3話




「美緒さん、本当に此(こ)処(こ)?」


 慧は美緒に連れられ、長い石段を登っていた。


「うん。此処、昔お父さんと来たことがあるんだ」


「お父さんと?」


「うん……、そう」


 声と共に、美緒の雰囲気が下がったのが分かった。


 ここは、市街地から少し離れた場所にある神社だった。小高い丘の上にある神社は、『月(つき)読(よみ)神社』だった。慧は、その存在を知らず、もちろん来るのも初めてだった。


 丘の麓(ふもと)に鳥居があり、そこから丘の上まで、幅二メートルほどの石階段が続く。お祭りだからだろうか、石段の両脇に並ぶ石(いし)灯(どう)籠(ろう)には、赤い飾りろうそくが灯(とも)っている。


 神社は、とっぷりと夜の闇に沈んでいた。ろうそくの明かりに照らされ、薄闇に美緒の白い浴衣がボンヤリと浮かび上がる。


 慧は、美緒の指先を握っていた。先を歩く美緒を見上げ、慧は語りかける。


「美緒さん、それは、良い思い出だった?」


「お父さんとの? ……うん。良い思い出、かな……。良く、お父さんの事は覚えてないの……。お母さんと凄(すご)い喧(けん)嘩(か)して……、私を置いて出て行っちゃった。はっきりと覚えているのは、二人が喧嘩をしていた最後の日。お母さんが、私を拒絶した日……」


「そうなんだ……」


 元気を出して、などと適当な事は言えない。美緒は、慧が思っている以上に複雑な家庭環境だ。美緒の話を聞くだけで、慧はその体験を、身の上を想像することしか出来ない。所詮、慧と美緒は別の人間だ。本当の意味で、心の痛みを共有できることはない。


「だから、私、お父さんがずっと恋しかったのかも……」


「お父さんと、連絡は取っているの?」


「…………」


 美緒は足を止め、振り返った。


 二段上にいる美緒は、慧よりも頭一つ高かった。彼女は、寂しそうな眼(まな)差(ざ)しでこちらを見下ろし、「分からない」と答えた。


「お母さんとは、あまり話をしないから……。たぶん、養育費は貰(もら)っていると思うけど……。少し、湿っぽい話になっちゃったね。でも、ここは良い思い出なんだ。お父さんとの、数少ない思い出の場所。そして、少し悲しい場所。だからね、今日は慧君と花火を見て、最高の場所にしたいんだ」


 美緒は笑った。少し、引きつったような笑み。この場所自体が、彼女にとって特別な場所なのだろう。指先を握る彼女の手が、少しだけ汗を掻(か)いている。心なしか、美緒の声が震えているようにも思える。


「大丈夫、きっと、最高の思い出になるよ」


 最高の思い出。それは、美緒だけでも、慧だけでも作るものではない。二人で作るものなのだ。


「ありがとう、慧君。私、慧君と知り合えて、本当に良かったと思ってる」


「僕もだよ。美緒さんとこうして一緒にいられて、とても幸せだよ」


「ううん。違うの……」


 長い階段を上り終えた美緒は、手を離し、こちらを振り返った。美緒の後には、美しい社がろうそくの微(かす)かな光に照らされ、闇の中に浮かんでいた。小さいが、よく手入れされた美しい社だ。


 小さな境(けい)内(だい)だが、其(そ)処(こ)此処に見物客の姿が見える。どうやら、知る人ぞ知る、花火の観光スポットらしい。


「私は、本当に感謝しているの。慧君は、慧君達(たち)は、私をまっとうな道に戻してくれた。私は、その事に感謝しているの。出会いは人を変えるって、本当なんだね」


「そう言ってもらえると、嬉(うれ)しいよ」


「湿っぽい話をしてゴメンね。どうしても、私の事を知ってもらいたくて……。ここは、私にとって少し特別な場所だから」


「良いよ。美緒さんの事が知れて、僕も嬉しい。さ、何処(どこ)で見る? せっかくの花火なんだし、楽しもうよ」


 信玄袋を握りしめ、慧は美緒の腰を優しく押す。美緒は「そこのベンチにしよ」と、近くにあったベンチに腰を下ろした。


「綺(き)麗(れい)だね」


 ベンチに腰を下ろした慧は、少し上がってしまった息を整えながら、一望できる街並みを見下ろした。


 右手に大きな川が流れ、左手に市街地が見える。花火の打ち上げ場所は、市街地と神社のちょうど中間辺り、河(か)川(せん)敷(しき)からだった。見る方向が少しずれているため、市街地の明かりも、花火の邪魔にはならない。


