依頼Ⅱ③

 これまで奏が聞いた事もないような雄々しい掛け声と共に振るわれた音葉の網は、しかし枯れ葉の下を進む何者かを捕らえることは叶わない。

 目に見えるスピードから目にも止まらぬ速度へと加速し、枯れ葉を巻き上げて目標は網を回避していた。

 だがそれにより枯れ葉の下に埋もれていたその巨大な体躯が音葉たちの前に晒される。


「ぎゃあデカいいいい!」


 顔を顰めながらも奏は背後の眞由の悲鳴の声量を責める気にはなれなかった。

 全長は一メートルない。腹部が横に太く伸びたずんぐりむっくりとした体型は人の赤子程度なら簡単に飲み込めるだろうという説得力に満ちている。エキゾチック・アニマルを特別不得意としているわけでもない奏でもその巨躯には不安と怖気を覚えた。


「……旗色が悪そうです」

「まあ割と想定内ではあるけどね」


  『ツチノコ』はUMAであって心霊、オカルトの類にカテゴライズしていなかった奏にとって『ツチノコ』との遭遇はそれほど期待していなかった。だがこうして未知との遭遇を果たした以上はこれまでの都市伝説群同様、そういうものとして実在していることは認める他ない。

 そして、もしも相対することになったならホームセンターで揃えた程度の装備ではどうにもならないとは思っていた。


「見た感じ警戒はしてるけど好んで人を襲うようにも見えないし、やり過ごす方が賢明だと思うよ。賞金は残念だけどさ」

「……学費が……」


 目に見えて落ち込みながらも、音葉は素直に退く事を選択した。

 視線を『ツチノコ』から逸らさないまま──警戒からであり決して未練がましさではない──ゆっくりと歩道へと後退し、奏もそれに続く。『ツチノコ』は音葉たち三人をじっと見つめていたが、それ以上近づいてくることもなく、やがてくるりと反転し、枯れ葉の下に体を隠して林の中に消えていった。


「うええっ! また! また見ちゃったよおおお!」

「うっさいな。怪我もないんだから別にいいだろ」

「まあまあ。でも何事もなくてよかったです」


 眞由を宥めつつ、残念そうに『ツチノコ』が消えた林の向こうを見つめる音葉だったが、流石に追いかけるつもりはないようだった。


「もう少し時間を置いたらタイムカプセル探しを再開しましょう」

「ううっ、絶対、絶対! そばにいてくださいよ!?」

「ええ、勿論です──」


 そんな時、泣きわめいたまましがみ付く眞由ごと、奏が音葉を突き飛ばした。


 しゅるしゅる。


 眞由の子守に嫌気が差した、わけではない。二人が気付かない内に忍び寄っていた影に奏だけが唯一気付けたのだ。


「もう一匹!? UMAの安売りしすぎだろ!」

「奏さん!」


 林の中からではなく、歩道を悠々と音もなく進み、寸前にまで這いよったのは紛れもなく『ツチノコ』。

 いくら目にも止まらない速度で移動するとしても動きが早すぎる。間違いなく先ほどのとは別個体だ。

 突き飛ばされ、尻もちをつきながらも距離を取れた二人と違い、奏と『ツチノコ』の距離は目と鼻の先。しかも『ツチノコ』の目は完全に奏へと向けられ、体は放たれる直前の弓のように引き絞られた、明確な攻撃姿勢。


「こッ、の!」


 それでも先に動いたのは奏の方だった。捕獲の為ではなく、単純な棒として網を振り下ろし『ツチノコ』を追い払おうと攻撃を加えていた。

 しかし、網は『ツチノコ』を捉えることなく地面を叩いただけ。振り下ろされた網と入れ替わるように『ツチノコ』は奏に向かって跳んだ。


「ッ!」

「先輩!?」


 喉笛を狙ったその毒牙は辛うじて反射的に割り込ませた右腕に阻まれた。ツナギ特有の厚い生地は『ツチノコ』の牙も通さない。捕獲道具はともかく、防備を整えていたおかげだった。


