依頼Ⅱ⑥
恐らく無意味であろう看病を続け、気を揉みながらも音葉は夜を待った。
眞由とそしてポチもまた、戦力とは言い難かったが、その看病に協力していた。
何度目になるか分からない寝汗を拭いたタオルを絞った所でそろそろか、と猟犬が呟く。時刻はようやく十一時を回っていた。
「鹿賀子さん、あなたまでついて来なくともいいんですよ? タイムカプセルなら後日にでも掘り出せますし」
「そういうのは言いっこなしだし、先輩。……これでもあたし、責任感じてるんだし」
「依頼を了承したのは私です。私の覚悟と備えが甘かった。あなたが責任を感じることじゃありません」
「先輩があたしだったら、気にしないで帰れる?」
そう言われてしまえば、返す言葉もない。彼女もまた当事者であるなら、最後まで見届けさせるのもまた請けた者の務めだろう。
「家の方に連絡はしなくても良いんですか? 勿論、無事に送り届ける事を約束しますが、時間がどれだけ掛かるか分かりません」
「問題なーし。うちって放任だからさ。一日二日家に帰らなくても何も言われないし、彼氏には連絡入れたから大丈夫だし」
私の家と同じだ。思いながらも音葉は眞由と同じ表情で語れる気がせず、短くそうですかとだけ返した。
後ろ暗い事があるわけではない。ただ自分が割り切れていないだけ。今、そのことを表に出す必要はない。
「奏さん、もう少しの辛抱です。絶対、助けますから」
最後にもう一度だけ奏の手を握って、音葉は立ち上がる。
三人は視線を合わせて、誰ともなく頷いた。
◇ ◇
深夜の街。ぽつぽつと出歩く人々の頭上に一瞬の影を落とし、しかし見上げる頃には誰の目にも映らない。
地上の夜はいつも通り静かに過ぎていく。
一方、上空では。
「ッ──!?」
「むりだしむりだしむりだしむりだし──!」
「口を開いてると舌を噛むよー」
大惨事の大騒ぎだった。
玄関を出た途端、方角を尋ねてきたポチに指で示せば次の瞬間には音葉と眞由は両脇に抱きかかえられ、夜の街の残光を目で追っていた。
防寒着を纏っていてもガチガチと歯が鳴るのは寒さだけではないだろう。全身を襲う浮遊感は二度とは経験したくない気持ち悪さがあった。
せめて乙女の尊厳だけは守らねばならないと湧き上がる吐き気を押さえ込み、震える指先で目的地と思われる雑木林を指す。正確な位置であるかは定かではないが、当たらずとも遠からずの位置であればいい。とりあえず早く地上に下ろしてほしかった。
「落ちる落ちる落ちる落ちてるぅ!?」
「だから口閉じてなって」
街灯もまばらにしか設置されていない道。サイクリングロードも兼ねているとはいえ、この時間ともなればサイクリングを楽しむ人もランニングに通る人もいない無人の遊歩道へとポチに抱えられたまま着地する。着地時の衝撃はまるでないが、それでも中学時代の修学旅行の際に乗ったフリーフォールの何倍もの負荷に胃の中身が暴れまわる。食事が喉を通らない精神状態で助かった。
「この辺りで間違いないかい?」
「……」
随分と久しぶりに感じる地面に膝をつき、無言で音葉は手を突き出して待て、と訴える。
相手が邪神だろうと猟犬だろうと知ったことではない。自分自身の尊厳を守るために音葉は必死に戦っていた。
「……ええ、此処で合ってますよ……」
朝方見たのと同じ電波塔と、持ってきた懐中電灯で雑木林の中に掘り起こされた形跡と自分たちの足跡を確認する。まさに目的地の真ん前であった。
「後はまた現れてさえくれれば……」
一度に二匹と邂逅したとはいえ『ツチノコ』は多くの人間たちが探し求め、それでも発見に至らなかった
音葉が
