花の命が尽きる頃

 物語は主人公アルセルスの幼少期から始まる。彼は砂漠にある小さな村で暮らしていた。アルセルスにはフォルネリウスという幼馴染がいて二人でよくいたずらをしていた。彼らの暮らしはとても貧しく、水も満足に手に入れられない。二人はいつか裕福になって幸せに暮らそうと夢を語り合うが、具体的な展望を開けずにいる。そんな折、旅の行商人から世界の果てに『月の川』と呼ばれる場所があると聞かされる。その川を渡った先には、餓えも病も争いもなく、いつまでも穏やかに暮らせる永遠の国があるという。アルセルスとフォルネリウスは、いつか二人で月の川を渡ろうと希望を抱く。そんな矢先、彼らの暮らす村が異民族の襲撃に遭う。家族や親しい村人が次々と殺されていくなか、二人は、たとえ離れ離れになってもいつか月の川のほとりで落ち合おうと約束を交わす。アルセルスとフォルネリウスは引き離され、アルセルスは奴隷に身を落とす。家畜同然に扱われる屈辱の日々。やがてアルセルスはその境遇から抜け出し、荒野を彷徨う冒険の旅に出る。

 物語は、アルセルスが美しい川に辿り着き、そこで佇む人影を見つけたところで終わりを迎える。 


 天井を見上げた。診察室に月はなかった。望むための窓すらない。淡白に光るだけの電灯が、壁と床を潔癖に照らし出している。

 俺は小説のことは分からない。『月の川』が良いものかどうかも判断できなかった。つまらなくはなかったが面白かったと言える自信もない。ただひとつ心に残る場面はあった。物語の終盤だ。アルセルスは旅の途中、彼から両親を奪った異民族の首領と再会する。男は、アルセルスのことを、かつて自らが焼き払った村の住民だと気付かない。アルセルスは憎悪に身を焦がしながら刃を掴む。何も知らない男に近付き、そして……。

「お待たせしたね、優一くん」

 思考が途切れた。冬川先生だ。部屋の奧からふらりと姿を現し安っぽい椅子に腰を掛ける。上背だけはあるので前に座られると若干の圧迫感を感じる。加えてこの日はいつもと雰囲気が違っていた。柔和な表情は変わらないが、そこに普段にはない繊細さが見て取れた。硝子細工を前にしたような繊細さ。優しく、労わりのあるその目つきは、俺の不安を大いに煽った。この病院と関わりを持ってから何度か目にしたことがある、聞きたくもない話が始まる前兆だ。

 低い天井に、狭苦しい診察室。気遣いを演出する優男。何もかも憂鬱を掻き立てる。

 何度目かも分からない溜息を漏らす。

「遅かったですね。またあの婆さんですか」

「任せてきたよ。さすがにそれどころではないからね」

 先生は……慣れているからだろう。変に勿体ぶらず「さて」と説明を始めた。何かの数値と、聞き慣れない用語を並べ、現状を解説する。

「昨晩から未明にかけて喘鳴が見られるようになった。これは気道で増加した分泌液の振動が原因だ。臭気水素酸スコポラミン……抑制剤を投与したから今は抑えられているが、今後も続くようであれば使用を継続していく。抑制剤には鎮静剤としての効果もある。もっとも本人の意識レベルが低下しているから、そもそも苦痛は――」

 俺は、話の半分も理解できなかったが、いくつかの単語は拾うことができた。

 苦痛。意識。数時間。低下。瀕する。危険。疼痛。危険。危険。危険。

「そう、つまりは非常に危険な状態だ」

 その一言で十分だった。

 先生は、安椅子を軋ませ、こう締めくくった。

「あとはお母さんの体力次第だろう」

 努めて平静な口ぶりだった。過剰に深刻さを演出しないのは俺に対する配慮だろうか。しかし、その目論見とは裏腹に、彼の言葉は重く胸に圧し掛かった。反発したいという気持ちが自然に生まれた。

「その言葉は半年前にも聞きました」

 彼は、慎重に頷いた。

「君の言う通りだ。医者の見立ては外れたほうが良いこともある。お母さん次第では再び外れる可能性もないとは言えない。でも、いつかはそのときがくるということは半年間ずっと話をしてきたね。君も分かってくれていると思うが」

