2話


 世界がくすんで見えた。


 まるで、見えない糸で心臓を縛られたように、上手く呼吸が出来ない。


 あの後、美緒は貸衣装屋に行き、慧の事を聞いた。慧は、無言で浴衣を脱ぎ捨て、帰ったようだ。店員は、事情を察してか、何も聞かずに美緒の着替えを手伝ってくれた。


「…………」


 濡れた慧の浴衣が、ハンガーに掛かっていた。彼は、どんな表情でここを訪れたのだろうか。


 全部、自分が悪い。分かっている。今更、慧に掛ける言葉も見つからない。だけれど、慧がもし許してくれるなら。


 正面の姿鏡を見ると、甘い考えを浮かべている汚(きたな)らしい女が映っていた。思わず、美緒は自分から顔を背ける。


『本当、都合の良いことばかり考えるのね』


 少女の声が聞こえ、美緒は顔を上げる。


『全部自分が悪いのよ』


 背後に少女が立っている。鏡越しに、少女と視線が交錯する。


「私に、何が出来たの……? だって、もう罰ゲームはないって言ってたから……」


 詩織、克巳、昌利。彼らに、美緒は騙されたのだろう。あのとき、克巳の誘いを断ったから、美緒は切り捨てられたのだ。


 今頃、きっと詩織は三人でセックスをしているのだろうか。もし、一緒になってセックスをしたら、また以前のようになるのだろうか。


『その考え、クズ以下ね』


「五月蠅い! 五月蠅い五月蠅い! 黙って!」


「えっ? すみません……」


 美緒の服を持った店員が固まっていた。美緒はハッとして、「何でもないです」と、頭を下げた。もう一度、姿鏡を見ると、少女の姿は消えていた。


 雨が降りしきる中、美緒は那由多から貰った傘を差して、一人歩いた。頭痛がする。頭の奥が、ズキズキと痛む。


 ゆっくりと呼吸をしながらも、美緒は顔を歪ませた。


「サイアク……」


 駅前のタクシー乗り場は、大渋滞だった。美緒は最後尾に並び、タクシーを待った。


 駅からタクシーを使って、自宅に帰った。タクシーから降りると、駆けるように自宅玄関へ走った。


 相変わらず人気のない家に入り、美緒はリビングに立つ。明かりを付けると、リビングは、朝、出て行ったままの姿で美緒を迎えてくれた。


 痛む頭を振りながら、美緒は服を脱ぎ捨てる。夏だというのに、雨に打たれた体は冷え切っていた。


 シャワーの熱いお湯を浴びながら、美緒は目を閉じた。


 慧は無事、帰っただろうか。最後、慧が浮かべた悲壮な表情が脳裏から離れない。


「慧君……ゴメンね」


 美緒の呟きは、シャワーの音にかき消され、水と一緒に流れていった。




 翌朝、いつも以上に早く目が覚めた。


 少し熱があるのだろうか、調子が悪かった。


 学校を休もうか。そう思ったが、ここで休んだら、もう学校へ行くことが出来なくなる。そう思ってしまった。


 市販薬の風邪薬を飲み、美緒は着替える。


 朝食はいつも取らない。髪を梳(と)かし、少し青白い顔に笑みを浮かべる。引きつった笑みだ。


「行ってきます……」


 誰もいないリビングに声を掛け、美緒は外に出た。強い日差しを受け、美緒はふらりと立ちくらみを覚えた。


 夏特有の、抜けるような高い青空だった。だが、美緒の心は暗く沈んでいた。まるで、厚い雲が立ち籠めているかのようだ。


 小さなため息を吐き出しながら、美緒は歩き出した。


 凧のように、フワフワとしている。少しでも強い風が吹けば、吹き飛ばされてしまいそうだ。風邪で体調が悪いわけではない。心が落ち着かない。まるで、仮想空間の中にいるかのように、世界にリアリティがない。