「あーもうっ、備えあればなんとやらって本当みたいだね……!」


 奏はぎちぎちと生地越しに『ツチノコ』の顎がさらに力を増して牙を突き立てようとするのを感じ、半信半疑のままの備えが功を奏した事に悪態と

 共に安堵の溜息を零す。

 それでも長くは持ちそうはないと腕を振って『ツチノコ』を振り払おうとするが通常の蛇と同様の性質を持つのか、一度捉えた獲物をそう易々とは放してはくれない。


「奏さん!」

「うぇえ!? あーやだやだやだぁ!」


 奏を助けようと『ツチノコ』の胴体を掴んだ音葉に遅れて、眞由も泣きそうな声を上げながらも続いた。その体と比べて尻尾は細く短いが、二人の腕を叩く尾の衝撃はそれなり以上のもの。痣になるのは覚悟しなければならないだろう。


「鹿賀子さんっ、息を合わせて!」

「うぇい! いっせーのー……!」

「せっ!」


 鱗に覆われた全身が筋肉の蛇の体表に指を食い込ませ、二人は同時に力の限りに『ツチノコ』の体を引っ張り、奏もまた反対方向へと腕を強引に引く。

 ぶちぶちとツナギがちぎれる音を立てつつも、ついに『ツチノコ』は奏から離れる。再びその牙に穿たれることがないようにと勢いをそのままに二人は『ツチノコ』を後方へと力任せに投げ捨てようとして、その刹那。


「っ──!?」


 顎から外れてもなお奏から瞳を逸らすことのなかった『ツチノコ』の牙から何かが噴出された。

 無風であったが故にその何かは音葉たちに流れることはなく、奏ただ一人に降りかかる。

 そして音葉たちに投げ捨てられた『ツチノコ』は威嚇音を上げながらもすさまじい速度で最初の一匹と同じ林の向こうへと消えていった。


「ふぅ……ふぅ……っ」

「うええあっ! 触った! 握った! ぐにぐにしてたぁ!」


 眞由は泣き叫ぶが、どうにか危機は脱したようだと音葉は息を切らして地面に膝をついた。

 原始的で本能的、生物的な『ツチノコ』の襲撃は、今までとはまた異なる危機感と恐怖との戦いだった。


「はぁ……無事ですか、奏さん?」

「んー……うん、まあね」

「奏さん?」


 奏らしくない曖昧な返答にどこか怪我をしたのかと振り向いて、すぐに音葉は異変を察知する。

 元から病的に白い肌を持つ奏だったが、その額には大粒の汗が浮かび、呼吸が浅い。明らかに平時の状態とは違っていた。


「いや大丈夫……大丈夫じゃないけど、命に関わるようなあれではないから、うん、結果的に大丈夫だよ」

「まさか噛まれたんですか!?」


 ついには耐えきれず膝を折った奏に膝を擦りながら傍に寄ってその肩を支える。

 右手で握った奏の手は異常なほどに温かかった。音葉を見上げる目の焦点も合っていない。


「熱っ……! もしかして毒で……!?」

「外傷はないよ……この格好のおかげでね……ただ……『ツチノコ』の都市伝説フォーク・ロアの中には……毒霧を、吐く……ってのがあって……それだね……」


 額に手を当てればそこから伝わるのは尋常ではない高熱。間違いなく命に関わるレベルのものだった。


「っ、か、鹿賀子さん! 119番! 救急車を!」

「え、あっ、はい!」

「あー……いいよいいよ……一週間寝込むだけだから、病院に行っても意味ないし……余計な騒ぎになるだけ……説明も出来ないし……それより家まで連れてってほしいかな……」


 うわ言めいた奏の訴えに音葉は悩みながらも振り絞るような声で分かりました、と頷いた。

 その頷きを見届けて目を閉じた奏を抱きかかえ、音葉は俯いて唇を噛んだ。






 ◇                     ◇






「本当に病院じゃなくていいのかい?」

「はい。休めば良くなるはずですから……」

「危ないって思ったらすぐ救急車呼ぶんだよ? タクシーよりも早く来てくれるだろうから」


 奏のマンションの前までタクシーで移動し、奏を背負いながら音葉は低い声で言って、運転手に頭を下げた。

 運転手は最後まで心配そうに既に背を向けた音葉を眺めていたが、それ以上は何も言わず、車を発進させる。

 走り去るタクシーを見送って眞由もすぐに音葉を追いかけ、意識を失っている奏を覗き込んだ。


「せ、先輩、本当に大丈夫なんだし……?」

「奏さん自身が命に関わるものではないと言った以上、それは事実のはずです。今はとにかく部屋に運んで休ませないと……鹿賀子さん、エレベーターを呼んでおいてくれますか」

