毒蟲

 木曜の夜、叔父から電話があった。

 実家の母が入院するという。病状は軽く一週間ほどで退院するらしい。諸々の手続きは代わりにやってくれるそうだが、いくつか俺の承諾が必要なものがあると言ってきた。送ってくれたらすぐに返すと答えると、叔父は分かりやすく息を吐いた。

『なあ、草一郎。そろそろこっちに帰ってきたらどうだ』

 無言でいると、叔父は躊躇いがちに続けた。

『仕事、上手くいってないんだろう』

「まあ……ぼちぼちだよ」

『お前もいつまでも若くはないんだ。バイトで食い繋ぐ齢でもないだろう。定職に就いて嫁さんでも貰いなさい。帰ってきたら多少の世話はしてやれんこともない』

「そうだな。おじさんには、世話になってばかりだ」

『草一郎。ちゃんと考えろと言ってるんだ。このままお母さんを独りにしておくつもりか? 誰が面倒を看る? 今回のことだって俺がいなければどうなっていたことか』

 何も言えなかった。叔父は言葉を重ねた。

『なあ、草一郎。お前は充分頑張っただろう? 夢はもう見尽したはずだ。いい加減に目を覚まして、お母さんを安心させてやってくれ』

 俺は、わかっていると答えた。叔父はまだ何か言いたそうに唸った。でも、それ以上の追及はなかった。通話が切れたのを確認し、布団のうえに携帯を転がした。

 いい叔父だ。

 親父が死んだときも世話になった。今だって俺とおふくろを心配してくれている。たとえ本心では年老いた姉の世話などしたくないだけだったとしても、それが何だと言うのだ。そんなものは道理だ。誰だって面倒は負いたくない。上がり目のない夢など諦めて身内が世話をしろというのも逐一尤もな話だった。

 だが、その尤もな話が通じていれば、俺はとっくに筆を折っていただろう。

「理屈じゃ、ないんだ」

 ぼんやりと天井を眺めた、すると再び着信が鳴った。

 何か、言い足りないことでもあったのだろうか。

 億劫に感じながらも筐体を掴み、ディスプレイを覗いた。

 身震いした。

『よお、センセイ。今大丈夫か?』

 武田だった。横柄な口調で都合を訊いてくる。大丈夫だと返しながら服の胸元を掴んだ。武田から電話がかかってきたことなど一度もない。いつも連絡はこちらからだ。奴を使っているのは俺なのに、どうしてだか胸騒ぎが抑えられなかった。

 俺の不安などお構いなしに、武田は出し抜けに言い放った。

『水無瀬砂子の動向が分かったぞ』

 息が詰まった。武田はこちらの反応を予想していたのだろう。そして期待通りの反応をしてしまったに違いない。電話口の向こうで口を歪めているのが分かった。それに苛立つ余裕はなかった。

「ど……」

『どうして分かったかって? 偶然だよ。取引先の女が、水無瀬の大学の同期だったんだ』

「……大学の」

『ああ、世間話からたまたまな。色々と興味深い話が聞けたぜ?』

 武田は、鼠が鳴くみたいな声で嗤った。

 そして心の準備などお構いなしに話を始めた。


 その女は一年浪人をして進学したらしい。元々容姿にコンプレックスがあり人付き合いも不得手だった。成績に秀でているわけでもなく、胸を張れる特技もない。大学生活を経て多少の変化はあったらしいが、入学当初は周囲に馴染めず、いつもキャンパスの片隅で息を潜めていた。

 そんな彼女の目を惹いたのが水無瀬砂子だった。

 彼女は学内でも知られた存在だったらしい。秀麗な容姿。知性漂う立ち振る舞い。それでいてどこか孤独を滲ませる相貌。他者と関わりを持たないのは自分と同じだが、いつも凛として卑屈さを感じさせない。遠くから眺める水無瀬砂子は高嶺の花を額縁で飾ったかのような存在で、おいそれと近付ける雰囲気ではなかった。