 どうしてしまったのだろうか。慧と別れた事が、いや、慧についていた嘘がバレた事が、それほどショックだったのだろうか。


 前は、もっとドライな人間だったはずだ。圓治との関係だって、いつ終わっても困らないと思っていたし、詩織達との関係も、長続きはしないと思っていた。だけど、慧との関係だけは、簡単に割り切れなかった。


 本当に、好きだったのだろうか。こんな気持ち、初めてだった。だけれど、もう遅い。時間は戻せないし、言葉や行動は、取り消すことが出来ない。


 人生は一方通行だ。ゲームのようにリセットが効かないし、攻略方法だってありはしない。


 美緒は、きっと悪い選択肢だけを選んで来てしまったのだろう。


 そんな事を考えていると、学校に着いていた。


 廊下で話す同級生達。皆、輝くような笑顔を浮かべている。まるで、自分とは別世界のようだ。


 教室に入ると、まず真っ先に慧の席を見る。彼は、まだ来ていないようだ。何処かホッとしながら、美緒は自分の席に着いた。


 慧は来るだろうか。ショックで寝込んでいるだろうか。美緒は下唇を噛み、机の上で両手を握りしめた。


「おはよう」


 数多くの挨拶が交わされる中、慧の声が聞こえた。


 反射的に、顔がそちらに向こうとする。だけれど、美緒は意識的に正面を見つめた。慧はどんな表情をしているだろうか。怒っているのだろうか、それとも、悲しんでいるのだろうか。


 彼の顔が見たい。声を聞きたい。一言、ゴメンと謝りたい。


 席を立ち、数歩歩くだけでそれが出来る。だが、美緒は動かなかった。動けなかった。上半身と背もたれが鎖で縛られてしまったかのように、美緒の体は椅子から動けなかった。そうこうしている内に、チャイムが鳴り、一日の授業が始まった。




 なんてことはない、今日は一日無事に終わった。特に慧と視線を合わせる事も無く、淡々と時間は過ぎていった。チラリと、彼がトイレに行く時の横顔を見たが、彼の顔色は良く、いつも通りに思えた。


 慧の表情を見て、美緒はホッとしていた。彼が元気な事が、何よりも嬉しかった。たとえ、それが外見だけだとしても、美緒には嬉しかった。


 朝感じていた世界との乖(かい)離(り)も、時間が解決してくれた。校門を出て、強い日差しが照りつける通学路を歩く。


 歩きながら、スマホを手に取る。


 慧からも、克巳や詩織からも連絡はない。


 気がつくと、一人になってしまった。一体、何をどうすれば良かったのだろうか。慧との関係を割り切って、克巳達と楽しめば良かったのか。それとも、慧に全てを話し、関係を再構築すれば良かったのか。


 分からない。どれが正解だったのか、どれが誤りだったのか。もしかすると、どちらも正解ではなかったのかも知れない。


「ハァ……」


 美緒はため息をついた。一体、今日は何度ため息を吐き出しただろう。気がつくと、ため息をしている自分がいた。


「ねえ、ちょっと」


 その時、背後から声が掛けられた。


「なに?」


 振り返ると、茂木夕貴が立っていた。同じ中学だったが、あまり話した事のない相手。確か、慧の幼馴染みだった。そして、美緒の家と比較的近所だ。


「歯、食いしばって」


「え?」


 美緒が確認するよりも早く、夕貴の手が振られた。



 パンッッッッ!



 鋭い痛みを左頬に感じた。美緒の足が折れ、その場に座り込んでしまった。


「何で叩かれたか、言われなくても分かるよね? 本当は、グーで殴ってやりたいけど、今回はそれで許してやるわ」


 フンッと荒い鼻息を出した夕貴は、美緒の脇を歩き去ってしまった。


「いった……、なに、あれ……。アンタには、関係ないじゃない」


 周りを歩いていた生徒が、遠巻きにこちらを見ていた。美緒は舌打ちをすると、何もなかったように立ち上がり、スカートについた砂埃を払い、歩き出した。


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