「分かったし!」


 予想もしていなかった事態に焦りと怯えを見せる眞由を安心させるように優しく言いながらも、音葉の内心もまた焦りと怯え、そして怒りで満ちていた。


(どこかで気を抜いていたのかもしれない……『猿夢』や『こっくりさん』の時と同じ、奏さんが一緒なら大丈夫だと。大師が関わっていないのなら猶更、危険性は少ない、そんな風に思っていたのかもしれない)


 連日、音葉に襲い掛かった都市伝説フォーク・ロアの脅威。その悉くを乗り越える中で感覚が麻痺し始めていた。滅多なことは起こらないと油断があった。そんな自分自身の軽率さが音葉には許せなかった。

 奏の言葉通り、一週間寝込むだけのものだったとして、今も首筋に掛かる苦し気な吐息がなかったことになるわけではない。今の奏の苦しみを取り除けるわけではない。


「……鹿賀子さん、部屋に着いたら買い物を頼んでいいでしょうか。薬は効かないとしても、熱冷ましやスポーツドリンクはあった方がいいでしょうから。奏さんの部屋にはどちらもないと思うので」

「それくらいお安い御用だし! 他にも何か効きが必要そうなの見繕って買ってくる!」

「ありがとうございます。お代は後で払いますので」

「そんなの気にしないでいいし! ……元はと言えばあたしが先輩たちに頼んだせいだし」


 責任を感じていたのは眞由も同様だった。『ツチノコ』を見た、そうは言ったものの半分は見間違いだとも思っていた。それでも不安で奏たちを頼って、まさかこんなことになるとは想像もしていなかった。


 重くなった空気のまま、エレベーターが奏の部屋がある六階へと到着する。

 事前に奏の服から取り出しておいた鍵を使って扉を開け、ワンルームの部屋の隅に敷かれたままとなっていた布団へと奏を寝かせる。服にはびっしょりと汗が滲んでいた。


「ひとまず汗を拭いて着替えさせて、安静出来るようにさせてあげないと……」

「あたしもすぐに行って帰ってくるし! だからその、あたしが言えたことじゃないけど、先輩のこと、よろしくお願いするし」


 布団に寝かされた奏の手を握りながらの眞由の頼みに、音葉は微笑んで頷いたつもりだったが、眞由の表情からして笑えていなかったのだろうと自分に浮かんでいる表情を察した。

 ばたばたと足音を立てて眞由が玄関から飛び出し、室内には奏の荒く細い吐息だけが響く。自らの拳を握りしめたがそれも一瞬。今何をすべきかを間違える事無く、音葉は迅速に看病の準備を始める。

 何処に何があるかおおよそは理解している。ハンドタオルをクローゼットから取り出し、水に濡らして電子レンジで温めながら、寝苦しくならないように着替えの寝間着を上下揃えておく。

 加湿器とエアコンを作動させ、少しでも楽になれる環境を整えた後で、意識を失っている奏に一言断ってその服に手を掛けた。

 細く白い手足。同い年とは思えないほどに幼い身体。そんな奏にこれまで頼りきりだった自分が嫌になった。

 温めた濡れタオルで丁寧に体を拭いて、その体温の高さに不安が加速する。大丈夫、奏を信じろと言い聞かせ、下着を脱がせて全身を拭き終えると用意した寝間着に袖を通させる。

 苦しそうな奏を動かすのは心が痛んだが、このままでは治るものも治らないかもしれない。着替えさせた後、叶うならこのままずっと隣で手を握っていたかった。けれどそれで容体が好転するわけではない。

 きっと奏の事だ。朝食は抜いているだろう。体力の消耗が激しい高熱ではそれも命取りになる。意識が戻ったらすぐに何かを食べてもらえるようにとキッチンに向かう事にした。

 レトルト食品で溢れている事は知っていたが、キッチン上部の戸棚の奥に病人でも食べられるようなお粥のパックも揃っている事に安心する。

 それを手に取った時、奏と音葉、二人しかいないはずの部屋に招かれざる客の声が発せられた。


「君がそれを手に取り、あまつさえ食すとするならそれは即ち『時間』を侵すという事。あまり賢い行いとは言えないな」


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