6話


「慧!」


 廊下を歩いていると、健介に声を掛けられた。彼は満面の笑みを浮かべ、小走りに駆けてくる。


「どうかしたの?」


 夏休みが明けてから、二週間が経とうとしていた。


 長かった夏休み。めまぐるしく環境が変化したが、ようやくいつもの日常を取り戻しつつあった。


 美緒に振られて落ち込んでいる慧を、健介や夕貴、ななはいつも気に掛けてくれていた。初めはそれが重苦しく感じたが、徐々に彼らの優しさと温もりに触れ、嵐のようにすさんでいた心も穏やかになっていた。


「どうかしたのか? それはこっちのセリフだぞ。お前、最近元気あるみたいだな」


「何の話?」


「まあ、元気があるのは良いことなんだけどさ」


 健介の話が見えない。トイレで一緒に用をたした慧は、廊下に出ると窓の外を眺めながら話を始めた。


 窓の外には、大きなグラウンドが見える。その向こうには、プールが見えた。プールサイドに立った生徒達が、準備運動をしている。


「そう言えば、俺たちも午後は水泳の授業だったよな」


「…………うん」


 慧はあまり運動が得意ではない。特に、水泳は苦手だ。健介の言葉を聞き、慧は晴れ晴れとした気分がすぐに憂鬱になった。


「っと、そんな事はどうでも良いんだ。なあなあ、俺、部活帰りに見たんだけどさ、お前、図書委員の……」


 健介は、綿菓子のような雲が浮かぶ青空を見上げた。右人差し指をあげ、リズムを取る。何かを思いだしているかのようだ。


 慧は小さくため息をつきながら、健介の探している名前を口にした。


「上倉栞さん?」


「そう! 上倉! 上倉だよ! お前、一緒に帰っていたじゃん! なに? 付き合ってるの? 好き合ってるの?」


「そんな事ないよ」


 がっついてくる健介に、慧はすげなく答える。


「ただの友達。最後まで図書室にいることが多いから。一緒に帰ってるだけだよ」


「良い雰囲気だったけど?」


 健介は嬉しそうだ。きっと、慧の気持ちが美緒から離れてくれた事が嬉しいのだろう。昔の恋を忘れるには、新しい恋を見つけるしかない。健介は、美緒を忘れて他の女性に気を向けた慧を喜んでいるのだ。


「…………そんなのじゃないよ」


 しかし、慧には一切そんな気持ちはない。美緒を忘れる事は、まだできない。それに、あんな悲惨な終わり方をしたのだ。正直、恋愛は当分良いとさえ思ってしまう。


「…………そうか。そうか…………」


 健介は残念そうに唇を尖らせる。彼の目は、プールに向けられていた。


「午後は、確か合同の体育だったよな。女子の水着を見られるまたとないチャンスだ。しっかりこの目に焼き付けようぜ」


 ニヤリと笑う健介に、慧は「そんな気分じゃないよ」と答えた。


 苦手なプールの授業。普段は、男女別々に体育の授業をおこなっている。女子と男子が別れ、二クラスが一つになって授業を受けている。しかし、今日は特別に男女ともにプールの授業だ。


 夏休み前は、男子がプールの授業の時は、女子は外や体育館で運動をおこない。女子がプールの時は、男子が別の場所で授業をおこなっていた。今日は水泳の試験という事もあって、男女ともにプールサイドに立っていた。


「こら! よそ見はするな」


 プールを中央に、男子が東側、女子が西側のプールサイドにいる。


 緊張のあまり、あまり昼食が喉を通らなかった慧は、小さくジャンプをして強ばった筋肉の緊張を解した。


「いよいよだな。燃えるぜ」


 スポーツ万能の健介は、こういうことになると熱くなる。女子に良い格好を見せる、というわけではなく、スポーツに対しては全力で取り組むのが彼のモットーなのだろう。


「僕は、恥をかかないように頑張る」


 慧はなんとなく視線を正面に向けた。そこには、プールサイドに立つ美緒の姿があった。遠くて、彼女が何処を見ているのか分からない。だが、何故か美緒と視線があった気がした。


