6話




 ◆◇◆◇◆◇◆◇


 顎先へ向かって流れ落ちてくる汗を、慧は手の甲で拭った。


 慧は雑踏の中に立ち止まり、ショーウインドの中に飾られたカチューシャを見つめた。スワロフスキーが鏤(ちりば)められた、大きなカチューシャだ。


「お金は持った……、買えるよな」


 稼いだバイト代は、七万円ジャスト。カチューシャは、六万円だ。


 高校生カップルのプレゼントにしては、高すぎる。それは慧にも分かっている。だが、美緒は慧にとって特別な女性だ。どうしても、慧は美緒の笑顔を見てみたかった。


 買うぞ。そう思っても、店の中に入れないでいる。ここは、慧達が普段出入りする雑貨店のような、安っぽい店ではない。ファッションにそれほど興味のない慧でも知っている、有名ブランドだ。


 ショーウインドから店内を覗(のぞ)くと、スーツをピシッと身につけた店員が、一人一人、訪れる客に接客をしている。


 高校生の慧が入って、相手にしてくれるだろうか。もしかすると、冷やかしだと思われて門前払いされるかも知れない。


 こうした店に入ったことのない慧は、店の前で思案に暮れていた。


 照りつける日差しは強く、アスファルトを焼き、熱気を大気中に放つ。熱い空気の膜に包まれ、慧は立っているだけで滝のような汗を流す。


(ダメだ、Tシャツ姿に、こんなに汗を掻(か)いてしまっては、中に入れない)


 日を改めるか、そう思った瞬間、慧の目は流れる金色のベールを見た。ショーウインド越しに映る自分の姿。その姿を取り囲むように、金色のベールが流れている。


 背後に感じる気配。振り向こうとした瞬間、首筋に冷たい何かが押し当てられた。


「ひゃっ!」


 素っ頓狂な声を上げ、慧は飛(と)び退(の)いた。


「アハハハハ!」


 振り返ると、白いワンピースを身につけた女性が、体をくの字にして笑っていた。柔らかな、長い金色の髪。アーモンド型をした、サファイア色の瞳。


「波(は)呂(ろ)さん……?」


 突然現れたのは、那由多の妹、波呂だ。彼女は冷たいジュースのペットボトルを手にしており、それを慧の首筋に押し当てたのだろう。


「こんにちは、佐藤慧君♪」


 波呂は輝くような笑顔を浮かべ、驚く慧の顔をのぞき込んでくる。常軌を逸した美女、とでも形容すれば良いのだろうか。まるで、有名絵師の描くイラストから、そのまま抜け出したかのようだ。


 存在自体が、この世の理(ことわり)から浮いている。黛(まゆずみ)波呂は、見るものに違和感を感じさせる、そんな美女だった。


「何をしているの?」


 波呂は、慧が入ろうとしていた店内を、ショーウインド越しに見つめる。


「もしかして、私にプレゼント?」


「え? いや、あの、イヤイヤイヤ」


 ぶんぶんと、慧は首を横に振る。波呂は、意外そうに「そうなの?」と声を上げる。


「おい、波呂。馬鹿な事を言って慧を困らせるな」


 その時、波呂の頭を那由多が小突いた。いや、その力は、小突いたというよりも、殴ったと表現した方が適切かもしれない。その場に蹲(うずくま)る波呂に、慧は近づこうとするが、那由多が手を上げて制した。


「いったぁ~~~!」


 唇を尖(とが)らせた波呂は、キッと鋭い眼(まな)差(ざ)しで那由多を見上げる。だが、睨(にら)み付(つ)けられている那由多は涼しい表情で、その眼(まな)差(ざ)しを受け流していた。


「よ、何やってんだ?」


「それ、私が聞いた! 聞いてよ、慧君! 那由多ね、慧君をシカトして行こうとしていたのよ? 酷(ひど)いと思わない?」


「え?」


 慧は那由多を見る。Tシャツにジーンズ姿の那由多は、底冷えのする眼(まな)差(ざ)しで、蹲(うずくま)る波呂を見下ろした。


「別に、シカトしようとしていたわけじゃない。凄(すご)く悩んでいたからな、邪魔しちゃ悪いと思っていたんだ」


「道向こうの日陰で、ジュース一本飲み終わる時間、ずっと見ていたのよ?」


「え? そんなにも長い時間?」


 それは、慧も恥ずかしかった。五分か、十分か、往来で足を止め、慧はずっと店の前に立っていたと言うことになる。それだけ長い時間立っていれば、シャツも汗でビショビショになるはずだ。