だがポチは笑みを浮かべ、林の向こうの一点を見つめていた。
「異教の神性である私が土足で縄張りに上がり込んだんだ。それを見過ごせる神はいないさ」
「神……?」
音葉同様に膝をついて口元を押さえていた眞由もまた、本能的に何かを感じ、鳥肌が立つのを感じていた。
「せ、先輩、なんだしこれ!? なんか……なんかぞわぞわってやばい感じだし!」
眞由の疑問に対する答えは持っていない。しかし、眞由の言うやばさの原因はすぐに姿を現した。
目撃した二匹の『ツチノコ』。どちらも全長一メートルが精々で大蛇と言って差し支えはないだろうが、それでも独特のシルエットを除けば常識の生物の範疇であった。
ざりざりざり。
「そんな、今朝とはまるで違う……!?」
──少なくとも人一人を容易く丸呑みに出来るような、そんな大きさではなかった。
頭の横幅でさえ一メートルを超え、特徴的な腹部はその倍、全長に至っては全貌が明らかになっていない今でも十メートルは下らない。
「この時代では『ツチノコ』という
焦りを見せることなく語るポチだが、そのサイズ差は圧倒的だ。狩猟犬の中には熊犬と呼ばれるクマを狩る犬もいるが、目の前の『ツチノコ』──『野槌』は熊の比ではない。
異常であっても子供の姿を取っていた『紫の鏡』とは状況がまるで違う。本当にこんな怪物をどうにか出来るのか、ここで三人まとめて丸呑みにされ、消化を待つことになるのではないか。そんな不安を掻き消すように、ポチは鎌首を
「……!」
耳鳴りがするほどの威嚇音に顔を顰めながら、それでも音葉は『野槌』と『ティンダロスの猟犬』から目を離さない。
自分があの夜、一体何に救われたのか。それを改めて知るために。
「神秘さの欠片もなく、虚勢の巨躯で暴れるだけとは。あまりに惨めだ」
数センチ。たった数センチ前に進めれば『ティンダロスの猟犬』の頭を呑み込めるはずなのに『野槌』はそこから微動だに出来ない。
力を入れているようには見えない片手一つで完全に押さえ込まれている。
だが『野槌』の狩り方はその牙と体だけではない。奏が冒された毒の霧がある。開いた口から覗く牙から毒液が滴り落ち、地面を焦がす。それとは比べ物にならない程に濃縮された毒が霧となって噴出する、直前。
「芸がない」
地響き。『野槌』の頭部が地面に叩きつけられていた。
あまりに圧倒的だった。頭部を押さえつける獣の手からは『紫の鏡』の時には見せなかった鋭い爪が伸び、深くめり込み、人と変わらない赤い血液が滲みだしている。
その姿を見ても未だ拭えない不安感。その正体がなんであるか、音葉には見当がつく。
「『ツチノコ』はもう一匹います!」
事前に伝えてはいた。それでも思わずもう一度音葉が叫ぶと、狙いすましたかのようにもう一つの巨大な影が音葉たちを飛び越え、『ティンダロスの猟犬』を押し潰さんと迫っていた。
先ほどとは比べ物にならない地鳴り。だが感じるこの地響きももしかしたら錯覚でしかないのか、周囲の木々は揺れることも折れることもなく、ただ猟犬だけがその巨体の下敷きとなる。
「ポチさんッ!」
「ポチ!?」
悲痛な二人の叫び。
その残響を切り裂くように夜の闇に通る静かな声。
「分霊を作るのではなく生物と同じく交わり、子を宿すことでしか存続することも叶わない。堕ちたものだ。我らが現れずともいずれは人の世に飲み込まれ淘汰されるを待つばかりの儚き神。お前たちの伝聞も此処で終わる」
哀れむような口調で、しかし声には憐憫も何も宿ってはいない。淡々と抑揚のない単語の羅列でしかなく、興味も関心も、
「ポ、チ……?」
息を呑むのは今度は音葉の方だった。
