願い
俺は何も言うことができなかった。それが相手の期待する反応だと理解していても。
奴は総括するように言った。
『まあ、そんなもんだ』
どこか勝ち誇るような響きがあった。
『そんなもんなんだよ安倉。どんな大層な夢を掲げようと人間ってやつは変わる。堕落するんだ。あの女も例外じゃなかった。それだけの話だ』
「…………待ってくれ」
『お前が人生の貴重な時間を捧げるほどの価値はなかったんだよ』
武田は、ぴしゃりと言い切った。
俺は、震える掌で額を押さえた。
「……待ってくれ武田」
『だからな安倉。お前もそろそろ大人になったらどうだ? お前の作風じゃ売れるのは無理だ。先は知れてる。そのうえ綺麗な想い出にまで裏切られたんじゃしがみ付く理由もないだろう? いい加減、筆をおいて楽に』
「俺は待てと言ってるんだッ!」
叫んだ。さすがに減らず口も黙った。互いに無音を交わし合った。
ふと思った。こいつはどこから電話をかけてきているのだろう? 時刻は9時を過ぎている。自宅にいても良さそうな時間だ。だが電話口からは生活音が聞こえてこない。外からかけているかと言えばそれも違う。雑音がないのだ。
渇いた舌を動かした。
「武田。お前さっきから誰の話をしているんだ?」
奴は失笑したようだった。
何も聞こえはしなかったが、それだけははっきりと分かった。
『……なるほどな。現実を直視したくないというお前の心情を汲み取れなかったのは配慮に欠ける振る舞いだったと反省しよう。悪かった。だがな安倉。これは確実な話なんだ。信じられんのも無理はない。だが』
「違う。そうじゃない」
再び奴は口を噤んだ。再び、不自然な無音が聞こえてくる。
耳から携帯を離しディスプレイを覗く。着信元は武田。武田真明で間違いない。
もう一度耳に当てた。
「お前、今、言ったよな? 水無瀬は変わった。夢をどこかへ置いてきたって」
『ああ、そういう趣旨で伝えたつもりだ』
「水無瀬の夢ってのは小説家として生きることか?」
「そうだ。違うのか」
「違わない。でも、どうしてお前が水無瀬の夢が作家になることだと知ってるんだ?」
奴は三度沈黙した。狼狽えているというふうでもない。只々耳の神経に障るような無音が返ってくる。まるで底のない暗闇がぽっかりと口を開けているような。
ややあって、くぐもった声が響いてきた。
『……本人から聞いたんだよ』
「水無瀬と親しくもなかったお前が?」
そんなはずはない。そもそも水無瀬がその夢を教えてくれたのは、俺が先に夢を打ち明けたからだ。彼女を信頼し、こいつなら嗤うまいと秘めていた目標を打ち明けたからだ。だから彼女も応えてくれた。
それは決して擬態ではない。擬態で他者を眩まして、誰彼構わず惑わすような女が、他人に携帯を委ねるはずがない。だから武田がそれを知っているはずがない。
「それに……子供は両親に預けただと? 本当に、誰の話をしている」
筐体を持つ手が震えた。
「水無瀬に両親はいない。彼女は姉と二人暮らしだった。事故で……親を亡くしたんだ。だから俺を助けてくれた。父親を亡くした俺に同情してくれたんだ。お前の言っていることは全部嘘だ。嘘を吐くな。お前は」
「…………」
「お前は、誰だ……?」
その瞬間、武田は……武田に擬態していた何かはゲラゲラと耳障りな音を立てた。その哄笑はヘリウムを吸引したように甲高いものへと変化し、やがて聞き覚えのある声に落ち着いた。
『即興にしてもお粗末が過ぎたかしらねえ?』
すずり。
あの、黒い悪魔だった。
『騙されなかったわね。ちょっと遊んであげようと思ったのだけれど』
「糞野郎……ッ!」
携帯を握る手に力が篭った。手の内でみしりと音が軋めく。それで筐体が砕けるわけではない。相手を黙らせる効果もなかった。女は平然と続けてくる。
『ええ嘘。薄っぺらな嘘よ。水無瀬砂子が淫行に耽っていたなんて根も葉もない嘘』
「当たり前だ。水無瀬砂子が……そんな無責任な真似をするものか!」
『だとしたら? 彼女ほどの物書きが未だに世に出ていない理由は?』
「そ……」
反論し掛けて言葉に詰まった。情けなくも視線が泳ぐ。
気勢は、自分でも驚くほど萎んでいた。
「それは、たまたま……運が悪くて」
『貴方でさえ、一応は世に出ていると言うのに?』
そうだ。癪だが結局はそこへ辿り着くのだ。
俺にできたことがなぜ水無瀬にできない? なぜ誰も水無瀬砂子を知らない?
