第30話 転移

「寝てる暇はなくなったぞコーエン!」


 ようやく上体を起こそうかというアイナ。目の前の鬼は彼女にじろりと一瞥をくれながら上腕に刺さったナイフを引っこ抜き自分の得物に変える。そしてその腕の刺し傷は小さな赤い蒸気を上げながらみるみる塞がっていった。


「傷が治ってる……?」


「ジェリスヒルがああああ!」烈火のごとく気合を上げナイフを逆手にして飛び掛かってくる。


「直情径行。羨ましいぜ角付き」言葉を投げながら切り付けをカタナで合わせ弾いた。


 この手の賊の末端に話し合いなぞ通用しない。法も地位も金すらも敵。暴力が自己をこの世界で成立させるただ1つの手段。ならば叩きのめして実力の上下を証明するのが最短かつ最善の解法となる。


 ヨカゼはそう内心で断じると続けて放たれた強烈な上段回し蹴りを左腕でいなし、返しで右から横に薙いだ。だがそれを今度は鬼がナイフで受け止め、ぎゃりぎゃりとカタナの刀身に刃を走らせながら密着するのではという位置まで距離を詰める。


 そして狭所の利点を生かしカタナの間合いを潰そうと鬼は零距離から数発の突き、肘鉄に膝蹴り。その乱暴な唸り声とは対照的に実に器用に連打を繰り出していく。襲撃から後手を取り続けているヨカゼだったが、彼もまたその連打を巧みに捌き有効打は与えない。互いに攻めが肌を掠め、身に付けた衣服を裂く目まぐるしい攻防が続いた。


 アイナはやっと立ち上がり、発見したテスタメントの杖を腰に差しレイピア構える。だがこの6、7秒ほどの2人の応酬は自分の技量を明らかに超えた段階の戦いと飲み込まざるを得なかった。


 彼は10秒と言った。もう――。


 すっかり全体を光が包み込もうとする物置部屋から脱する時間は既に無く、アイナは次の状況に対し心身を備えた。


**


 2本角の鬼・ミョウキは走っていた。

 相棒・ゼンキの吠える声と館から漏れた光。明らかに敵と出くわし、脱出用の『転移のパネル』を使用した形跡。木版を割るだけで使用でき、別の場所に空間転移できる虎の子の魔道具をゼンキは使ったはずだ。


 なのに転移先のはずだった自身が握りしめていた木造のトーテムは作動しない。光はとっくに消え失せ館からは何の気配もしなくなった。


 ――バカゼンキ!きっとまた余計な物まで総取りしようとしたんだ!いつもアタシを遠ざけて1人でバカやって!


 自分のところに戻ると言って潜入した相棒に1杯食わされ、戦場から取り残されたことに気付いた鬼の女は思い当たる転移先へ急ぐ。


 森は深く、少し走ると生い茂る高樹の葉で日光は遮られ薄暗い鬱蒼とした雰囲気が漂う。文明から離れた自然は社会構造にうまく溶け込めないはみ出し者を拒絶はしないが、同時に弱肉強食の本能的な振る舞いを押し付けられ道なきを道を駆け抜けねばならない。


 だが自分にとってもここは庭だ。館から転移できる距離で刑軍相手にアイツが有利に戦おうとしたら1か所しかない。彼女には確信があった。


――絶対に『綱取りの泉』にいる。ゼンキはあそこで喧嘩して負けたことないから。


 鬼の女の脚力もまた強靭で、ぼろい草履が悲鳴を上げるのではと思うほど強く土を踏む。大岩を足場に真横にかっ飛び、枯れた細木など薙ぎ倒し館の裏手にある森林を突き進んでいた。白い仮面の裏からはぜえぜえと息が漏れる。


「あんな杖のせいで!本当は盗賊だってやんなくてよかったし戦う必要もなかったのに!」

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