「あの、また出直してくるよ……」


 せめて、もう少し良い服を着てきた方が良いだろう。高級ブランド店に入るには、慧はあまりにも場違いすぎた。


「なに言ってんだよ、また来るのは面倒だろう? ほれ、さっさと行こうぜ? どうせ、店の面構えに圧倒されて足がすくんでいたんだろう?」


 那由多は歩き出し、店の前に立った。


「一緒に行ってくれるの?」


「悩んでいる友人は放っておけないだろう?」


「完全にシカトして行こうとしていたのに」


 波呂の声は完全に無視し、那由多は扉の前に立った。すると、店員が駆けつけ、内側からドアを開けてくれる。


「慧、行くぞ」


「うん……」


 那由多に促され、慧は店内に入った。


 外から見るよりも、遙かに広い店内だった。いや、これは店内と表現するよりも、ショールームと言った方が適切だろう。


 大理石の床に、高い天井。ショールーム内の所々に棚が置かれ、そこにはバッグや靴、財布などが陳列されている。奥の方には、服が置かれており、フィッティングルームも窺えた。


 店内には爽やかな柑橘系の匂いが漂い、優雅なクラシックが流れていた。


「あ~~~! 涼しい! 人間界の夏は、まるで地獄ね! 地獄! 涼しいここは、エデンの湖畔みたい!」


 波呂は意味の大(おお)袈(げ)裟(さ)な叫び声を上げながら、両手を広げて冷房の吹き出し口の真下に立った。


「慧、波呂は放っておいて、用件を店員に」


 堂に入ってる那由多に言われるまま、慧は近づいてきた店員に用件を告げた。


「畏(かしこ)まりました、少々お待ちください」


 店員は恭(うやうや)しく頭を下げ、すぐに奥へと引っ込む。


「鹿島へのプレゼントか?」


「うん……。初めて、美緒さんが目を輝かせて、素敵って言っていた物だから。少し高いけどさ、バイトして、プレゼントするんだ」


「…………」


 那由多は応えない。寂しそうな眼(まな)差(ざ)しで慧を見つめ、店員が消えていった白い扉を見つめた。いつもは柔らかい物腰だが、今の那由多からは、少し硬質的な雰囲気が感じられる。


「やっぱり、止めた方が良いかな? 重い男だって思われちゃうかな?」


 慧も、那由多と同じ方向を見る。同じ方を向いてはいるが、たぶん、那由多と慧は見ている物が違うのだろう。

 

「…………いや、良いんじゃないのか? きっと、喜ぶと思う。お前の気持ちが籠もっている品だ。あいつ、大事にすると思うよ」


 なら、どうしてそんなに悲しそうな表情をするのだろうか。那由多の笑顔を見て、慧はそんな事を思った。


「お客様、お待たせしました。こちらが、ショーウインドに展示してある物と同じ、カチューシャでございます」


 傷が付かないように、白手袋をした店員が、純白の箱に入れられたカチューシャを持ってくる。


「わぁ……」


 思わず慧は感嘆の声を上げた。


 照明を受けて輝くスワロフスキーは、目が眩(くら)むほどの輝きを放っている。思わず伸ばしかけた手を、慧は止めた。なんだか、あまりにも美しすぎて、自分が触れることが躊(ため)躇(ら)われた。


