迎えて話し合うって言ってたのに、先週くらいからマスコミが来るようになってね、あなたを振った女が自殺したのも責められてね、あなたが、やっと釈放されるから、あいつには内緒にしてやろうなんて強がってたのに、なんか急に参っちゃったのか、ボケたのか知らないけど、ダメになっちゃったみたい」
「と、父さん?」
八の字の太い白髪まじりの眉毛は、顔面と共に重力のまま地面へと垂れて、母が腹を蹴り出す度に飛び出す舌から血が垂れていく。子供の頃に優しく笑いながらキャッチボールをした気がする。分からない、これは何なんだろう。俺はどこに来たのだろう。
「私より先に楽になりやがって、自分だけ!ええ、ずるいんじゃないの!ねえ!それで償ったつもりなの?」
俺は飛び出すように母に飛びついた。
「母さん!もう止めてくれ!全部俺が悪いんじゃないか!そうだろ!父さんも母さんも悪くない!そうだろ!」
「……」
久しぶりに、いや、久しぶり過ぎる。俺の手が抑えた母の肩は、俺の知っている肩ではなく、小さい頃に叩いた祖母の肩と同じ感覚だった、余りに細く、骨を掴んでいる気さえした。
俺と共に父の上へと崩れ落ち、母は、そのまま泣き崩れてしまった。
「母さん、その、本当に申し訳ない。俺のせいで何もかもが……」
「……して」
「え?」
「殺して!あの女のように、私を殺しなさいよ!今!ここで!」
「母さん……」
「……ごめんなさい。私は大丈夫だから、ねえ、一人にしてちょうだい。ね?」
元の優しい母の声だった。俺は何も言えずに家を出た。
三歩も歩かないうちに、マスコミに囲まれてしまった。とにかく一秒でも早く、ここから離れたかった。今見たことが全て何かの間違いだと思いたかった。
「さっきの悲鳴はなんですか!」
「家族とは何を話されたんでしょうか!」
俺は、走るのはこれが最後になるだろう、そんなことを頭の遠くで考えながら走り出した。
「ちょっと!どこに行くんですか!」
とにかく走った、子供の頃に、ここらへんをよく走っていた気がした、どこで間違えたのだろう、涙が止まらなかった。
「うわ!」
住宅街の路地を曲がった所で、男性と思いっきりぶつかって、道路の上に派手にお互い倒れあってしまった。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「はあ、はあ」
俺は息をするのがやっとで、その場に倒れたまま動けなくなってしまった、久しぶりに走ったのを思い出したかのように肺が一気に締め付けられた。
「だ、大丈夫ですか?これで涙を拭いて下さい、鼻からも血が出ていますよ!何か辛いことがあったんですか?」
よく見ると男は俺と歳が近いのかもしれなかった、四十代を感じさせる哀愁を感じた。
そして、どことなく、悲しみを帯びた目が自分自身を見ているようだった。五分ほど動けずに、情けないくらいに声を出して泣いた。男が渡してくれた真っ赤なハンカチが、その優しさが、どうにも心に染みてしまった。その男は黙って、泣く俺の横で、どこか遠くを見るように俺を見つめていた。
「あ、ありがとうございます、もう大丈夫です」
「それなら良かったです、ハンカチは差し上げます。私は用事があるので、これで失礼します」
「すみません、助かりました……」
「いえいえ、困った時は、お互い様ですよ。それでは」
颯爽と去っていくスーツ姿の同年代の男が、どこか輝いている気がして、俺も、あんな風に人を助けられる人になりたかったはずなのに……
いや、もう振り返らないでいい。刑務所のゲートを抜けた時、死のうと決めていたじゃないか……
死ねば優しかったころの両親に会える気がした。
実家には行った、結果はどうであれ……
俺には、死ぬ前に行かなきゃいけない場所がもう一つある。早くいこう、どうせ、もう救いは無いんだ。他に償える方法も……
立ち上がると、道路脇に生える雑草に、銀色に光る指輪が落ちていた。
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