佐藤 慧

 行き場のない感情が胸中で渦巻く。発露されることのない想いが、慧を苦しめる。


 慧はただ泣くしかなかった。これが夢であれば良いと切に願い、神に祈ることしか出来ない。


「やっぱ、雨が降ったな」


 声が振ってきた。


 虚ろな表情で見上げると、そこには大きな傘を差した那由多が立っていた。


 彼は慧を見ると、一瞬顔を顰めたが、すぐに笑みを浮かべた。


「酷い顔をしてるな……。無理もないか、立てるか?」


 那由多は手を差し伸べてくる。


 慧は那由多を見て、唇を噛んだ。胸に渦巻いていた感情が激情へと変化し、全ての責任を目の前に現れた那由多へと転嫁された。


 『無理もない』


 いま、那由多は『無理もない』と言った。確かに言った。慧の聞き間違いではない。那由多は、何を知っているのだ。どこまで知っているのだ。


 もしかすると、彼は全てを知っているのかも知れない。いや、最初から、あの時、本屋で会ったときから、彼は全てを知っていたに違いない。


「どうして! どうして那由多君が此処にいるんだ……! 君は、いつだってそうだ!」


 手を差し伸べたまま、那由多は慧の叫びを聞いていた。慧を見つめる彼の瞳は、写真の中の湖面のように、さざ波一つ立っていない。


「いつだって! 全部を知っているかのように振る舞う! 君は……全部知っていたんじゃないか? 那由多君も、彼等の仲間なんじゃないか?」


 また吐き気が込み上げてきた。吐き出そうとするが、口から出るのは緑色の胃液のみ。拳を固め、慧は水たまりを叩いた。何度も何度も、慧の非力な拳を力の限り叩きつける。


「俺が全てを知ってるように思えるか? 買いかぶりすぎだよ。人間には過ぎた力だ。知ることができたとしても、知らない方が良いこともある」


「じゃあ、どうして此処に? 君は、知っていたんじゃないか? 美緒さんが、鹿島美緒さんが、僕を騙しているって……」


「……」


 那由多は無言で空を見上げた。激しい雨が傘を叩き、けたたましい音を立てている。


「天気に詳しい知り合いがいてな。今日は局地的に記録的な豪雨になるってさ。だから、お前達の傘を持ってきた」


 見ると、那由多は傘を差している手の脇に、二本の傘を抱えている。


「もしかして、知り合いに良く当たる占い師もいるの?」


「残念ながら、正解だ。まあ、占いじゃなくて、予告だけどな。アイツのは未来予告」


 どこまでが嘘で、どこからが本当なのか、分からない。ただ一つ、那由多について分かることがある。彼は良い奴だ。たぶん、慧が知り合った中で一番良い人間。


 笑いながら、那由多は手を鼻先まで差し伸べてくる。


「ゴメン、那由多君。……君は、何も悪くないのに……」


「構わない、少しはスッキリしたろ」


 慧は那由多の手を握った。非力なように見えて、那由多は力強く慧の手を握りしめると、グイッと体を一気に引っ張り上げた。


「はい、お前の分の傘。あと、タオル。折角の一張羅がずぶ濡れだ」


 脇に抱えた傘を一本差し、慧に手渡してくる。そして、カバンからタオルを取り出すとそれを頭に被せた。


「レンタルなんだ。……美緒さんと一緒に借りた」


 温かいタオルだ。柔軟剤の優しい香りがした。


「じゃあ、尚更汚せないな」


「那由多君、僕はどすれば良いと思う?」


「お前はどうしたい? それが重要だ。俺が出来るのはアドバイスだけだ。ああしろ、こうしろとは言わない。自分の人生なんだから、最終的には自分で決めろ」


「もし迷ったら?」


「後悔しない方を選べ」


 後悔。沢山裏切られ、傷つけられたが、まだ後悔はしていない。


「……今までの事が全部嘘だったけど、僕は、美緒さんを憎めない」


「それがお前の美徳だ。誰もが持ってるものじゃない」


「……うん。ありがとう、那由多君」


「どういたしまして。じゃ、俺はもう行くから」


「うん。落ち着いたら連絡する」


「ああ」


 そう言うと、那由多は雨のベールの中へ消えていった。


 傘に当たる雨音を聞きながら、慧はしばらくその場に佇んでいた。


 一体、これからどうすれば良いのだろうか。水面に漂うクラゲのように、慧の心は心許なげに揺れていた。




 この日、僕は初めて失恋した。


 もしかすると、これが初恋だったのかも知れない。


 これは、僕、佐藤慧の物語。


 恋の素晴らしさを知り、怖さを知った物語。


 だけど、僕の物語は、僕と美緒さんの物語は、まだまだ序盤。


 このエピソードは、僕たちが歩き出す切っ掛けになった物語。

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