六章 斜陽 Shade sun

1話


 大きな雨粒が、滝のような流れとなって傘を激しく叩く。

 

 心身共に疲れ切っていた。慧は、死人のような表情で街を歩いていた。


 全てが灰色に見えた。あらゆる音が、遠くから聞こえてくる。


 まるで、夢の中にいるような感覚だった。硬いはずのアスファルトも、どこか頼りなく、不安定に揺れているようだ。


 ポッカリと、胸に大きな穴が空いてしまった。その穴かえら血液が流れ出しているかのように、力が入らない。傘を持つ手も心許なく、力を入れようとしても、力が入っているのか入っていないのか、よく分からない。


 貸衣装屋で濡れた浴衣を脱ぎ捨て、取るものも取りあえず、すぐに帰宅した。店員とのやりとりも、記憶に残っていない。あの場所から、一秒でも早く立ち去りたかった。


 もし、あの場所で美緒と鉢合わせしてしまったら、慧は本当に壊れてしまうかも知れなかった。


 どうやって帰宅したのか、良く覚えていない。きっと、何も考えず、虚ろな眼差しで街を歩いたのだろう。シャワーを浴び、すぐベッドに横になる。


「…………」


 何も言葉が出てこない。何も考えたくない。それなのに、頭の中には美緒が浮かべた悲壮な表情と、克巳の言葉が頭から離れない。


 罰ゲーム


 本当のことなのだろうか。


「本当、なんだろうな……。あの噂も、本当のことなんだ」


 美緒は、慧の知らない男性と寝ていた。そして、お金を貰っていた。土曜日、美緒は必ずと言って良いほど、家族と過ごすと言っていた。それは、嘘だったのだろう。土曜日に、美緒は男性と会って、その度に体を許し、金品を受け取っていた。


「僕は、馬鹿だ……」


 何故、気がつかなかったのだ。分かる場面は、いくらでもあった。美緒に告白され、舞い上がっていた。何ヶ月もの間、慧は熱病のように浮かされ、美緒の本質を見ようとしなかった。


 夕貴にも、健介にも言われた。だけれど、その言葉に耳を貸さなかった。どうして、付き合いの長い親友や幼なじみの言葉を聞かなかったのだ。本来の自分だったら、そんな事は絶対に無かった。


 本当に、美緒の事が好きだったのだろう。だから、慧は誰の言葉にも耳を貸さず、美緒を信じ続けた。


 涙が溢れてくる。


 慧は涙を拭うように、枕に顔を埋めた。


 嗚咽が漏れる。


 胸が重かった。心が痛い。こんなに苦しいことは、初めてだった。体が感じる痛みとは、全く質の違う痛み。体の中心に、『心』という臓器があるかのようだった。


 嘘だったのだろうか……。あの笑顔も、あの手の温もりも、全てが嘘だったのだろうか。


 分からない。何処までが嘘で、何処までが本当だったのか。怖くて美緒に聞けない。もう、美緒の顔も見たくない。全てを忘れたい。良い思い出も、辛い思い出も、全てをリセットして、美緒を知らない自分に戻りたい。


 涙が止まらない。あれほど泣いたはずなのに、涙が溢れだしてくる。


 胃液が込み上げてきた。


 脳裏に美緒の裸体が浮かび上がる。ベッドの上で、彼女は股を開き、見知らぬ男を受け入れている。


 美緒が嬌声を上げる。


 男は美緒にのし掛かり、荒い呼吸をして僅かに開いた唇を吸う。


 いきり立ったペニスが、美緒に突き立てられる。


 美緒は、男性を抱きしめ、その快楽に身を委ねる。


 慧はベッドから転がり落ちると、近くのゴミ箱に顔を突っ込んだ。


 緑色の胃液が吐き出される。涙を流しながら、何度も何度も、慧は吐いた。


 慧の想像だ。


 だけれど、その殆どは現実に起きたことだろう。美緒と見知らぬ男の事を考えるだけで、吐き気が込み上げてくる。


 辛い。こんなにも辛いことは、今までなかった。死んでしまいたい。何も考えず、闇に包まれたい。


 死にたいと思ったことも、初めてだった。


 学校に行きたくない。生きていたくない。考えたくない、何もしたくない……。


 ゴミ箱に胃液を吐きながら、慧は明日の事を考えた。


 明日、美緒はどんな表情をして登校するだろう。こちらを見て笑うか、それとも、告白される前のように、目も合わせず過ごすのだろうか。


 慧は、どうすれば良いのだろう。美緒とは同じクラスだ。前のように、ただのクラスメイトとして接する事さえできない。無視をする、視線を合わせない、向けない。言葉や文字にすれば簡単な事だが、二学期と三学期、実生活でそれを実戦するのは困難だろう。


 喧嘩別れをした、というのなら、まだ以前の様に接することも出来る。だけれど、今回の別れ方は、少し特別だ。いや、実際、これは嘘の恋愛だった。美緒にしてみれば、付き合ってすらいなかったのだろう。


 付き合っていると思い込んでいたのは、慧だけだった。まるで、道化師(ピエロ)だ。美緒や、彼女の友人達には、浮かれている慧がさぞ面白く滑稽に映ったことだろう。


 その時、慧のスマホが鳴った。


 誰からだろう。まさか、美緒からか?


