夜更けの獣

 バイト帰りに本屋に立ち寄った。

 陳列された本を見るとついつい彼女の名前を探してしまう。平積みの新刊から棚差しまで、背に指を当てながら念入りに確認してしまう。無意味な慰めと理解していても、そうすることが癖になってしまっていた。期待する名はいつまでたっても現れない。編集者に調べさせても答えは決まって同じだった。水無瀬砂子などという作家は知らない。聞いたこともない、と。

 数年前どこかの宝石店で働いているという噂を聞いた。情報源を辿ってみても最後まで真偽を確認することはできなかった。登録した番号にも繋がらなくなって久しい。俺にはもう、彼女との記憶を信じる以外に、彼女と再会する方法が分からなくなっていた。

 書棚には、名の知れたベテランの作品から、よく知らない作家のものまで隙間なく敷き詰められている。その窮屈な有様を見ていると段々と気が滅入ってくる。

 以前は背表紙を眺めているだけで楽しかった。そこにどんな物語が綴られているのか。どんな世界が広がっているのか。想像と興奮に胸を躍らせた。

 本は扉だった。違う世界へ繋がる扉だ。

 しかし、今はもう、

「あっ、すみません」

 煩悶に耽って気付かなかったらしい。隣の客の肩に触れてしまっていた。中学生ぐらいのお人好しそうな少年で、ぶつかったのはこちらなのに慌てた様子で頭を下げてくる。俺は、無言で左手を上げた。彼とのやり取りはそれで終わった。少年は再び書棚へ向き直る。その瞳の輝きに、俺は一瞬目を奪われた。

 やがて少年は、一冊の本を手に取った。タイトルは『ナインライヴス』 驚いたことに三週間前に発売した、俺の新刊だった。学生時代から温めていた妄想を形にしたものだが、やはり初動の数字が良くなかった。店から消えるのも時間の問題だろう。

 この少年が買ってくれるだけでもありがたい。

 胸に感謝の念が湧いた。だが、それが落胆に変わるのも一瞬だった。

 少年は、表紙を眺めこそすれレジへ向かおうとはしなかった。俺の本を棚へ戻すと、別の一冊を手に抱え、そそくさとその場を離れた。最初からそちらが目当てだったようだ。嘆息し、棚に戻された本を見つめた。

 できることなら在庫を全部買い取ってやりたい。

 だが、そのためには在庫があってはならない。

 この一冊を余分に買い取るだけの金すら、俺は満足に得られていないのだ。

 書棚には俺よりも若い作家の作品がいくらでも並んでいる。売れ線を狙った程度の低い話だと笑い飛ばしてやりたいところだが読んでみるとその完成度の高さに打ちのめされる。緻密な構成。瑞々しい感性。どこを切り取っても俺の勝てる要素がない。無為に齢を重ねるたびに、その差は益々開いていく。その現実を突きつけられることが、今はただ恐ろしい。

 俺はもう、あの少年のように瞳を輝かせることはできなかった。


 最近は、夜も満足に眠れないことが多い。寝ても夜更けに目が覚める。そういうときは決まって何かの夢を見ている。何の夢かは思い出せない。恐ろしいという感覚だけが染みのようにこびり付き、俺は、頭から布団を被る。

 現状に対する不安。

 将来に対する不安。

 ありとあらゆる不安が獣のように襲い掛かってくる。

「そんな想いをしてまで、どうして書き続けなければいけないの?」

 部屋の片隅で悪魔が嗤ったような気がした。

 気がしただけかも知れない。もう一度瞼を開けたとき、そこには誰もいなかった。真っ暗な部屋のなかで、俺がひとり泣いているだけだった。

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