 彼は淡々と言った。無論、俺も理解できないわけではない。母とは昨日から話せていない。意識がないからだ。別れの時が近付いていることは俺にだって理解できる。俺にだって……。

 不意に、奇妙な感覚に囚われた。目の前の現実が遠のいていくような感覚だ。冬川先生の姿も、診察室の風景も、分厚い膜に覆われてしまったかのよう鈍く感じる。鼓膜は塞がり、会話が頭に入ってこない。いつか船で嘔吐したみたいに世界がぐるぐると回転を始める。

 母は死ぬ。助からない。半年以上前から知っていたことだ。知っていたことなのに、手足の震えが止まらない。身体の真ん中に穴を空けられたように力がどこかへ抜け出していく。

 何もできない。どうすることもできない。してやれることは何もない。無力を噛み締めて祈ることしかできない。そして、それすら意味がない。

 透明な膜の向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。

「苦痛は感じていない。そういう処置を施してきた。君のお母さんは苦しまずに眠りに付けるはずだ。最期のときは側にいて手を握ってあげなさい。それは君にしかできないことだ。君にはまだ、君にしかできないことが残っているのだよ」

 静かになった。嗚咽だけが響いていた。情けなく噎せる声。俺の声。

 耳が熱くなった。

 そのときだった。ノックの音がした。次いで引き戸が滑る音。涙目のまま振り返ると扉の隙間に一人の女が立っていた。

(……誰だ)

 看護師ではなかった。大人ですらない。ラフな私服に身を包んだ女だった。通院患者か、見舞客だろうか。でも、どこか病院にそぐわない雰囲気がある。

 先客の存在が意外だったのか、現れた女は僅かに眉を潜めた。でも、それだけだった。臆する様子もなくじっとこちらを観察してきた。慌てて目元を拭った。

「黒巣くん」

 冬川先生は、そんな名前を口にした。珍しく、咎めるような響きがあった。

「君は礼儀を知らない子ではないはずだよ。取り込み中だ。それに……大丈夫なのか? 今日はここに来る予定はなかったはずだが」

 黒巣と呼ばれた女は「ええ」と静かに頷いた。

「無作法でした。申し訳ありません。でも少しだけ相談したいことがあって」

「急ぎのことなのか?」

「勝民さんのことで」

 先生は、その一言でぐっと言葉を詰まらせた。口を真横に結び、苦虫を噛み潰したような顔を作る。俺と女を見比べ、思い悩む様子を見せていたが、やがて重く息を吐いた。

「長い話ではないんだね?」

「お時間は取らせません」

「優一くん、構わないか?」

 俺は、こくりと頷いた。先生は席を立つと、女と一緒に部屋を出る。

 不思議な女だった。齢は俺とそう変わらないだろうに、迫力と言うか、どこか超然とした雰囲気があった。どういう生き方をすれば、ああいう空気が纏えるようになるのだろう? それに先生との関係もよく分からない。どうにも患者と医者がする会話には聞こえなかったのだが……。

 しばし想像を巡らせ、こう結論付けた。

(関係ないか)

 母がいなくなればこの病院とも縁が切れる。冬川先生がどんな事情を抱えていようと最早関係のない話だ。

 関係ない。溜息しか出ない。

 扉の向こうで二人が何かをささめいている。だが聞き取れない声に耳を欹てても苛々するだけだ。俺は、室内の風景に視線を巡らせた。面白いものがあるわけでもなかった。予定のないカレンダー。モニターの消えたパソコン。そして……机の上に目を向けたとき、その片隅に、あるものが置かれてあることに気が付いた。

 黒い装丁の本。

 文庫本のように小さなものではない。分厚いハードカバーぐらいの大きさがあった。表紙にも、背表紙にも、タイトルらしきものは見当たらない。壁も天井も白いなか、その空間だけが黒く塗り潰されているようだった。

 医学書の類だろう。医者の机の上にあるのだから。興味が惹かれる理由はなかった。けれど、そのままでは捨て置けない異様さを感じていた。あの黒巣という女がそうであったように。

 非常識で、不誠実なことをしている。

 そう強く自覚しながら、俺はその黒い本に手を伸ばしていた。

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