野槌

依頼Ⅱ④

 キッチン内に瞬時に満ちた醜悪な匂い。言い表す事の出来ない、しかし以前にも一度嗅いだ悪臭が音葉の鼻腔を刺激すると同時。

 前兆と現象が間を置かず、不意に現出した『彼女』に理解が追い付かず、音葉は動揺し、手元を狂わせると戸棚から雪崩のようにレトルト食品のパックが降り注いできた。


「あれからまた随分と深淵を覗くような真似をしているようだね。こうした私とまた出遭ってしまうほどに」

「どう、して……」


 パックの雪崩から手を引いて音葉を救出し、抱き留めたその胸元は人の物ではない毛皮に覆われていた。

 忘れるはずはない。間違えるはずはない。彼女を音葉は知っている。

 けれど音葉の脳内が疑問符に染まる。

 彼女については彼女と出遭ってから真っ先に調べた。奏とも話した。

 彼女が現れる条件は音葉たちでは満たす事は出来ない、そう結論付けていた。

 だが彼女はこうして現れた。何故。

 時間を侵す──一体何の事だと考えて、まさかと行き当たる。

 そんなふざけた理由が通るのか。

 そんな抜け道があっていいのか。

 いくら都市伝説フォーク・ロアに勝る理不尽とはいえ、それが罷り通るものなのか。だってそれは、誰しもが容易く侵す可能性のある『時』だ。

 音葉の視界に映るのは山積みとなったレトルト食品の一番上、手を伸ばしていたお粥のパックに印字された賞味期限だった。


「そうやって目を白黒させて驚いてくれるのなら、ある意味冥利に尽きるかな」


 だが現にこうして彼女は音葉たちの世界へと現出した。

 以前とは違う。音葉自身を補足して、鋭角より。

 そう認識した瞬間、音葉の背に悪寒が走る。恐怖が生まれる。肩を抱く毛に覆われた獣の腕。その腕は音葉という人間を一瞬で終わらせることが出来る力を持つもの。

 かつて『紫の鏡』を貫いた『ティンダロスの猟犬』に音葉は抱かれていた。


「っ、ああっ!」


 恐怖と混乱を押し殺し、音葉は『ティンダロスの猟犬』を突き飛ばした。

 抵抗はなく、あっさりと音葉は解放されてすぐに飛びのいて、そしてレトルト食品の山に躓き、床に腰を強かに打ち付けた。

 どうにか距離を取ろうと後ずさったところで狭いキッチンに逃げ場などない。

 すぐに壁へと行き当たり、どうすることも出来なくなる。

 理由はどうあれ『ティンダロスの猟犬』に補足される事は必定の死を意味する。

 ゆっくりと迫る猟犬の手に、固く目を閉じた。


「……くくっ」


 けれど、その手が音葉に届く事はなかった。

 耐え切れず漏れたような笑い声に、目を開く。

 眼前にまで迫った猟犬の手は、差し出すように開かれていた。


「え……」

「そう怯えないでくれよ。いや、怯えられるのは本懐とも言えるのだけど。こんなこじつけで人を襲うなんて『ミゼーア』の沽券にかかわる」


 悪戯気の含まれた笑みを音葉に向け、差し出した手を振る。

 恐る恐るその手を掴めば強い力で、しかし優しく音葉の体を引いた。


「また遭ってしまったね。人間──久守音葉」


 獣を思わせる縦長の瞳孔を持つ金色の瞳。けれど確かにそこには理性の光が宿っている。

 美しい、と思わず見とれてしまうような魅力に満ちていた。






 ◇                     ◇






 今も熱に魘される奏のそばで、音葉は正座で『ティンダロスの猟犬』と向き合っていた。

 胡坐を掻く猟犬の目の前には湯気を上げる湯飲み。とりあえずと音葉が用意したものだが、『クトゥルフ神話』に語られる神性に対する応対として正しいかどうかは定かではない。


