花は枯れる

 父は日曜日の縁側で猫を膝に乗せるのが好きなひとだった。生来ののんびり屋で、母からは動くのが遅いと毎日のようにせっつかれていた。母に叱られた父は頭を掻きながら「ごめん」と眉を下げるが、それは夫婦のじゃれ合いのようなもので、母は父のそんな性格が好きで一緒になったのだし、実際にそうして謝られると、呆れた表情を見せつつも、どこか楽しそうにしていた。二人の仲は円満だった。

 父の働き方も、その性格と同じようにのんびりとしたもので、残業で遅くなるようなこともなく晩御飯の時分には必ずテーブルに座っていた。夕食はいつも三人で、食べ終わればみんなで食器を片付けた。

 そんな生活が維持できなくなったのは父の会社の経営者が交代した頃からだ。その首のすげ替えが父の仕事にどのような影響を及ぼしたのか正確なことは知らない。だが業務量が膨大に増えたのは間違いなかった。日を跨いで帰宅するのが日常になり、家に帰らない日も珍しくなくなった。休日に猫と遊ぶ時間も、家族三人でドライブに出かける時間も、何もかも労働に取って代わられた。そしてトップの交代と同時に行われた大規模な人事異動は父の心身を一層過酷に追い込んだ。懇意にしていた上司がいなくなり、代わりに新しい人間が上役になった。新たな上司は相当苛烈な性格だったらしく気に入らないことがあれば人格を根こそぎ否定するほど部下を罵倒したらしい。父もその被害を受けたひとりだった。ただでさえ抱え切れない仕事を捌いているというのに些細なミスと、上司の気分ひとつでフロア中の晒し者にされるのだ。父の苦しみがどれほどのものであったのか、どれほどの屈辱だったのか、俺には推し測ることもできない。それでも父は家族のために働き、同僚に迷惑をかけまいとして働き、働き、働き、働き続けた結果、口から泡を吹いて蟹みたいに死んだ。中学一年の冬のことだった。

 母は泣いたりはしなかった。少なくとも俺の前では。

 葬儀の手続き。戸籍の手続き。預金の手続き。その他諸々の手続きのために慌ただしく駆け回り一段落してからもすぐに職安へ通い詰めた。子供一人を養うためには今のパートの仕事だけでは足りなかったのだ。母は、いなくなった父の代役を果たそうとしていた。そして、その想いと連動して、母の生活もまた、父のそれと変わりがないものへと変化していった。祖父母と疎遠だった母は実家の支援を頼むこともできなかったらしい。少ない実入りで家計を回し、足りない分は貯金を取り崩した。朗らかな表情には窪みが落ち、常に気を張ったような雰囲気を纏うようになった。それでも俺の前では普通の母親を取り繕おうとした。朝起きても母の姿はない。けれど朝食はしっかりと用意されている。ラップに包まれたトーストや目玉焼きを見るたびに子供であることが情けなくて死にたくなった。

 母は、丁寧に無理を積み重ねた。丁寧に丁寧に積み重ねた。そして無理を積み重ねた当然の結果として過労で倒れた。

 父の二の舞にこそならなかったが、以前と同じように働き続けることは最早不可能だった。母を診た冬川医師はこう評価した。「今倒れたことはある意味では幸いだった。こうして倒れなければ医者にかかる機会もなかっただろう」と。後半に異論はないが、前半には賛同できなかった。結局は大した意味などなかったからだ。細かな部分では早いか遅いかの違いでしかなく、全体としては遅過ぎた。既に手の施しようがなかったのだ。母の全身は手の施しようがないほど病魔に侵されていた。

 それまで母の内側を秘密裏に破壊していた病は、発見された途端、まるで開き直ったかのように母の機能を損なわせ始めた。

 半年前のクリスマスの頃はまだ車椅子で外出ができていた。それすらできなくなったのは年が明けて間もなくのことだ。今はもう半身を起こすことすらままならない。日に日に生命力が漏れ出していることは明白だが、それらは一体どこへ流れているのか。大切なものが掌から零れ落ちていく。その喪失感だけを切実に感じる。

「……でもさ、今日は良い話を聞いたよ」

 そう切り出すと、母は「なになに?」と目を輝かせた。腹から嬉しさが込み上げてきて、笑ってしまいそうになった。そして、ことさらそうする必要があったわけではないが――部屋は個室で俺たちの他に誰もいない――母に耳打ちをした。

「あいつ、刺されたってさ」

「……あいつ? 刺された?」

「ほら、父さんを殺した、あいつだよ」

 それで理解したらしい。母の、窪んだ瞳が見開かれた。

 俺は、期待通りの反応に満足を覚えた。

「ついこの間らしいよ。クラスの奴から聞いたんだ。そいつの親、父さんと同じ会社で働いててさ。俺に教えてくれたんだよ。親父の会社で人が刺された。お前の親父の上司だったやつじゃないかって」

 父を奴隷のように酷使して殺した、あいつだ。

 聞けば、会社から出て来たところを社員の家族だか何だかに滅多刺しにされたそうだ。俺の父は過労で倒れたが、あいつの下ではもうひとりひとが死んでいる。そのひともまた、親父の上司に馬車馬の如く働かされていた。働き過ぎて、生きるのが嫌になって、線路に身を投げてバラバラになった。それを恨んだ遺族が報復に走ったらしいのだ。