浮かぶのは彼女の堕落などという荒唐無稽な理由ではない。それよりももっと、ごく普通に……日々の暮らしを営むなかで、作家という職業を選ばなかっただけではないか? 別の道を歩んでいるだけなのではないか? そんな誰に非難されることもない、至極真っ当な可能性だった。
労力に見合うだけの対価がない。
そう見切りを付けたところで、何ら不思議はないのだから。
『ええ、そうよ。水無瀬砂子だってとっくに夢を諦めているわ』
ちっぽけなスピーカーから、からからと嘲弄が鳴り響いた。
『きっと彼女も幸せな現実を生きている。いつまでも夢に縛られているのは貴方一人よ』
「……黙れ」
ディスプレイを指で叩いた。嘲りは止まらなかった。通話をオフにしても、電源を切っても無駄だった。割れた声が耳を蝕んだ。
『ねえ、なぜ拒むの? 私が望むのは対等な取引。貴方の重荷を差し出してくれさえすれば相応の見返りを約束しようと言っているの。それは貴方が思うよりずっと安らかで心地の良いものよ』
声は糸のように絡み付き、右手の自由を奪い取る。
『今まで犠牲にしてきたものが無駄になるのが我慢ならない? 気持ちは分かるわ。けれど、それは誤謬というもの。果てのない砂漠を歩み続けるには人間の命は儚過ぎるの。貴方はもう疲れ果てている。これからの生活はどうするの? 老いた母親をどうするつもり? 今すべてを諦めなければ何もかも手遅れになってしまうのではなくて?』
「だまれっ!」
携帯を畳に叩きつけた。筐体は造作もなく跳ねて転がった。肩で息を吐いた。静かになった。そんな安堵を見計らったように悪魔は柔らかな声を響かせた。
『……今、諦めたら得られるものはあるわ。たとえば……そう、こんなのはどう?』
誘われ、顔を上げた。
息を呑んだ。
眼前に一糸纏わぬ女の姿があった。闇に浮かぶ蝋燭のような素肌。紅い瞳。
俺は、咄嗟に顔を逸らした。しかし両頬を掴む手が強引にそれを振り向かせた。その僅か一瞬に、悪魔の姿は全くの別人のものへと変貌していた。あの頃と寸分も違わない水無瀬砂子の姿へと。
水無瀬は……水無瀬の姿をした毒虫は、にっこり微笑むと俺の頸元に舌を這わせた。図らず漏れた吐息。その隙間を縫うようにして口内におぞましさが侵入してくる。快と不快。恍惚と恥辱。それらが粘液として絡み付いてくる。水無瀬は柔らかなものを押し付け、体重を預けてきた。足が蕩け、成す術もなく腰が崩れた。抵抗ができなかった。毒を注がれていると感じた。ある種の昆虫がそうするように体内に毒を注入されている。体組織に入り込んだそれは、肉も、内臓も、骨も溶かし、内側をドロドロに溶かしていく。自分の芯にある確かなものが奪われ、溶解した身体が部屋全体に広がっていく。そんな快感が脳を支配した。
快感。そう……快感だ。確かにそれは気持ちの良いことだった。
『どう? 貴方が望めば、本物の水無瀬砂子を抱かせてあげることもできるのよ?』
どこか遠くで、声が反響した。
あまりに安らかで、壊れてしまいそうだった。
『ねえ? 口では親友だなんて言っていたけれど本当は水無瀬砂子に欲情していたのでしょう? 押し倒して、無理矢理犯して、それでも彼女は自分を受け入れてくれるだなんて幼稚な妄想に耽っていたのでしょう?』
そうなのだろうか。そうなのかも知れない。
俺はただ、綺麗な女の子の隣にいられて優越感に浸っていただけなのかも知れない。
共感も、友情も、尊敬も、下卑た欲望を覆うための建前だったのかも知れない。
俺はただ……ただ、彼女のことを――
『私ならそれを現実のものにしてあげることができる。苦痛も、虚しさも、儚さからも解放された世界で、貴方たち二人を永遠に耽溺させることができる。だから、ねえ?』
悪魔が、囁く。
『貴方が大切にしているものを私に頂戴?』
ああ……そうだ。もう、それで良いのではないか?
どうせ無理なのだ。どれだけ虚しさに耐えても、どれだけ寂しさを圧し殺しても、この砂漠を歩き通すことなどできないのだ。だって、そうじゃないか。脚はもう蕩けてしまった。もう前には進めない。それに、今はとても気持ち良い。とても安らかだ。ここに水無瀬がいてくれたなら、それ以上何を望む必要があるのだろう?
そもそも、俺に願いなんてあったのか?
真実から手に入れたいものなんてあったのか?
俺は、彼女と、何を願った?
何を求めて旅をしてきた?
仰向けのまま天井を眺めた。古ぼけて湿った板張りの天井。その色合いには濃淡があった。左が暗く、右が明るい。色の明るいほうへ目を向けると出窓から光が差し込んでいた。
瞳のような満月が在った。
見事だった。散漫に広がっていた意識。それらが一点に収束していくように感じた。微睡みは薄れ、澄み切った感覚だけが残っていた。
上半身を起こした。それを妨げる重みはなかった。悪魔の姿は、いつの間にか消え失せていた。窓辺に立つ脚はしっかりと床を踏みしめている。畳の感触を確かめながら俺を照らす光を見つめた。
渦巻いていた全ての疑問。その答えが微笑んでいるようだった。触れることもできるし、握ることもできそうだった。笑いかけることも。抱き寄せることも。
全ては、この胸の内に在った。
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