猟犬を押し潰したもう一匹の『ツチノコ』の巨体が浮き上がっていく。それ以上の巨体を持つ何かに押し上げられていく。
『ツチノコ』の影は音葉たちを超え、次に落ちるのは獣の影。
『GAAAAAAAAAAAAA!!』
夜の闇すら呑み込み塗り替える漆黒の毛並み。宝石の如き青の煌めきを宿す双眸。
音葉が初めて見る事となる『ティンダロスの猟犬』、その絶対的強者の威容。
暴れ狂う二匹の尾を意に介さず、一匹を地に押さえつけたまま、持ち上げた一匹の腹部に噛みつき、噛みちぎる。
大量の血が噴き出て、雨となって音葉たちに降り注ぐ──ことはなかった。
猟犬が食い破った部分は深淵の如き闇が蠢くばかりで血も肉も存在しない。空間を抉り取られたようだった。
『一匹残れば十分だ』
人型を捨てても発する人語は変わらず明瞭なまま。それが逆に『ティンダロスの猟犬』の不気味さと異質さを際立たせて、ばくり、と。
意趣返しのように『ツチノコ』の頭を一口で喰らい尽くした。
煙のように残った体が掻き消えていく。音もなく、初めから何もなかったかのように。
事実、何もなかったことになるのだろう。彼女は対抗ではなく対攻するもの。全ての神話を侵す、人の生み出した神々の天敵、
ぐちゃぐちゃという咀嚼音、口内であの深淵が蠢き、そして呑み込まれて消えていく。
残った一匹も抵抗をやめ、消える己の半身、伴侶をただ見つめていた。
『これで私の目的も果たされる。さようなら、古き神の残滓』
猟犬の爪が『ツチノコ』の額をゆっくりと抉る。痛めつけるかのようなそれから眞由は耐えきれず目を逸らした。
音葉は刻まれていくその紋様が何であるかに思い当たり、その名を口にする。
「『イグ』……」
『正確にはその眷属だがね』
猟犬の捕捉が音葉の予想が当たっていることを示している。
その土地で最も巨大な蛇が眷属として選ばれる。その条件を満たしているのは目の前の『ツチノコ』を置いて他にはいない。
ただ喰らうだけではない。これが神話を侵すという事。
外来種が在来種を淘汰するかの如く、
三日月の紋様が完全に刻まれ、『ツチノコ』の体が禍々しくも神々しい光に包まれる。目を覆ってしまうその光がやんだ後には『ツチノコ』の巨体も『ティンダロスの猟犬』の威容も消えていた。
「これで終わりだ。どちらが彼女を冒していた毒の持ち主かは知らないが、すぐに毒は抜けるだろう」
人型を取り戻したポチの手には一メートルにも満たない、通常の成体の蛇の大きさにまで縮んだ『ツチノコ』が巻き付いている。
「……その『ツチノコ』は、『野槌』は」
「今はもう『イグの子』だよ」
冗談なのか分からないその言い回しに音葉はくすりともしなかった。
◇ ◇
脅威が消えた雑木林で眞由は音葉に頼んでそのままタイムカプセルを掘り起こし始めた。音葉は手伝いを申し出たがそれを断って、シャベルもスコップの用意もなく、眞由は素手で地面を掘りながらぽつぽつと語り出す。今回の事件に巻き込んでしまった彼女なりの誠意なのかもしれない。
「友達と一緒に埋めたんだし。高校を出て海外に行っちゃったけど」
ポチに尋ねたい事もあったが、音葉は眞由の話に耳を傾けることを優先した。それが音葉なりの誠意だった。
「昔からの親友だったし。ずっといつまでも一緒にいられるってそう思ってた。でもあの子はあたしに相談もなく海外留学を決めちゃってたんだし」
気にして見る事はしなかったが、眞由の爪には音葉には縁遠いネイルアートが施されていたはずだ。その爪が汚れることも構わず、眞由は土を掘り続ける。
