偽善者の憂鬱

 月曜日の放課後は、教室から出ることを禁じられた。

 はっきり帰るなと言われたわけじゃない。でも彼の視線の鋭さが僕の帰宅を許していないことを告げていた。かと言って何かをさせられるわけでもなかった。彼と、彼の取り巻きが無言でスマホをつついている傍らで、ひたすら放置されていた。別に目的があったわけではないのだろう。けれど僕に対する猜疑心が……たとえ気休めであろうと僕を自由にさせることを拒んだのだと思う。

 落ち着かなかった。佐前くんの機嫌……突然暴力を振るわれるのではないかという恐怖が視線を彷徨わせた。同時に、彼の暴力に対抗する術があるという緊張があった。それは決して喜ばしいことではなかった。拳銃や刀をひっそりと持たされるようなもので、絶対に使用すべきではないからだ。そして実態はなお危うい。

 手の震えが止まらなかった。すがるようにスマホを握り締めた。ディスプレイには家鈴さんからのメッセージが映し出されている。僕を気遣う、優しい言葉。

 僕が何よりも、失いたくないもの。


 紅い瞳の迫力に押され、そのままぺたりと尻餅を突いた。

 目眩がした。金槌で殴られたみたいだった。平衡感覚がおかしくなって部屋の景色がぐるぐる回った。ぐるぐる。ぐるぐる。

 渇いた喉から、辛うじて息が漏れた。

「ま……」

 大きく、喉を動かした。

「待ってください。何を言っているんですか……? 彼女の魂を……何です? 僕は佐前くんにいじめをやめて欲しいだけです。それがどうして家鈴さんの……。おかしいですよ。まるで釣り合いが取れてない……」

「釣り合い?」

 彼女は、僕の頬から指を離した。冷笑を浮かべ、再びベッドに身体を預けた。

 腕と脚を艶めかしく交差させると、面白い冗談を聞いたとばかりに首を傾けた。

「釣り合いと言ったの? おかしいわね。レテの水でも飲んだのかしら? だったら脳みそを引き摺り出して、今一度記憶を呼び覚ましてみなさいな」

 瞬間、黒い姿が消えた。「え?」と口を開くと同時に背後から腕が伸びてきた。その手が顔に巻き付いてくる。蛇のように。もう片方の手は旋毛の上へ。そっと手を添えられているだけなのに指先一つ動かせなかった。

 耳元で、声がささめいた。

「佐前空人から何をされた? どんな仕打ちを受けたの?」

 浅く息を継ぐことしかできなかった。彼女は自ら話を先へ進めた。

「あの朗読は恥ずかしかったでしょう? 彼らは何て嗤っていたかしらね? 気持ち悪い? そうね、とても申し訳なく思うのだけれど裏返った貴方の声は確かに気持ちが悪かったわ。クラスの女の子たちは貴方のことをどんな目で見ていたのかしら? 覚えていないでしょう。貴方可哀想なぐらい必死だったもの。お昼を食べたあとにお腹を殴られて一度吐いてしまったこともあったわね。ねえ? 自分の反吐を自分ですくって片付けるのってどんな気持ち? 汚物同然に見下ろされて、誰も手を差し伸べてくれないのって、どんな気持ち? 見世物にされて、いたぶられて、クッサい便所を舐めさせられて。それで出てきた言葉が、?」

 悪魔は、言葉が沁み渡るのをたっぷりと待った。そして、

「偽善者。吐き気がするわ」

 そう吐き捨てた。

 静寂が耳に痛かった。夜が口を閉ざすことを思い出したみたいだった。乱れた鼓動と、擦れた呼吸の音だけが不細工に響いていた。悪魔は、その音色を愉しんでいるのかも知れなかった。

 声が、ざらりと首筋を舐めた。

「私はつまらない取引はしない。貴方が心の底から望むものでなければ取引の材料とは認めない。両腕か、両脚。もしくはそれぞれ一本ずつ。それがボトムラインというところでしょう? もちろん相応の代金を家鈴桐子から差し引かせて貰う」

「……彼女は、僕のものじゃない」

「いいえ、彼女は貴方のものよ」

 きっぱりと否定された。反論を待たず悪魔は続けた。

「家鈴桐子の意志は関係ない。欲しいのは貴方の意志。大切なものを犠牲にする貴方の意志が欲しいの。それでこそ私は力を行使できる」

「……しません。僕は、そんなことは」

「それも一つの選択よ。私が望むのは対等な取引。取引はお互いの合意がなければ成立しない。私の助力が必要ないときは適当な場所に『扉』を捨てなさい。まあ、仮にそんなことがあればの話だけれど? よく考えてみることね」

 そう言って蛇は僕を解放した。拘束されていた首は自由になった。けれど怖くて振り返れなかった。しばらくそのまま震えていた。窓の外から車の走る音が聞こえた。乱暴な運転だったが、その音で現実に引き戻された。僕は、ゆっくりと振り返った。

 悪魔の姿は、もうどこにもなかった。


 願えば何でも叶えてくれる。代わりに大切なものが奪われる。

 悪い夢だ。そう信じたかった。けれどカバンには例の本が入っている。夢じゃない。やり方も聞いていた。本の表紙に血を吸わせればよいのだと言う。カッターは筆箱に入っている。やろうと思えば、すぐにでも実行することができる。何を? 決まっている。佐前くんを……。

 そこまで思い描き、頭を振った。

 できるわけがない。

 確かに、彼の仕打ちはひどいものだ。怒りを覚えないわけじゃない。苦しいし、痛いし、屈辱的だ。でも手酷く仕返しをするほどのことだろうか? 彼には悪気がない。彼はただ、友達同士で悪ふざけをしているつもりで……だからこそ先生に告げ口をしたときあんなにも怒ったのだ。そんな彼の両腕を奪う? あるいは……命を? できるわけがない。