「当然の権利だ。あいつはそうされて当然のやつだったんだよ」

 母は、しばし口を閉ざしてから、尋ねた。

「……それで、あのひとはどうなったの?」

「ああ、残念だけど死んじゃいないよ。ただ、いつそうなってもおかしくないそうだ」

 悪足掻きしないでさっさと死んじまえばいいのに。

 そう吐き捨ててやった。母は、くしゃりと貌を歪めた。その表情には見覚えがあった。俺が同級生を殴って前歯を折ってやったときもこんな貌をしていた。小学生の俺なら、しおらしく非を認めていただろう。だが俺はもうガキではない。母の心情を踏まえたうえで正面から訊き返した。

「母さん。嬉しくないのかよ」

「……」

「父さんを殺した奴が死にそうなんだ。こんな嬉しいニュースはないだろう」

「……やめなさい、優一」

「くたばってないのが気に入らないのか? 俺だってそうさ。今から病院に乗り込んでとどめを刺してやりたいくらいだ。どうせ悲しむやつなんて誰もいない。死んだほうが世の中のためになる」

「優一!」

「あいつは悪党だ!」

 我慢し切れなくなって叫んだ。放たれた声は、後戻りすることなく弾け、俺たちの会話を掻き消した。あとには沈黙だけが残る。俺は膝の上で手を握り締めた。垂れた頭の上で納得できないものばかりが詰み上がっていった。

「……母さん。どうしてあいつを訴えなかったんだ。謝罪だって、賠償金だって何だってブン取ることができたはずだろ。そうすれば母さんだってもう少し楽にやれたんじゃないのか。そしたら、きっとこんなことにだって」

「いいえ、お母さんの病気はお母さんの問題よ。あのひとには何の関係もない」

「俺はそうは思わない。あいつさえいなければ父さんは死ななかった。父さんが死ななければ母さんだって体の不調には早く気付けていたはずだ。全部あいつのせいだ」

「……優一、いつも言っているでしょう。正しいということは必ずしも善いことを意味するわけじゃない。私たちは」

、だろ? 聞いたよ。何度も」

 椅子を蹴って、立ち上がった。

「でも、全然わからない! 。あいつは加害者、俺たちは被害者だ。悪いのは全部あいつのほうだ。殴られた側が殴られたことに腹を立てるのがそんなにいけないことかよ。母さんはあいつを殺してやりたいとは思わないのか!」

 肺を膨らませ、叫んだ。

「母さんは、父さんを愛しちゃいなかったのかよ!?」

 はっとして口元を押さえた。図らず「ごめん」と声が漏れる。

 母は無言だった。怒りもしない。泣きもしない。只々唇を結び、哀れむように俺を見つめた。目頭が熱くなる。それを抑えられなかった。

 そんな眼で俺を見ないでくれ。

 カバンを掴み、逃げるように部屋を飛び出した。

 目元を拭い早足で遠ざかる。その勢いも長くは続かなかった。曲がり角にすら辿り着けず、俺は脚を止めた。膝を折り、壁に寄りかかって崩れ落ちた。

 涙が止まらなかった。

 母は痩せた。骨と皮しか残っていない。花の匂いは饐えた体臭に変わってしまった。もう起き上がることすらできない。声は日に日にしゃがれていく。

 花は枯れる。部屋は赤く染まる。何もかも全て失われていく。

 母さんはもうすぐ死ぬ。

 そんなことは俺が一番よく分かってる!

 分かっているのに、どうして。

「……何やってんだよ、おれ」

 声は、冷たい廊下のどこかに消える。


 家に帰る気が起きなかったのは後悔の裏返しだった。あんな暴言を吐いておいて後ろ髪を引かれないはずがない。さりとて母の元へ戻る気も起きない。その程度の意地は残っていた。だから院内をとぼとぼ歩いた。目的はなかったが落ち着ける場所なら知っていた。

 この病院は西棟の南側にもう一棟ドーム状の施設が設けられている。一面硝子張りのその建物は『植物園』と呼ばれ、文字通り多種多様な草花が栽培されていた。アザミ。ロベリア。スイートピー。ペチュニア。ナズナ。カランコエ。身近で見かける花もあれば背丈を超えるような外来種もある。いずれも観賞用に育てられているもので薬効を期待しているわけではないそうだ。ドームの中央付近にはベンチが置かれ草花に囲まれながら休憩できるようになっている。俺はこの空間が何となく好きだった。父が死んだとき、母が余命を宣告されたとき、ここに座って心を落ち着かせた。そして、それがきっと病院の意図した使い道なのだ。

 この日は、そこに先客がいた。

 白いワンピースを着た、女の子だった。

 彼女は両手で顔を覆っていた。細い肩と、小さな頭が、吃逆するみたいに揺れていて、俺は思わず息を呑んだ。その気配が伝わったらしい。彼女は顔から手を放し、ゆっくりと視線を持ち上げた。

 瞳に、大粒の涙が溢れていた。

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