「それで大喧嘩の喧嘩別れ。けど最後に会った時、あたしなら夢を応援してくれると思ってたって言われた。一緒に夢を叶える為に頑張ろうって約束したのに、って」
それは幼い日の約束だったのだろう。
忘れていたとしても誰も責めないような遠い日の約束だったはずだ。それでもそれは眞由の中で蟠りとなっていた。
「あたしはあの子の夢が何だったのかその時まで忘れてたし。昔からお菓子屋さんをやりたいって言ってたのに。おままごとでいつもあたしがお客さんをやってたのに」
きっと、その友人は眞由とは全く違うタイプの人間なのだと音葉は思った。音葉や奏と同じように、或いはそれとも違うような。
だがこうして互いを思い合える二人が本当の親友同士であることは疑いようがない。
「あたしはあたしの夢なんてとっくに忘れて、今も思い出せないままなのに。ずっと夢に向かって真剣に考えていたあの子が眩しくて。それで見送りにも行けなかった」
土を掘り起こす眞由の手が止まる。立ち上がったその手には所々が色褪せたお菓子の箱が掴まれている。
「その後でタイムカプセルのことを思い出して、居ても立ってもいられなくなって探しにきて、それで先輩たちにお願いしたんだし。あたしが忘れてるあたしの夢を見つけるために」
眞由が忘れてしまった夢の入ったタイムカプセル。
チカチカと点滅する街灯の下、腰を下ろして眞由は静かにその蓋を開く。
中に詰まっていたのはいくつかの玩具──おままごとで使う調理器具。親友の方が詰めたものだったか、それを見てもまだ眞由は自分の夢を思い出せない。
手に着いた土を払い、一緒に納められていた二通の手紙の内の一通を取り出す。未来の自分へと宛名された字を見れば、どちらが自分の物かは明白だった。
深呼吸。
此処に記された夢がなんであれ、今更自分は親友へは追いつけない。夢を忘れることなく進み続けていた親友と夢を忘れて好き勝手に生きてきた自分。いつから私たちの距離は離れてしまっていたのか、それを知るのが怖かった。
意を決して手紙を開く眞由を音葉と無言で見守り、ポチも何も言わずに見つめていた。
「……あははっ」
開かれて、一拍の間を置いて。眞由の口から漏れ出たのは笑い声だった。
「あー……あはは……うわなにこれ、はっずいし……らしくないし……似合わないし……」
呆れと恥ずかし混じりの苦笑。
ショックを受けてはいるようだが、絶望や失望とは程遠い感情が漏れていた。
「こんなので先輩たちを巻き込んで申し訳ないし……でも……そっかぁ……あたしもあたしで頑張ってたってことだし」
馬鹿らしそうに笑う眞由に、音葉は依頼が解決したことを悟る。くだらないことだったのかもしれないが、それでも眞由の中にあった蟠りは解けたようだった。
だがやはり人の心の機微には疎いのか、音もなく忍び寄ったポチが背後から手紙を覗き込もうとして、慌てて眞由は手紙を隠してすぐにタイムカプセルの中へと戻した。
「あ、ありがとだし! 満足したし! すぐに埋めなおすし!」
「私相手に恥ずかしがることないじゃないか」
「ポチ相手でも絶対に駄目だし!」
音葉は顔を赤くして逃げるように雑木林へと戻った眞由と、先ほどの呟きから手紙に記されていた眞由の夢が何であるかを察した。
「そういえば鹿賀子さん、恋人がいらっしゃるんでしたよね。どうして恋人ではなく私たちに相談したんですか?」
眞由がさらに顔を赤くなったのを雰囲気で感じ取り、音葉は自分の予想が的中したのを確信する。
赤い顔のまま、恥ずかしさを誤魔化すように眞由が叫ぶ。
「彼氏、爬虫類が大の苦手なんだし!」
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