「綺麗だな……」


 ポツリと、慧は呟いた。


 競泳水着を身につけた美緒の体は、引き締まっていた。スラリと伸びた手足に、引き締まった腰。胸元は大きく、シルエットがくっきりと浮かび上がっている。


「ん?」


 健介の声に、慧はすぐに視線を美緒から外した。そして、次に慧の視線が捕らえたのは、栞だった。栞は、美緒の斜め後ろに立っていた。


 彼女も痩せていたが、美緒と比べると全てがスケールダウンしているように思える。まだ、成長途中の女性の体。それが、栞だった。彼女は恥ずかしそうに俯いており、手で胸元を隠すようにしていた。


「慧、始まるぞ」


 健介が腕を伸ばしながら、飛び込み台へ向かう。


 二本の練習をして、三本目でタイムを競う。一度で男子三人、女子三人が泳ぐ。練習を終えた慧は、名簿順に並ぶ。


 笛と飛び込みの音を聞きながら、慧は不安そうに前方を見つめていた。


「佐藤君……」


 その時、右から声を掛けられた。見ると、栞がいた。彼女は恥ずかしそうに笑うと、「頑張ろうね」とガッツポーズをしてくれた。


「う、うん……」


 頑張る。確かに頑張るが、慧は練習でも散々だった。不格好ながらも、二五メートルを何とか泳ぐことができた。その程度なのだ。泳ぎ方、タイムなど、二の次だ。足を突かずに泳ぎ切ることが、慧の中での目標だった。


「…………」


 栞の横には、美緒がいた。彼女は、腕を胸の前でくんで、硬い表情で前方を見つめていた。何が何でも、こちらを見ない。そんな強い意志が見て取れる。慧も、すぐに視界から美緒を消し、栞を中心に捕らえた。


「上倉さんも、頑張ろうね……」


「うん」


 ピィッ!


 笛が吹かれた。慧達の番だ。


「慧! 頑張れ!」


 慧よりも後にいる健介が、声を張り上げる。


 飛び込み台の上に乗った慧は、応える事はできない。小さく頷くと、身をかがめた。


 一レーンから三レーンが男子。慧は三レーンで、四レーンが栞で、五レーンが美緒だ。


 栞と美緒がすぐ近くに居る。普段の慧ならば、気を取られただろうが、キラキラと揺れる水面を前にして、慧はそんな事を気にする余裕はなかった。


 泳がなければ。恥をかかないように。恥をかかないように……。


 ピィッ!


 笛が鳴った。左右の人達が一斉に飛び込む。一拍送れて、慧も飛び込んだ。もちろん、綺麗に飛び込めるはずがない。手足を丸めたその姿は、落ちた、墜落と言っても良いだろう。


 激しく水を撒き散らし、慧は泳ぎ出す。


 必死に手足を動かし、タイミング良く息を吸う。だが、口に水が入り、それが気管に入ってしまう。一気に噎せ返り、足を突きそうになるが、慧は我慢して手を回転させ、足を動かした。


(失敗した……! 苦しい……!)


 慧は泳ぎながら左側を見た。慧の視線の先には、誰もいない。僅かに顔を上げると、前方に栞と美緒が水をかく様が見えた。


 二人に負けている。慧は必死に泳いだ。何故だろう。彼女達の前で、惨めな姿だけは見せたくなかった。


 必死に息をして、水を掻く。そして、最後の力を振り絞って手を伸ばした時、指先に硬いものが当たった。ゴールだ。


 二五メートルを泳ぎ切った慧は、プールサイドに手を掛けると、噎せ返った。激しく咳をして、気管に入った水を排出する。


「佐藤君、大丈夫?」


 その時、背中を叩いてくれる手があった。栞は心配そうに慧の背中を叩いてくれた。


「ありがとう、上倉さん」


 栞を振り返った時、栞の背後で心配そうにこちらを見ている美緒と目が合った。彼女はすぐに視線を逸らすと、唇を噛んでプールから上がってしまった。


「凄いね、頑張ったね、佐藤君」


 栞の言葉に笑いながら、慧は視界の隅で、悲しそうに顔を伏せる美緒を追っていた。


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