5話
冷房の効いた図書室は、静かだった。
濃かった青空も徐々に薄まり、西の空は茜色に染まりつつある。
慧は参考書を広げ、一人勉強をしていた。
こうしてテキストと向かい合っていると、雑多な考えが消えていく。目の前に集中すること。美緒を忘れる事。そうする事が、一番安定していた。
規則正しく並んだ数式を見つめていると、気分がすっきりしてくる。勉強していておかしいかも知れないが、今の慧には、それが一番の薬だった。
これこそが、慧の日常だ。
図書館で勉強をして、塾に行く。休日には、読書をして時間を潰す。それが日常だ。美緒と過ごした数週間は、慧にとってイレギュラーな事だった。
慧は一心不乱にテキストを解き明かしていく。
「…………あの」
声が振ってきた。
「あっ、上倉さん……」
集中してい気がつかなかった。栞は、慧の横に立ち、こちらのテキストを覗き込んでいた。
「もう、時間だけど、閉めて大丈夫かな?」
「えっ」
周囲を見渡すが、図書室にいるのは慧と栞だけだった。
「ゴメン、すぐに出て行くよ」
「うん……」
慧は参考書を本棚にしまうと、鞄に筆記具とノートを詰め込んだ。
「あの、佐藤君」
戸締まりを終えた栞が、慧の元へ来る。
「どうしたの?」
「あの……その……、もし良かったら、一緒に帰らない?」
思いがけない申し出だった。
「えっ? ああ、うん、良いよ」
「良かった。じゃあ、一緒に帰ろう。職員室に寄って、鍵を返してくるから……。玄関で待っていて」
慧と一緒に廊下へ出た栞は、図書室のドアを施錠し、確認する。そして、小走りに職員室へ駆けていった。
「…………」
薄暗い廊下へ消えていく栞を見送った慧は、階段を下りて生徒玄関へ向かう。そう言えば、美緒はこの階段を上っていった。一体、彼女は克巳と何をしていたのだろうか。
美緒の事を考えそうになり、慧は足を止めて頭を振った。
「もう関係ないじゃ無いか……。全部演技だったんだから……」
スワロフスキーのカチューシャは高かったが、良い勉強代だったと思えば良い。
慧は足取り軽く、階段を下りた。靴を履き替え、玄関を出たところで栞を待つ。
時刻は七時になろうとしている。図書室を閉める時間はとっくに過ぎている。きっと、栞は慧のために時間を延長していたのだろう。
「佐藤君、お待たせ」
息を切らせながら、栞が玄関から出てきた。
「うん。ゴメン、もしかすると、僕のせいで遅くなっちゃった?」
「大丈夫。佐藤君はバス通学だっけ?」
「上倉さんは?」
「私は自転車なんだ」
慧は栞の後に続いて駐輪場へ向かう。普段は沢山の自転車が止まっている駐輪場だったが、今は数台の自転車が止まっているだけだ。普段あるものが欠けている。日の暮れた駐輪場に立っているだけで、不思議と物寂しさを感じてしまう。
「どうしたの?」
「え? いいや……」
やはり、感傷的になっているのだろう。どんな景色を見ても、慧の心は満たされない。全てが虚無で灰色に見えてしまう。
「じゃ、帰ろうか」
慧は栞と一緒に歩き出した。
歩く。ただそれだけだ。お互いに、何を話して良いのか分からない。栞とは、一年の時に同じクラスだったが、あまり話したことがない。図書委員だと言うことは知っていたが、それ以外の事は知らない。
那由多や健介ならば、こんな時は気の利いた言葉で場を和ませるのだろう。だが、元々引っ込み思案な慧には、そんなスキルはない。何を話せば良いのだ。最近の流行か、それとも、自分の事か。それとも、学校の事か。栞の好みが全く分からない。
歩きながら、慧は何一つ話すことができない。ただ、時間と景色が過ぎていくだけだ。
「最近、よく図書室に来るね」
痺れを切らしたのか、自転車を押している栞が言った。
「う、うん……」
慧は頷く。せっかく、栞が話を振ってくれたのだ。話をしなければいけない。
「暇になった、から……」
「暇に? 前から来てなかった?」
栞の言葉に、慧は「そうだけど」と言葉を濁した。
確かに、図書室には以前から通っていた。しかし、美緒と付き合い初めてからは、なかなか行く時間が作れなかった。いいや、図書室で勉強をするよりも、美緒と一緒に居る方が楽しかったのだ。
交差点に差し掛かった。そろそろ、栞と別れる場所だ。
「…………別れたんでしょう?」
栞が足を止めた。
「え?」
慧は街灯の下で足を止めた。栞は、街灯の明かりが届かない、ギリギリの距離で止まっていた。うっすらと、彼女の顔が見えるが、少し俯いているため、どんな表情を浮かべているのか分からない。
「私、良かったと思う。佐藤君には、あんな子は似合わない」
「…………あんな子って…………」
慧は反論をしようとした。だが、反論をするだけの言葉が出てこない。確かに、美緒は『あんな子』呼ばわりされる様な女の子だった。
「…………ゴメン。私、ずっと前から知っていたの。鹿島さんが、罰ゲームで佐藤君と付き合っていることに」
「え? どういうこと?」
「私、図書委員だか、あのとき、佐藤君が告白された時、第二図書室にいたの」
「そうだったんだ……。僕、全然気がつかなかったよ」
「あの後……。佐藤君が帰った後、鹿島さん達は大はしゃぎをしていたわ。聞く気はなかったんだけれど、聞こえちゃって……。だから、ご免なさい!」
栞は深々と頭を下げた。
「ちょっと、上倉さん! 止めてよ、どうしたのさ!」
慧は街灯の下から出て、頭を下げる栞の肩を持った。震えていた。栞の肩は、細かく震えていた。
「辛かったよね……。悲しかったよね……。佐藤君、本当に鹿島さんの事、好きだったんだものね……」
泣いていた。栞は、涙を流していた。流れ落ちた涙が、眼鏡に溜まるほどに。
「お願いだから、頭を上げてよ。上倉さんは、何も悪くない」
「私は、佐藤君に本当の事を教える事ができたの……。でも、言えなかった……」
「そんな、気にしていないよ……」
「でも……」
「僕はもう大丈夫だから。ほら、泣かないでよ」
慧はポケットからハンカチを取り出した。そして、そのハンカチが使われてヨレヨレになっていることに気がついた。だけれど、そんな事を気に留める様子もなく、栞はハンカチを受け取ると、涙を拭いた。
「ありがとう、優しいんだね、佐藤君は」
「そんな事、ないよ……」
眼鏡を外した栞は、流れる涙を拭いた。
その時、聞き慣れたブレーキ音が背中に聞こえた。
「バス、来ちゃった。さよなら、またね」
栞が差し出したハンカチを受け取った慧は、マジマジと栞を見つめた。
美緒と比べると、地味な印象を受ける栞だ。大人びた美緒とは違い、年相応の女子高生だ。はにかんだ笑顔は、とても可愛かった。
「うん。またね。また、今度一緒に帰ろうよ」
珍しく慧から誘った。それは、自然な流れから生まれた言葉だった。
「楽しみにしてるね」
小さく手を振る栞に、笑いながら、慧は小走りにバスに飛び乗った。栞は、バスが発車するまで、慧に向かって手を振り続けていた。慧も、窓から栞に向かって手を振った。
一つの別れがあり、一つの出会いがある。今日の出来事は、慧にとって大きな転換点となった。
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