「そう硬くならなくて良い。私は君の眷属ではないが、君もまた私の眷属ではないのだから」

「そう言われましても……」

「それに警戒したところで無意味だ、という程度には君も私たちへの理解は得ていると思うけれど」

「それはそうですけども……」


 だからといって砕けた態度で接せるはずもない。何も知らなかったあの夜と違い、音葉は語られている猟犬の性質を知ってしまっている。

 いくつかの都市伝説フォーク・ロアとの対峙を経験し、それを凌駕する『クトゥルフ神話』の凶悪さをより強く実感してしまっている。

 いくらこうして対話が成り立っているとはいえ、彼女が安全な存在であるとは楽観できない。けれど、それでも音葉にとって彼女は恩人だった。


「あの……あの時はありがとうございました。ええと『ティンダロス』さん、で良いんでしょうか」

「何と呼んでくれても良いさ」


 かつて自身を個体名を持たないと語った彼女を何と呼べば良いか迷うが、それ以外の呼び名が思いつかなかった。


「結果的に君が助かっただけで、私に君を助ける意思があったわけではないから、お礼の言葉は不要だよ」

「それでも私は、あなたに助けてもらいました」

「ふむ。それではどういたしまして、と」


 音葉からの感謝の言葉を受け取った猟犬は器用に獣の両手で湯飲みを掴み、口に運んだ後で改めて口を開く。

 ちなみに舌を使った飲み方ではなかった。


「実を言えばあの後も君の事は時折見ていた、と言っても監視していたわけじゃない。単なる興味、獲物が現れるまでの暇つぶしの類としてだけれど」

「そう、だったんですか」

「気を悪くしたならすまない。これでも中々退屈してる身でね。ただ人の世の移り変わりだけを眺めているのも飽きてしまってるんだ」


 猟犬の新たな生態が明かされたが、音葉からすれば自分が猟犬のターゲットとなっていないのならそれで良かった。

 対抗神話カウンター・ロアが存在しない彼女たち『クトゥルフ神話』に狙われればそれこそ命がいくつあっても足りなかっただろう。


「あのすぐ後の『猿夢』の一件は見事だった。彼女は理知的で探求心に満ちている。初めてでああも効果的に我らを使える人間はそうはいない」

「……はい。奏さんに私は命を救われました」

「そんな彼女が今は毒に冒されている。確かに『野槌』の毒そのものは命を奪うものではないが、貧弱な人間が一週間も高熱に魘され続ければ命に関わる」

「っ……それは」


 タクシーでの移動中、音葉も奏の言葉の真意を確かめる為に『ツチノコ』について検索していた。

 奏の現状が当てはまるのは『ツチノコ』が吐き出すという毒霧。それを吸ったものは一週間寝込み続けた、という都市伝説フォーク・ロア

 確かに命を失ったとは記されていなかった。だが猟犬の言う通り、このまま一週間、高熱のまま寝込み続ければ奏の体力が持たない。最悪の想像はずっと頭を過ぎっていた。


「既に体内に入り込んだ毒を取り除く事は出来ない。彼女を救う方法はただ一つ。毒の原因である『野槌』を退治することだけだ」

「でもどうやってっ、『ツチノコ』……あなたの呼ぶところの『野槌』には退治する為の対抗神話カウンター・ロアは存在しないのに……」

「退治できない都市伝説フォーク・ロアを滅ぼす神話がある事を忘れたかい? 君は一番最初にそれを目の当たりにしているはずだが」


 猟犬の言葉に音葉は顔を上げる。

 だが頼ってしまっていいのか。奏が『猿夢』退治に利用したという『ヒュプノス』とは違う。目の前の猟犬ははっきりとした自我を持っている。現象として利用するのとは違うのに。


「我らはあらゆる神話体系に対して絶対的優位性を持つ存在。神話からあぶれた都市伝説フォーク・ロアに対する優位性など、その片鱗にすぎない。君の考える通り、人の手に余る存在だ。だがそれでも人は我らを求める。神として、力として。それは愚かだが、しかしそれが愛おしい……我が父はそう考えているようだ」

「父……? それはあなたたちの物語を生み出した作家、ラヴクラフトの事ですか?」


 ハワード・フィリップス・ラヴクラフト。

 彼女たち『クトゥルフ神話』の創設者。やはり奏が『怪人アンサー』という都市伝説フォーク・ロアを生み出したのと同じように、神話を生み出し、全世界へと発信、伝播させた彼の事を猟犬も父として認識しているのか。

 しかし猟犬は首を横に振った。


「彼も父ではあるが、今のは彼の神話の中での私の父の話さ。人の形を取り、肉欲の教会を営む我が父は人を好ましく思っていてね」

「『ティンダロスの猟犬』の父……それはたしか」


 女神でありながら男神としての性質も併せ持つ『クトゥルフ神話』の中でも最上級に近い神性。その名を口にする前に猟犬は頷き、肯定を返した。


「父の影響で私たちもこうして人に近い形を取り、思考を持つに至った。だから君の前にこじつけめいた理由で現れた。目的と本懐を果たすためにね」

「本懐、ですか?」

「人によって編まれ、神によって形を与えられた我らはあらゆる神話を淘汰する。その為に存在する。その本懐を果たすのが今である必要はないが、それでも今なのは私の意思だ。──君が望むのなら、私は彼女を救う力となろう」


 再び差し伸べられる獣の手。

 最も親しく、最も大切な恩人にして友人を救う為ならば。音葉はその手を取る事に迷いを見せなかった。


「ただいま戻りましたうわぎゃめっちゃもふもふの人いるー!?」

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