3話
学校生活は、驚くほど平和に過ぎていった。
たまに、美緒と視線を合わせる時があったが、彼女はすぐにふいっと視線をそらせてしまう。あれから、美緒は克巳などのグループと付き合う事を止めたようだ。昼食も、帰りも、美緒はいつも一人だった。
美緒とは、あれ以降話をしていない。だけれど、彼女の寂しそうな顔を見ると、心が締め付けられるように辛かった。
彼女の、本当の心は何処にあったのか。気になるが、今(いま)更(さら)、美緒から聞き出す必要はないだろう。彼女の本心がどうであれ、もう終わったことで、関係が修復する事などないのだから。
ホームルームが終わると、美緒はすぐに席を立ち、真っ先に教室から出て行く。
慧は少し時間をおいてから、バッグを持って立ち上がる。もう関係ないはずなのだが、不思議と、美緒との接触は避けていた。できるだけ彼女と顔を合わせないよう、下校時間をずらしていた。
まだ、学期が始まったばかりだ。テストまでは時間もあるし、久しぶりに、図書室に行って読書でもしようか。
慧が廊下を歩いていると、不意に背後から声を掛けられた。
「慧!」
足を止め振り返ると、夕貴が満面の笑みを浮かべて走り寄ってきた。
「帰るの? 一緒に帰ろうよ」
「いや……」
慧は夕貴を見る。相変わらず、夕貴はニコニコ笑っている。
「振られたばかりで寂しいでしょう? ほら、私が慰めてあげるよ? ファミレスで、スイーツでも食べようよ」
ニヤニヤと、夕貴は笑う。長い付き合いの夕貴は、自分なりに慧を慰めようとしているのだろう。
「別に平気」
ため息を吐き出しながら、慧は歩き出す。その横を、夕貴は歩く。
「だから、私が言ったのに。あの子は、ヤバいって。結局、傷ついたのは慧なんだからさ」
慧がこっぴどく振られた事は、健介からなな、夕貴に伝えられた。慧は別にそれを咎めることもしなかった。なにも言わなくとも、数日で彼女らの知るところになるだろうから。
「それは、分かってるよ。反省もしてる」
「初めての彼女だからって、浮かれちゃってさ」
「それも分かってる。だから、もう大丈夫だよ」
慧は、少しだけ語気を強める。だが、夕貴は全く意に介さない。
「つれないな~。幼馴染みが、せっかく励ましてやろうと思ってるのにさ」
「健介にも感謝してる。夕貴にも」
あれから、健介と夕貴、ななが事あるごとに連絡をくれる。その度に、慧は支えられていると感じるし、感謝もしている。
「だけど、もう大丈夫だよ。問題ないから、帰ってバイトでも行きなよ」
「あっ、そういう態度? バイト先の女の子、紹介してやろうと思ってたのに」
「いいよ、大丈夫。必要になったら、お願いするよ」
「ふ~~~ん、まあ、慧が元気なら良いけどさ。正直言うとね、私だって、あの子には相当、頭に来ているんだからね」
「夕貴、早まった事はしないでよ」
慧は、夕貴が短気なのを知っている。一見すると、温厚そうな夕貴だが、彼女は言葉よりも先に手が出るタイプの女性だった。小さい頃、慧は夕貴と喧嘩をした事がある。体が小さい慧は、縦も横も大きかった夕貴に押し倒され、馬乗りにされてボコボコにされた。それも、一度や二度じゃない。
「――――え? あ、いや、もちろんじゃない……!」
「なに、その『間』は?」
パタパタと両手を振る夕貴。明らかに動揺している。
「もしかして、美緒さんに何かしたの?」
「いや……! いやいや! いや……! あっ! バイト行くね! じゃあ!」
「おい! 夕貴!」
文字通り、逃げるようにして夕貴は駆けだした。廊下を曲がると、ジャンプするようにして階段を降りて行ってしまった。
「あいつ……!」
夕貴のことだ。早まった事をしなければ良いが。そんな心配をしながら、慧は図書室へ向かった。
8月が終わり、9月になった。まだ残暑は厳しく、エアコンの効いている教室とは違い、廊下は蒸し暑い。
慧は、窓の外に見える街路樹の緑に目を細めながら、歩く。今日は、いつも通り第二図書室に向かう。勉強をするなら、学習スペースが沢山ある、別棟にある第一図書室だったが、ミステリやファンタジー小説を読むなら、校舎にある第二図書室が一番だった。
「待って、話ってナニ?」
聞き慣れた声に、慧は足を止めた。図書館間近にある、階段の踊り場からだ。慧は、足を止めて二階から三階に繋がる踊り場を見上げた。
息が止まる。
そこには、美緒と克巳がいた。
「良いから!」
克巳は苛立たしそうに言うと、美緒の手を握り、階段を上っていく。
「待って! 痛い……!」
美緒が拒否するが、克巳は強引に美緒を連れて行く。その時、美緒と目が合った。彼女の目が、一瞬揺れた様に思えた。そして、美緒は引き摺られるようにして階段を上って行ってしまった。
大丈夫か? 何かトラブルか?
慧は美緒の後を追おうとした。だが、足が動かなかった。
もう関係ない。行くべきではない。関わるべきではない。
頭の中で、もう一人の自分が警(けい)鐘(しよう)を鳴らす。
だけれど、もし、本当に美緒が困っていたら……。そう思うと、後を追う気持ちが強くなった。
(だけど、もし、これも僕を騙す演技だったら)
一度痛い目を見た慧は、その場から動けなかった。
慧はその場に立ち尽くし、耳をそばだてる。
何も聞こえてこない。聞こえてくるのは、廊下に響く生徒の声だけだ。
どうすれば良いのか、慧は迷った。心が二つに分かれてしまったかのようだ。図書室に行きたい心と、美緒の後を追いたい心。その二つがせめぎ合い、拮抗している。
「あの、佐藤君?」
声を掛けられ、慧はハッとそちらを向いた。金縛りから溶けたように、体が動いた。二つに分かれていた心は一つに戻り、声を掛けてきた女性に向けられた。
「どうしたの? 図書室へ行くの?」
長いお下げを弄りながら、上倉栞が不思議そうな表情を浮かべ、小首を傾げている。眼鏡の奥に見える、大きく透き通った瞳には、困惑した慧の表情が映り込んでいた。
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