 女は、水無瀬に憧れた。

 だから同期から水無瀬の素行を聞いたときはとても信じられなかった。しかし誰に聞いても……それこそ水無瀬に近しい人間からも同じ評判が返ってくるので納得するしかなかったという。

『所謂な、とっかえひっかえってやつだったらしい』

 武田は、くつくつと嗤った。

 一見してそんな素振りは窺えなかった。だが孤高を気取る裏側で、水無瀬は学内の人間関係を掻き回していた。さながらフェロモンを撒き散らす毒蛾のように。本人にその気がなくとも存在するだけで雄を惹きつける。そして彼女は惹きつけられた雄を拒まなかった。雌雄がいれば関係が狂い、雄同士なら争いが起きた。ゆえに彼女に近付いたコミュニティは必ず崩壊した。まるで病魔に侵されていくようだった。

 女は語った。恐らく水無瀬に悪意はなかったのだろうと。

 彼女は世界に興味がなかった。人間に興味がなかった。一時の気まぐれで身を預けることはあっても心は別の何かを求めていた。だから小さな世界が破滅を迎えようと彼女には些末なことだった。

 だが、そんな奔放は、いつしか彼女自身に責任を求めてきた。

『妊娠していたそうだ。父親が誰かもわからないガキをな』

 当時の水無瀬がどういう心境にあったのか。それは誰にも分からない。けれど堕胎は選ばなかったらしい。キャンパスに姿を見せることがなくなり、やがて出産の報が流れてきた。扱いは休学だったそうだが育児をしながら通えるものでもない。誰もが水無瀬はこのまま大学を去るものと考えた。だが予想は外れた。

 水無瀬は何食わぬ顔で大学に戻ってきた。以前と何ひとつ変わらぬまま、何事もなかったように。周囲の人間は困惑し、彼女に尋ねた。一体子供はどうしたのか。

 彼女は悪びれる様子もなく答えたという。

 実家の両親に任せてきたと。

「……」

「全くあの女らしいじゃないか。ええ?」

 同意を得られないことを承知で、武田は袖を引いてくる。

 俺は、黙り続けるしかない。

 引き笑う声が耳に障った。

『しかしまあ、そんな無理は通らなかったんだろうな。いくらもしないうちにあの女は再び大学から姿を消した。どこにいたかは定かじゃない。だが子供と一緒だったのは確からしい』

 そして、その一報は女の憧憬を失わせるには十分だった。

『児童相談所の調査が入ったんだってよ』

 くちゃりと舌を弄ぶような音。武田は声をひそめ「わかるよな?」とささめいた。分からないと惚けたかったが、奴はその余地を与えてはくれなかった。刺した刃で抉るように嬉々として断じた。

『虐待だ。水無瀬砂子はガキを虐待していたんだ』

 嬉々として、おぞましい言葉を口にした。

 虐待。

『詳細は分からない。だが躾で済ませられる範疇にはなかったんだろう。近所からの通報を受け、公的機関がそれに応じた。水無瀬の家の前では度々相談員が目撃されるようになった。ヒステリックに喚き散らす女の姿も』

 一部始終を映した動画が学内で出回っていたという。

 動かしがたい証拠だった。

 その後、母子がどうなったのか。そこまでは女も知らなかった。水無瀬と子どもは引き離されたのか。それとも指導の甲斐あって虐待が収まったのか。知ろうと思えば知ることはできた。けれどもう知りたいとは思わなかった。記憶を消したいとすら考えた。そんな人間に憧れた自分が、情けなくて堪らなかった。

『だからその女もそれ以上のことは分からんそうだ。少なくとも女が卒業するまでは水無瀬が大学に姿を見せることはなかった。大学を辞めて、どこか別の町に移り住んだのかも知れん。だが彼女にとってはどうでも良いことだった。最後に彼女はこう吐き捨てていたよ。一度堕ちた人間が這い上がるのは難しい。どこにいても似たようなことを繰り返しているに違いないってな』

 俺も同感だ。

 武田は、そんな言葉で話を締めた。

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