その白い花

 白い百合の花。

 心に浮かんだものはそれだった。庭園で雫を輝かせる一輪の花。彼女の無垢な衣装がそれを連想させたのだろうか。その色は夕陽の赤さに染まってなお、本来の清廉さを失っていないようだった。まるで記憶の中に咲く、あの白い花のように。

 俺の意識は、思い出の中にすっかり埋没していた。息を忘れ、涙を輝かせる少女に見惚れていた。もっともさほど長い時間でもなかった。我に返ったのは、同じく硬直していた彼女が恥じ入るように俯いた瞬間だった。

 病院で涙を流すというのは、必ずしも珍しい光景ではないのかも知れない。病院はどこよりも悲しみが集まる場所だ。だから涙も自然に集まる。他でもない俺自身が先ほどそれを流したばかりだ。けれど現実に他人の悲劇を目の当たりにしたとき、それを受け入れる準備が整っているわけではない。

 今日は、ここを使うことはできない。

 ぎこちなく会釈し踵を返した。振り返る僅かな時間の合間にも彼女がこちらを見ていないことは分かった。彼女は、膝の上で拳を握り、黙って顔を伏せ続けていた。それは理性に基づく態度だった。けれど感情のほうは制御できなかったらしい。涙は頬を伝い続けていた。

 手の甲で、雫が光を反射しているのが見えた。

 俺は、元来た道を引き返した。彼女はひとり置き去りにされる。そのまま五歩進み、十歩進み、再び院内に入ろうとするそのとき、俺はどうしても我慢できなくなった。

「あー、もうっ」

 再び早足で通路を戻る。カバンからタオルを引っ張り出し、泣いている彼女に突きつけた。

「ほら、顔拭きなよ」

 女の子は、驚いて見上げた。

「大丈夫、これ使ってないからさ」

 彼女は手に取るべきか迷った……と言うより理解が追い付いていない様子だった。生まれて初めて目にするみたいにタオルと俺を交互に見比べる。

 場違いなことをしているのだろうか。

 気恥ずかしさが脳裏を過ぎった。だが今さら引っ込めるのも決まりが悪い。俺は無言でタオルを差し出し続けた。そして根競べに負けたのは彼女のほうだった。握り締めたそれで目元を隠すと堰を切ったように泣き始めた。何に憚ることもなく、感情のままに。

 俺こそ生まれて初めて見た。ひとがこんなにも泣くところを。

 感情を放つ少女の前で、ただただ立ち尽くしているしかなかった。


「すみません、見苦しいところをお見せしてしまって」

 彼女は、ひとしきり泣いたあと顔を上げた。笑みを浮かべる程度には落ち着いていたが声にはまだ悲しみが滲んでいた。潤んだ瞳が庭園に向けられる。俺は、隣に座って同じ景色を眺めた。花は素知らぬ様子で佇んでいた。

 少女は有木野穂乃花ありきのほのかを名乗った。同い齢で十六歳だという。そして、

「……母の、容態が良くないんです」

 病院に訪れる理由も同じだった。

 驚く俺の横で、穂乃花はぽつぽつ事情を語り始めた。

「昨日のお昼休みでした。図書室で本を読んでいたら先生が険しい顔でやってきて、母が……その、事故で怪我をしたと言うんです」

 彼女は喋りながら記憶を整理しているようだった。曖昧な顔つきで「まるで現実味がなくて」とつぶやいた。

「最初は何かの冗談かと思いました。先生の車で病院へ向かうときも何だか夢を見ているみたいで……。まだ学校も終わっていないのに一体どこへ向かおうとしているんだろうと不思議な気分でした。でも、ここに着いて、お医者さまから事情を聞いて、怖い顔で行ったり来たりする看護師さんの姿を見ていたら、段々私も怖くなってきて、それから」

 穂乃花は、強張った手で自らの身体を抱いた。

「それから手術をして、先生が、成功して、一応は助かったんですけど……危ないって……まだ安心できないって。おかあさん、死ぬかもしれないって……おかあさん、し、死んじゃうかも……おかあさんいなくなったら……いなくなったら……わたし」

 耐え切れなくなったのだろう。穂乃花は、またわっと顔を覆った。

「優しいひとなんです。父と離婚したあとも私のために一生懸命働いてくれて、自分が一番大変なのに、いつも私のことばかり考えてくれて。世界でいちばん……やさしいひとなんです。それなのにどうして……。どうしてこんなことに」

 穂乃花は「どうして」と繰り返した。耳を覆いたくなるような声で、どうしてと。

 気付いたら、俺は、固く拳を握り締めていた。

 まるで他人の話を聞いている気がしなかった。

 本当に、どうして。

 どうして世界はこうなんだ。

 穂乃花は「すみません」と鼻をすすった。

「泣いても仕方がないことは分かってるんです。今は祈るしかありません。神さまなんてひとがいるかどうかわからないけれど、信じて祈るしかないんです」

 そして、ありがとうございますと胸元でタオルを握った。

「少しだけすっきりしました。これは洗ってお返しします」

 俺は、頷くことしかできなかった。何を言えばいいのか分からなかった。心を支配していたのは哀れみ、そして、ある種の気恥ずかしさだった。認めたくはなかったが受け入れるしかなかった。

 俺は、恵まれている。

 この娘は大切なひとに別れすら告げられないかも知れない。

 俺は、穂乃花と再会の約束を交わした。

 明日またこの時間にこの場所で。

 その程度の軽い口約束だ。それから急いで廊下を戻った。あたりはすっかり暗くなっている。残り一欠片になった月が東の空から昇り始めていた。面会は夜の八時まで。今は一秒の千分の一すら惜しいと感じる。

 俺は、別れまでの僅かな時間を、大切に過ごさなければならない。

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