「もう少しで、花火が始まるね」


 美緒は少し心配そうに、川の向こう、西の空を見上げた。遠くで空が光っている。


「昼間、あれだけ熱かったからね。もしかすると、夕立かも知れないって、天気予報じゃ言っていたけど」


「持てば良いな」


「雨が降ったって、良い思い出じゃない」


「そう? 花火が中止になっちゃうよ?」


「花火が中止になった方が、印象が深いよ。それでも、こうして二人で見られるんだから、良い思い出だと僕は思う」


「…………それもそうか。慧君と二人で見られるなら、それだけで良い思い出だものね」


 言って、美緒は目を細めて街の明かりを見つめる。


 夏の風に乗り、祭(まつ)り囃(ばや)子(し)が遠くに聞こえる。


 秋を知らせる鈴虫の音色が、境(けい)内(だい)の至る所から響いている。


 そっと、慧は美緒の横顔を見た。


 本当に、透き通った美しい顔だった。少し汗を掻いたうなじと、長い首筋が、ろうそくの明かりに照らされて白くボンヤリ輝いている。


 慧は深呼吸をした。


 緊張する。女の子に、初めてのプレゼントだ。果たして、気に入ってもらえるだろうか。


 緊張のあまり、呼吸が止まる。指先が痺(しび)れるようで、感覚が無い。


 遠くで、雷の音が聞こえてきた。


 今しかない。


 慧は意を決し、信玄袋の口を開けた。


「み、美緒さん――」


「ん? どうしたの?」


「あの――!」


 信玄袋に手を突っ込み、プレゼントを握りしめる。それを引き抜こうとするが、横になった箱は口につっかえてしまい、なかなか出てこない。


「あ、あれ……」


 焦る慧は、必死にプレゼントを引き抜こうとした。


「どうしたの? 慧君、落ち着いて」


 そっと、美緒が慧の手に触れた。瞬間、慧の手が滑りプレゼントが宙を舞い、美緒の足下に落ちてしまった。


「あっ!」


「これ、プレゼント?」


 美緒は、足下に落ちたプレゼントを拾い上げる。


「あの、その……」


 失敗だ。格好良く、いや、せめて普通に渡したかった。だけれど、手から滑り出たプレゼントは地面に落ちてしまい、あまつさえ、それを美緒が拾ってしまった。


「あ、……うん、プレゼント、なんだ。似合うかどうか、分からないけど……。もし良かったら、使って欲しい」


 尻すぼみする慧の言葉とは裏腹に、美緒の顔には、溢(あふ)れんばかりの笑顔が咲き誇っていた。


「良いの? 私に? このブランド、大好きなの。凄く高いんだよ?」


 パッケージを見ただけで、美緒はどこのブランドか分かるようだ。


「バイトをして、貯めたんだ……。美緒さんに、似合うと思って」


「バイトをしてって、もしかして、バイトをしていたのって、このプレゼントを買うため?」


 目を丸くする美緒に、慧は頷(うなず)いた。

 

「私のために、アルバイトまでして……。ありがとう、慧君。たとえ、これが道ばたに落ちている石だったとしても、私は嬉しいよ。慧君が必死になって考えて、働いてくれたプレゼントだもの、嬉しくないわけ、無いじゃない」


