二章 Gaze 視線

1話

 教室には、数学教師の声が響いていた。


 開け放たれた窓からは、気持ちの良い風が吹き込み、生徒の発する気怠そうな空気を洗い出してくれる。


 ホワイトボードにペンを走らせる教師。


 真面目な表情で、慧は板書をしていた。話を聞きながら、教師の話を簡単にメモっていく。走り書き程度の汚い文字だが、自分で読む分には十分だった。


 慧は凝り固まった肩をほぐすように、背筋を伸ばして肩を回した。


 深呼吸をして、首を回す。ふと視線を感じて左後ろを見ると、美緒と目が合った。彼女は慧と視線を合わせると、ニコニコと微笑みながら小さく手を振った。


 慧は気恥ずかしさから、美緒のように手を振ることはできなかた。ただ、彼女に微笑んだだけだ。しかし、美緒は手を振り返さない慧にムッとした表情を浮かべながら、なおも手を振ってくる。仕方なく、慧は美緒に小さく手を振り返すと、咳払いをして正面に向き直った。


 美緒を見ているだけで、心が躍る。


 今まで送ってきた毎日の生活が、色褪せた写真のようだった。美緒と付き合い始めて、まだ数日しか経っていない。それなのに、こんなにも毎日が楽しい。普段は退屈でつまらない授業も、美緒と一緒に受けていると思うだけで、これほどまでに楽しく感じられる。


 梅雨が明ければ、期末試験が待っている。その時には、慧は美緒に勉強を教えなければいけない。彼女に勉強を教えるためにも、もっともっと、慧は頑張らなければいけない。


 逸り、踊る心を律しながら、慧は授業に集中した。



「慧!」


 三時間目と四時間目の間の休み時間、トイレの帰りに慧は呼び止められた。


「健介」


 丁度、健介が教室から出てきた所だ。


 坊主頭に褐色の肌。野球部に所属している彼は、慧と違って運動が良くできた。


 彼は白い歯を覗かせながら、小走りに慧の元へ駆けてくる。


「おい! お前、やるじゃないか!」


 太い腕を慧の首に回しながら、健介は軽いボディーブローを打ってくる。


「何がだよ?」


「あの話だよ。お前達、付き合ってるんだろ? で、どうよ! 初めての彼女は、もうヤッたか?」


「やったって、何を?」


「何をって、だから、ナニをだよ」


 健介は下品に腰を動かす。廊下を歩いていた女子が、「キャッ」と小さな悲鳴を上げると、怪訝な表情を浮かべながら、慧達を迂回して通り過ぎる。


「ナニをって、健介……!」


 慧は笑いながら、健介の腹筋を小突く。鍛え上げられた腹筋が、慧の小さな拳を跳ね返してくる。


「効かないな! この鍛えられた腹筋には!」


 力を込め、慧は強めに拳を健介の腹筋に放つが、慧の拳は無情にも跳ね返ってしまう。


「ヌハハハハ! 筋トレ馬鹿を舐めるな!」


「笑い事じゃない、恥ずかしいから止めて」


 パチッと、声と共に平手が飛んできた。


 健介と、何故か慧の頭が叩かれる。


「あ、なな」


「こんにちは、慧君。健介、恥ずかしよ。声、でかいし」


 六本木ななは、健介の恋人だ。


 おかっぱの黒髪に、黒縁眼鏡。そばかすが特徴の女の子だ。中学の時はスマートな印象だったが、高校に入り、全体的に肉付きが良くなった。


「ゴメンゴメン、この間、話しただろう? コイツ、やっと彼女ができたんだぜ?」


「鹿島さんでしょう? 聞いたわよ。まあ、健介よりも、慧君のほうが見た目も頭も良いしね。がさつじゃないし」


「おい、お前、カレシをディスりすぎじゃね?」


「ディスってないわよ。事実でしょう? まあ、私は慧君よりも健介が好みだけどね」


 言って、ななは笑う。健介も、照れたように笑う。二人は、端から見ていても本当に仲の良い、理想のカップルだった。


「あっ、いたいた、みんなして何やってるの?」


 満面の笑みを浮かべ、パタパタとこちらに駆けてくるのは、夕貴だった。


「ナニをやってるんだよ」


 健介は、夕貴を馬鹿にするようにイヤらしい笑みを浮かべるが、夕貴は健介の言動には慣れた物で、「はぁ?」と、眉をへの字に曲げてななを見る。


「今、慧君が彼女が出来たって話をしていたの」


「ねぇ! そうみたいね。私、驚いちゃった。何の相談もなしに決めちゃうんだもん」


「いちいち夕貴に相談が必要なの?」


「そりゃ、幼馴染みとしては、相談に乗りたいわよ。慧って、女子に免疫ないでしょう? 変な虫が付かないか心配なのよ」


「心配しすぎだろう、お前は。こいつのお母さんかよ」


「気持ち的には、お母さんよ。ポジション的にも、そんな感じでしょう?」


 エッヘンと胸を張る夕貴に、健介は溜息をつきながら、慧の耳元で囁く。


「貫禄だけはな」


 言われ、慧は夕貴の胸元、腰回りを見た。確かに、貫禄だけならうちの母親と同じくらいかも知れない。


「バッチリと聞こえてるし! 慧も頷かない!」


 声を荒げるが、夕貴の柔らかな雰囲気はやはり壊れない。

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