「あの、これをください! お金ならあります!」


 食いつき気味に言った慧に、店員はクスクスと笑う。


「プレゼントですか? 包装はどういたしましょうか?」


「はい、プレゼントです! 可愛く包装してください。お願いします!」


 支払いを終え、慧達はショールーム内にあるソファーに腰を下ろし、冷たい麦茶を飲んでいた。


「凄(すご)いお店だね。まさか、買い物をしてお茶を出されるなんて」


「こういう所じゃ、これが普通だろう? もっと太客になると、別室へ通されたりするんだぜ?」


「那由多君、詳しいんだね」


「まあ、いろいろとあってな。何度かこういう店には来ているんだ」


「殆(ほとん)どが付き添いだけどね」


 波呂はリラックスした様子で、深々とソファーに体を埋める。長い手を伸ばし、ガラステーブルの上に置かれたボウルから、宝石のような丸く大きなゼリーを手にした。


「ハハ、おいしそ」


 赤いゼリーを、波呂は口の中に放る。


 久しぶりに見る那由多と波呂を見て、慧は頬(ほお)を緩めた。


「那由多君は、本当にタイミング良く現れるよね。美緒さんに告白された日も会ったし、今日だって、プレゼントで買えるかどうか悩んでるときに来てくれた」


「たまたまだよ。本当に、偶然だよ」


「そ、気にしないで。本当に偶然だから」


 那由多の言葉に、波呂も何度も頷(うなず)いて同意する。


 那由多と波呂。二人は双子の兄妹と言うが、あまり似ているように思えない。だけど、不思議と周りは違和感なく二人が兄妹だと認識している。慧も、そう認識しているが、よくよく見ると、二人が似ている要素は微(み)塵(じん)もない。


「俺と波呂の事は、深く考えない方が良いぜ」


 心を見透かしたように、那由多は笑いながら言った。


「うん……」


 二人の関係がどうであろうとも、彼らが良い人には違いない。手にした麦茶の琥(こ)珀(はく)色(いろ)の水面を見ていると、店員が包装されたカチューシャを持ってきた。


「お待たせいたしました」


 高価そうな黒い紙袋。その中を覗(のぞ)くと、赤く可(か)愛(わい)らしくラッピングされた箱があった。


「ありがとうございます」


 慧は大事そうに受け取ると、店員に礼を述べた。そして、再び灼(しやく)熱(ねつ)地獄の人(にん)間(げん)界(かい)へと出た。


「那由多君も波呂さんも、ありがとう。本当に助かったよ」


「良いの良いの、気にしないで。それよりも、そのプレゼント、いつ上げるの?」


 波呂に問われ、慧は答えに困る。手にしたカチューシャを大事そうに胸の前で抱え、慧は「分からない」と答えた。


「ええ? せっかくのプレゼントなのに、上げないの?」


「上げるよ。だけど、これは大切なプレゼントだから、僕たちにとって、特別な日に上げたいと思って。月末にある」


「夏祭り、か?」


 先に那由多に言われてしまった。慧は「うん」と頷(うなず)く。


「そう。まだ誘っていないんだけど、その夏祭りで花火を見ながら渡せたら良いなって……」


「慧君、それって……」


 何かを言いかけた波呂を、那由多が止めた。


「…………そうだな。きっと、鹿島は貰(もら)ってくれる。頑張れよ」


「うん、ありがとう、二人とも」


 那由多は慧の肩を叩(たた)くと、駅と反対側に向かって行ってしまった。


 力強い手だった。まるで、慧を励ますような、応援するような感じだった。


 この時、慧は波呂が言いかけた事の続きを気にしなかった。知ろうともしなかったし、記憶の片隅にしか残っていなかった。


 波呂が言いかけた言葉。それは、きっと夏祭りの日に起こる出来事を、予見した物だったのだろう。


 慧がその事を知るのは、もっともっと後の話だ。


 その夜。健介から連絡があった。


「オレオレ! なあ、慧! 明後日の月曜日、遊園地でダブルデートだ! ななの了承も、鹿島の了承も得ている! 後はお前だけだ!」


 テストが終わった後、健介はダブルデートをしようと言っていた。忘れていたわけではないようだ。ちょうど、その日はバイトが入っていない。答えは『YES』だった。

 

「決まりだ! じゃあ、また詳細は後で伝えるから! 鹿島には、慧から連絡入れといてくれ」


 言いたいことだけを話し、健介は通話を切ってしまった。全くと思いながらも、慧は健介の行動力に助けられている事を感じていた。


「遊園地か、楽しみだな」


 机の上に置いてあるプレゼントを見つめながら、慧はベッドに横になった。すぐに美緒に連絡を入れ、慧は明後日のデートに思いを馳(は)せた。

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