花のようなもの

「優一、何か変わったことはあった?」

 翌日も母は同じことを尋ねてきた。その表情がいつもより明るく見えた。体調が良い、というより機嫌が良さそうだった。

 昨日、素直に謝ったからだろうか?

 不思議に思いつつ「別にないよ」と丸椅子を引いた。

「何か、良いことがあったんじゃない?」

 母は質問を付け加えた。俺は、頭を掻き「何かあったかな」と宙を見上げた。それは空とぼけだった。すぐに思い浮かんだことはあった。けれど進んで話す気にはなれなかった。俺自身それを良し悪しで捉えていなかったからだ。腕を組み「良いことってわけじゃないけど」と前置きした。

「昨日ここでひとと知り合ったよ。向こうもお母さんが入院してるらしい。タオルを貸してあげたから、これから返して貰いに行くつもり」

 母は「ふうん」と意味ありげに笑った。

「女の子?」

「そうだよ」

「可愛い?」

「……どっちかと言えば」

「ふうん」

「何だよ」

 母は「べっつに~?」とこけた頬をにんまりさせた。俺はむっとした。

 大人はすぐにそういう方向へ話を持って行こうとする。小魚を見たら全部メダカと答えるぐらい単純なのだ。俺と穂乃花は何でもない。友人ですらない。そもそも彼女はそんなことに気が回せる状況ではない。浮ついた気持ちで接するのは不謹慎というものだ。

 そう口に出して反論したわけではないが謂わんとしていることは察したらしい。母は小癪な貌で「ま、いいけどね~」と引き下がった。

 そして不意に静かになった。俺は、顔を覗き込んだ。

「……母さん?」

 母は目を閉じていた。まるで眠ってしまったみたいに。その土気色の顔があまりに人形めいていたものだから俺は言い知れない不安を覚えた。視線がナースコールを探した。

「大丈夫よ」

 母は、薄く笑った。

「少し疲れているだけ。直によくなるから」

 とてもそうは思えない声だった。母は安心させるように「大丈夫」と繰り返す。俺は、それ以上はどうすることもできなかった。何も言えないでいると、母は、

「出会いを大事にしな、優一」

 そんなことを言った。

「大事になさい。それは花のようなものよ。昨日まで元気に咲いていたものがある日突然枯れてしまってもおかしくはない。逆にすぐに枯れそうだったものが、いつまでもずっと咲き続けていたりもする。大切に育てれば、きっと思いがけなく美しい色を見せてくれるわ」

 大事にしなさい。

 母は、唱えるように繰り返した。


「七尾さん、昨日はありがとうございました」

 見舞いを終え、植物園へ向かうと、穂乃花が笑顔で出迎えてくれた。母があんなふうにからかうものだから面と向かって話しづらかった。我ながら不愛想にタオルを受け取ったあとお母さんの具合はどうかと尋ねた。穂乃花は嬉しさと不安が半々に入り混じる複雑な表情を見せた。

「おかげさまで、危険な状態からは脱したそうです。ただ、まだ意識が戻りません。先生が仰るには慎重に経過を観察する必要があるらしいのですが……」

 そう言葉を濁した。彼女が何を恐れているのか。想像できないほど鈍くはない。だからそれ以上は訊かなかった。

 用は済んだので帰っても良かったのだが俺はその場に留まることにした。穂乃花は穂乃花で緊張の糸を緩めたかったのだろう。俺を話し相手として認めてくれた。

 自然と互いの母親のことが話題になった。

 穂乃花の母親はとても出来た人物だったようだ。優しく、温かく、愛情に溢れている。それでいて単に娘を甘やかすだけでなく、時に厳しく指導した。

「勉強については特に。母自身勉強家なものですから私にも相応の水準を求めているのだと思います。知識の有無は幸福の有無と知りなさい、と日頃から口癖のように言い聞かされてきました」

「それは堪らないね」

 穂乃花は「そうでしょう?」と苦笑した。でも不満を募らせているふうには見えなかった。母の教育方針を受け入れ、そこに苦痛を感じていないのだ。俺にはとても信じられない話だった。勉強に関しては人並程度のことを言われた記憶しかない。

「小説を読むのも好きで、その点は私も母に似ました。最近は二人で安倉草一郎先生の作品を読んだりしています」

「安倉? ああ、何か話題になってたよね。読んだことはないけど」

「興味があるならお貸ししましょうか? ちょうど今持ってきてるんです」

 穂乃花はバッグの中から一冊の文庫本を取り出した。タイトルは『月の川』

 表紙には、夜の荒野を流れる川、水面に映し出された輝く月。丘の上からそれらを見下ろす一人の男が描かれていた。書店で何度か見かけた絵だ。

「綺麗な表紙だよね。どんな話なの」

「アルセルスという少年が『月の川』と呼ばれる、一種の理想郷を探すために旅をするというストーリーです。娯楽性もありますが、考えさせられる要素が多いですね。何より作品の雰囲気がとても綺麗で、そこが一番の魅力だと思っています」

 穂乃花は、記憶に浸るように口許を緩めた。俺は、俺が読んでも面白いのだろうかと素朴に考える。現国はあまり得意ではないのだ。とは言え、読む気はないと突き返すのも無礼だろう。ひとまずは受け取っておくことにした。

「読んだら感想を聞かせてくださいね」

 穂乃花は無邪気に声を弾ませた。

 それからも穂乃花は母親のことをいくつか話してくれた。穂乃花の口から語られる母親の姿は実に好ましく、聞いているだけでその人柄を好きになりそうだった。俺は、穂乃花の話に頷きながら頭の片隅でこう考えた。俺の母親はどうだったろう、と。

 穂乃花の母親は料理が得意で彼女のためによくお菓子を作ってくれたらしい。俺の母は料理が不得手でケーキを作ろうとして黒い塊をこしらえたことがある。穂乃花の母親は運動が苦手で自転車すらまともに乗ることができない。俺の母親はスポーツ万能でフルマラソンだって余裕で走り切る。ただ庭で花を植えるのが好きというところは共通していた。

(一体何なんだろうな)

 俺は、可笑しくなって、口許を隠した。

 それぞれ異なる思い出があり、異なる母親像がある。自分の家庭では当たり前だと思っていた価値観が、穂乃花の家庭ではまるで違っていたりする。読書が好き。走るのが好き。オペラが好き。オルタナが好き。猫が好き。爬虫類が好き。山が好き。海岸線が好き。

 正しい形なんてないのかも知れない。

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