 慧は口の周りについた吐瀉物をティッシュで拭うと、スマホを手にした。ディスプレイは、健介の着信を知らせていた。


 出るか、それとも無視をするか。一瞬、慧は迷った。だが、慧はすぐに通話を押した。気を紛らわせるため、誰かの声が聞きたかった。


「……もしもし?」


 慧は、努めて平静な声で電話に出た。


「慧、大丈夫か?」


 ドキリとした。大丈夫とは、なんの事だ。まさか、健介は美緒との事を知っているのか。


「な、何が?」


 散々吐いたからだろうか、喉が嗄れて上手く声が出せなかった。


「那由多から連絡があった! 慧を支えてくれって……。お前、大丈夫か?」


「那由多君が? 那由多君は、何を言ってた?」


「いや、あいつは何も。ただ、大変な事が起こったから、支えてやってくれって……。何があったんだ?」


 一生分の涙を流したのではないか。慧は散々泣いて、何度も吐いた。それなのに、健介の声を聞いた瞬間、再び涙が溢れてきた。


「…………ッ!」


 嗚咽が漏れ、言葉が出せない。健介は、何も言わなかった。電話口で慧が泣いているのを、黙って聞いていた。どのくらい泣いていただろうか。夜も更けてきた時、慧は泣き止んだ。


「あのね、実は……」


 ポツポツと、慧は事の顛末を話し始めた。美緒の事、神社での事、那由多の事。健介は相づちを打ちながら、静かに話を聞いてくれた。




 不思議と目覚めは良かった。深夜2時頃まで健介と話をしていた。健介は、これと言ったアドバイスも慰めもしなかった。


「そうか、起きてしまったものは仕方ないな。次に切り替えて行こうぜ」


 なんとも気楽で、健介らしい言葉だった。


「そうだね」


 健介の言葉に、慧は笑いながら応えた。


 確かに、彼の言う通りだ。誰がなんと言おうと、もう、美緒との関係は破綻した。だったら、過去を振り返るよりも、未来を見た方が良い。


 美緒にされたことの傷は大きく、慧を苦しめた。恐らく、今後も苦しめる事があるだろう。だが、慧には健介達がいる。こうして健介に話を聞いてもらえただけで、心が軽くなった。


 学校の準備をしながら、慧は鏡の中の自分を見つめた。涙のせいで頬が赤く腫れている。酷い顔だったが、大分マシになっただろう。


 昨夜の雨が嘘のように上がり、雲一つなく晴れ渡った空。慧は空を見上げながら、学校へ向かった。


「うっす!」


 校門で健介に声を掛けられた。


「健介、おはよう」


「おう、元気そうだな」


 健介は慧の肩を組んでくる。もしかすると、慧が来るのを待っていたのかも知れない。


「大丈夫か?」


「大丈夫だよ」


 慧は笑顔を浮かべる。


 緊張していた。生徒玄関を通り、廊下を歩く。階段を上り、自分の教室へ向かう。朝日が入り込む廊下は、人で溢れていた。


 皆、一様に笑顔を浮かべていた。きっと、素晴らしい夏休みを過ごしたのだろう。笑顔と笑い声の中を、慧は暗い顔をしながら歩く。


 慧は教室の前に立った。緊張で足が進まない。


「じゃあな。俺がついてるから」


 日に焼けた健介が、白い歯を覗かせる。


「うん。色々ありがとう、健介」


「良いって、友達だろう? 今度、女の子紹介するからさ」


 慧は笑いながら、健介の腰を叩く。そして、深呼吸をして教室のドアをくぐった。


 おやよう!


 何も知らないクラスメイトが、いつもの笑顔で声を掛けてくる。慧はその声に応えながら、席に着いた。


 バッグの中身を取り出し、机に入れる。視界の隅に、美緒の後ろ姿が映る。見てはいけない、そう思いながらも、慧の視線は美緒に引きつけられた。


 相変わらずの黒く美しい髪。背筋を伸ばして椅子に座る美緒は、身動ぎせずに前を向いていた。その硬質な雰囲気を纏う背中からは、こちらを拒絶するオーラがありありと窺えた。


 唇を噛んだ慧は、スマホを取り出すと、那由多に昨夜の礼をメールで送った。


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