 美緒は目尻を指で拭った。


 慧は嬉しくなった。ホッと、心の中で張り詰めていたものが無くなった気がした。



 ドッ――



 その時、光の筋が夜空に上り、大輪の花を咲かせた。赤からオレンジに変わる花火。それらが、柳のように長い尾を引いて降り注ぐ。


「ああ、綺麗……」


 大事そうにプレゼントを握りしめた美緒が、ぽつりと呟(つぶや)いた。


「うん、綺麗だね」


 体を近づけてきた美緒は、慧にもたれ掛かってきた。急に感じた美緒の体重、熱、それらにドギマギしながら、慧は美緒の腰に手を回した。


 細く、華(きや)奢(しや)な腰だ。浴衣を通しても、美緒の熱い体温が感じられる。美緒は何も言わず、慧に体を委ねて、夜空に咲き誇る花火を見つめていた。


「慧君……。私、慧君にありがとうしか言えないんだけど……」


「お礼は良いよ。僕が、美緒さんにプレゼントをしたかっただけだから」


 花火を見つめていた慧は、美緒を見た。美緒は、花火ではなくこちらを見つめていた。


 美緒の大きな瞳が、揺れている。花火の閃光を受けて瞬く瞳には、慧の顔が写り込んでいた。


「慧君、大好き」


 瞬間、慧の呼吸が止まった。


 美緒の手が慧の背中に回され、よりからだが密着した。そして、美緒の顔が近づく。


 唇に、美緒の唇が触れた。


 交錯は、ほんの一瞬だった。


「美緒さん……?」


「少しばかりのお礼……」


 顔を赤く染めた美緒は、再び、慧の体にもたれ掛かった。


 美緒から爽やかなシトラスの香りが漂う。シャンプーだろうか、それとも、香水だろうか。


 心臓が、早(はや)鐘(がね)のように打ち鳴らされる。


 何が起こった。慧は、美緒の感触が残る唇を舐めた。


 放心した瞳で花火を見つめながら、慧は美緒を抱きしめる腕に力を込めた。


 一際大きな花火が上がり、境(けい)内(だい)にいる見物客が一斉に拍手をする。


 アナウンスが流れ、五分ほどの休憩を挟むようだ。


 ゴロゴロと、雷が近づいてくる。慧は西の空を見る。水分を多く孕(はら)んだ空気が流れ込み、少し気温が下がったように思える。


 雨が近い。花火が終わる前に、雨が降りそうだ。


「あの、慧君、これ、見てくれないかな……」


 美緒は立ち上がると、巾着から何かを取り出した。簪(かんざし)を外し、代わりに何かを髪に付ける。


 薄闇に輝くカチューシャ。スワロフスキーをふんだんにあしらったそれは、慧がプレゼントしたものと同一のものだった。


 再び、花火の打ち上げが始まった。色取り取りの花弁が咲き乱れ、無数の色が空に鏤(ちりば)められる。


 様々な光を受け、スワロフスキーが虹色に煌(きら)めいていた。


 慧は、呆(ぼう)然(ぜん)と美緒の髪に止められたカチューシャを凝視した。プレゼントしたものを付けたのか、そう思ったが、すぐに自分の考えを打ち消した。慧がプレゼントしたカチューシャは、箱に収められたまま、ベンチに置かれていた。


「どうかな? これ、綺麗かな? 浴衣と似合うと良いんだけど」


 美緒の声が、遠くに聞こえてくる。


 一体、美緒はどうやってあのカチューシャを手に入れたのだ。ただ、欲しいという理由で、高校生が買えるような値段ではない。


 指先が冷たくなる。うまく動かない。まるで、魂が半分体から抜け出てしまったかのようだ。キスをして興奮していた気持ちは、一瞬にして氷点下にまで下がってしまった。


「美緒さん、それ、何処で……」


 聞いてはいけない。だけれど、聞かずにはいられない。それはまるで、パンドラの箱だ。開いてしまったら、もう後には戻れない。


「え? これ……?」


 慧の質問に、美緒が固まる。


 誰かに貰ったのか。だとしたら、誰に貰ったのだ。安いものではない。高価なものだ。特別な誰かが、美緒に送ったのだろうか。


「これは……」


 美緒の表情が曇る。それは、慧に言えない事なのだ。


「それはね、美緒のパパさんが、体を売ったお礼にくれたんだよね!」


 答えは、意外な所から聞こえてきた。


「え?」


 慧は境内の内側を見る。すると、奥から三人の人影が歩み出てきた。


「詩織……!」


 美緒が絶句する。彼女が何かを言う前に、克巳が口を開いた。


「美緒、罰ゲームは終了だ。恋人ごっこもこれで終(しま)いだ」


「えっ……?」


 何を言っているのか分からない。『体を売った』、『パパさん』、『罰ゲーム』、一体、何を言っているのか。


 気がつくと、慧は立ち上がっていた。拳を握りしめ、慧は登場した三人に向き直った。


 近くで雷が鳴った。雨の匂いが強くなる。



 ドンッ……



 大きな花火が、大気を振動させ、体を震わせる。


「ほら、美緒、ネタバレの時間だ。お前の口から話してやれよ、今までのゲームと、そのカチューシャを貰った、肉体関係のある『パパさん』との話を」


 グルグルと、意味不明の言葉だけが頭の中を駆け巡る。


 理解の追いつかない状況に直面した慧は、呆然と美緒を見つめた。


「美緒さん……?」


 何故、美緒は何も言わないのだ。


 彼女は、こちらと詩織達を何度も見て、口を戦慄(わなな)かせている。


 美緒は、泣きそうな表情を浮かべながら、「ごめんなさい」と呟くように言った。その声は、花火の音にかき消される事なく、慧の耳に届いた。


 花火に照らされるカチューシャが、場違いなほど美しく、美緒に似合っていた。


 雨粒が、慧の頬に当たった。雨が降ってきた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る