Drifter

 一心不乱に文字を打った。眠ること。食べること。瞬きや、呼吸すら忘れ、ただひたすらに文字を綴った。昨日までの焦りはなかった。ただひたすらに軽やかだった。

 夜空を満たす、あの満月にすら届きそうなほど。

「ねえ? 取引をしましょう。対等な取引を」

 部屋の片隅から声がする。取るに足らない、ちっぽけな声が。

 無視をしていると、声は沈黙を埋めてきた。

「貴方は文字を捨て、私は幸福を与える。貴方はもう苦しまなくてもいいの。虚しさに耐える必要はないの。何も損はないでしょう?」

 やはり無視。媚びるような調子に変わった。

「夢を捨てたくないのね? だったらこんなのはどう? 貴方に才能を与えるわ。人類史上かつてないほど卓越した、文章家としての才能を。ええ、貴方には絶対の栄光を約束する。代わりに水無瀬砂子の命を頂戴? もう、それで構わないでしょう?」

 戯言だ。聞くに堪えない。

 聴覚に神経を裂くことすら無駄に思えてくる。

 声は、さらに縋り付いてくる。

「どうしてやめないの? 無駄よ。この先には何もないわ。きっと延々と砂漠が続くだけ。そうでなくても辿り着ける保証なんてどこにもない。待っているのは孤独と寂しさと惨めな末路よ。それなのに、どうして歩むのをやめないの? 失ったものを……犠牲にしたものを取り返さないと気が済まない? そうまでして貴方が物語を綴る理由は?」

 俺は、キーを叩く手を止めた。

「貴方は何を望むの? 何が欲しいの? 齢を重ね、老い衰えて死ぬまでの分陰で、真実から手に入れたいものは一体何?」

 振り返った。悪魔は壁際で後ろ手を組んでいた。声の調子とは裏腹に、その口元には余裕のある笑みが浮かんでいた。

 上手く煽られたのかも知れない。

 だが、それもどうでもいい。

 俺は、答えを差し出した。

「月の川だ」

 夜空を見上げた。世界は光で満たされていた。

 彼は、何を求めて旅をするのか?

 何を望んで歩み続けるのか?

 悩む必要はなかった。迷う必要はなかった。答えは、初めからここに在った。

 彼がその輝きに心を奪われたのは、彼の心にも同じものが映し出されていたからだ。

 それを美しいと感じる心が在ったからだ。

 だから彼は歩み続けた。

 荒野を抜け、嵐を抜け、弾丸の雨を掻い潜った。

 保証はなくとも。後戻りはできなくとも。世界が闇に包まれようとも。

 空に輝く月を心に、彼はどこまでも歩み続けた。

 いつか月の川を渡るために。

「世界の果てに辿り着くために」

 だから無駄口を叩いている暇などない。

 

「去れ。悪魔め。。お前に喰わせる餌はない。お前は何も奪えない。お前は何も与えられない。何も得られず、何も失えないまま、ただここから去るだけだ」

 

 失った苦しみも。

 いつか勝ち獲る栄光も――

 

 見据え、宣言した。

「全てはこの俺のものだ」

「Athah gabor leolam Adonai!」

 悪魔は、何事かを叫んだ。

「素晴らしいわ、アントニウス!」

 その瞳が、輝いていた。

 歓迎に手を広げ、口の端を釣り上げた。

「敗北者は私よ。今は退散するわ。けれど……覚えておきなさい、安倉草一郎。荒野を征く者よ。貴方は苦難から逃れることはできない。安息を得ることはできない。貴方はこれからも数多を失い、数多を支払うことになるでしょう。それでも」

 ふと思った。何かが違うと。

 悪魔の声が……相貌が、今までとはどこか違っている。そこに嘲りがなかった。忌々しさがなかった。邪悪さも、薄気味悪さも。只々真摯な眼差しだけが在った。

 呆然と見つめ返し、気付いた。

(瞳が、黒い……?)

 悪魔は、続けた。

「それでも覚えておきなさい。安倉草一郎。貴方は犠牲に報いようとしてはいけない。失ったものに報いようとしてはいけない。それに贖おうとした瞬間、過去は貴方を縛り付ける。失った過去に束縛された生き方は、必ず多くの人間を不幸にするでしょう。貴方自身も含めて」

「君は……誰だ?」

 悪魔は……悪魔と同じ姿をした少女は、名乗る代わりに微笑んだ。

 小馬鹿にするようなそれとはまるで違う、母親のような笑みだった。

「貴方の正しさは、貴方自身が決めなさい」

 どうかそれを忘れないで。

 少女が繰り返したとき、既にその姿は薄れ始めていた。硝子のように光を透過し、間もなく輪郭すら見えなくなる。あとには見飽きた部屋だけが残った。

 立ち上がり、少女の消えた場所に手を伸ばした。掴めるのは冷ややかな空気だけだった。

 全ては夢だったのか。

 自分が見たもの。聞いたもの。何もかもが疑わしくなってくる。それほどまでに静かだった。

 出窓から景色を望んだ。月は変わらず浮かんでいたが僅かに周囲が白み始めている。紺と白色のグラデーションを眺めていると、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。雀の鳴き声に、エンジン音。

 世界が目覚めようとしていた。

 窓辺を後にし、冷蔵庫を開いた。ボトルの水を口に含む。

 生き返るようだった。

 座机に戻り、片隅にある黒い本を見下ろした。

「多くを失い、多くを支払う、か」

 正しいのだろう。俺はこれからも多くを失うことになる。何も失わない生などない。生きるとは死ぬまで失い続けることだ。だからこそ勝ち獲ることができる。自らの願いを見失わなければ。

 本を手に取った。明るさに照らせば何てことのない色をしていた。

 本は、違う世界へ繋がる扉だ。

 だが、どこへ向かうかは自分が決める。

「今日は紙の日だったな」

 着の身着のままアパートを出た。他の雑誌類も転がっていたが、まとめるのが面倒だった。とりあえずこの一冊だけでも手放しておきたい。仕事の邪魔をされるのはもう懲り懲りだ。

 階段を駆け降りゴミ捨て場へ向かう。徹夜明けでも足取りは軽い。今なら月の川でもステップで渡れそうだ。

 月の川。

 そうだ。それがいい。タイトルにするならそれがいい。

「月の川だ」

 早速、田口氏に相談してみよう。彼は納得するだろうか? なに、しなくたって構うものか。我儘ぐらい言ってやる。これからもずっと言い続けてやる。

 もはや不安はなかった。昂ぶりしかなかった。芯から熱いものが込み上げてきて笑みを噛むのに精一杯だった。

 俺は、いつまでも書き続けることができる。次も。その次も。その次の次も。

 そうして歩み続けた先に、君がいる。

 世界の果てで、君が待っている。

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