 ――――偽善者。吐き気がするわ。


 ……何と罵られようとできるわけがない。できるわけがないだろう。それに……。

 僕は、スマホを覗いた。そこに映し出されたメッセージを見つめた。

『次の日曜日、空いてるかな?』

『夏祭り用に浴衣が欲しいんだ』

 それに、

『久しぶりに、君に会いたい』

 僕も、同じ気持ちだった。家鈴さんに会いたい。会ってたくさんお喋りがしたい。また一緒に空を眺めたい。同じ時間を過ごしたい。だから……あんな条件、受け入れられるわけがない。

 心は固まりつつあった。いや、最初から選択の余地なんてなかった。妖しい言葉に惑わされていただけだ。彼女を売り飛ばす選択肢なんて存在していいはずがない。

 きっと方法ならいくらでもある。何も、暴力に頼らなくても。

 そう強く確認した、そのときだった。

「狩尾、お前何ニヤけてんの?」

 手からスマホが引き剥がされた。僕は「あ!」と声を上げた。彼は奪ったそれを仲間の輪の中に持ち帰った。他の二人も興味深そうにディスプレイを覗き込む。

「返し……」

 慌てて手を伸ばした。でも体格で勝る彼らには届かなかった。肩を掴むと払われ、腕を伸ばすと手首を捻られた。大きな平手で突き飛ばされ、教室の床に尻餅を突いた。

 彼らは頓狂な声を上げた。

「うっそ!? こいつ女とLINEしてんのかよ」

「え? 狩尾、彼女いんの?」

「マジで? 写真! 写真とかある?」

 彼らは「うわ」とか「メッチャ可愛くない?」などと騒ぎながらメッセージを遡っていった。

 自分の軽率さを呪った。今までスマホにまで興味を持たれたことがなかったから無警戒だった。目を付けられてしまえば、玩具にされるのはわかってたのに!

 彼らは、僕と家鈴さんの会話を次々暴いていく。僕と彼女の世界に入り込んでくる。見られてマズいものは何もない。それでも心の中に土足で踏み入れられるに等しい行為だった。

 そして、ふと気が付いた。佐前くんが僕を睨んでいることに。他の二人は中学生みたいにはしゃいでいたのに、佐前くんだけは、昏く、じっとりとした目つきで僕を眺め下ろしていた。ぞくりとした。彼は「何かムカついてきた」と悪態を吐いた。二人の手元から乱暴にスマホを奪い取るとディスプレイの上で指を這わし始めた。身体を撫でられるような悪寒を感じた。

 一体何を?

 そう訊こうとした矢先にスマホを突きつけられた。

「ど~っスかセンパイ~? 返信はこんな感じで?」

 表示されたメッセージを見て、僕は、

「やめてッ!!」

 叫んでいた。喉が裂けんばかりに。

 頭が真っ白になって、とにかく取り返さなければと全身で彼らに突っ込んでいた。それでも僕は無力だった。両腕ごと押え込まれ一切の動きを封じられた。逃れようと暴れたが、その必死さを嗤われただけだった。

 彼が突きつけてくる画面には、こう書かれていた。

『いいよ。じゃあ終わったらラブホでセックスしよっか?』

 もはや懇願するしかなかった。「お願いだからやめて」「お願い」と。

 佐前くんにはそれも通じなかった。勝ち誇った顔で送信ボタンをぽつりと押した。本当に。軽く。呆気なく。

 取り巻きの一人が大はしゃぎで手を叩いた。それから卑猥な……口にするのも憚れるような言葉を次々に家鈴さんに送りつけた。僕は、震えながら見ているしかなかった。

「あ~あ、最悪だな佐前。悪魔かよ」

「……いや、むしろ後方支援っしょ。こいつらじれったい関係だったみたいだから」

「これで返信きたら奇跡だろ」

 その言葉通り家鈴さんからの返事はなかった。既読はつく。でも反応がない。返信が遅れたら許さない。そう眉を釣り上げていた彼女が。

 やがて彼は「御愁傷さま狩尾~」と僕の肩をポンと叩いた。

「でも、まあ、逆転のチャンスがないわけじゃない! 気を落とすな!」

「いや、ないっしょ?」

「佐前、頭湧いてんの?」

 彼は、その云われようを気に入ったらしい。ニチャリと嗤って肩をすくめた。

「そうかもな」

 理解できなかった。

 何がそんなに愉しいのか。どうしてこんなことができるのか。

 彼はさらに言い放つ。

「狩尾さあ、ちょっとパンツ脱いで?」

 間抜けに口を開けるしかなかった。意味が分からなかった。

 彼は「いやさ」と手を振った。

「家鈴ちゃん? 彼女もさ、見たら、その気になるかも知れないじゃん?」

 ……わからない。

「な? 俺も協力してやるから。勇気出してやってみようぜ。な?」

 わからない。本当にわからない。

 彼は……このひとは。

 乾涸びた泥人形のようになった僕を前に、佐前空人はスマホを翳した。

「ほら、早く脱げって」


 空っぽになった教室。空っぽになった

 仰向けになって倒れたまま、天井の染みを虚ろに眺めた。指先一つ動かせないし、動かす気力も起きなかった。疑問ばかりが脳の内側で増殖を繰り返す。

 どうして?

 答えはどこからも返ってこない。誰も僕に答えをくれない。

 代わりに聞こえてきたものは、歌声。

 誰もいないはずの教室で、誰かが歌を口ずさんでいた。硝子よりも透明で、花よりも優しい音色だった。理性も。良識も。何もかも投げ捨てて、ずっとその慰めに心を浸していたくなるような、甘い心地良さ。

 意識が、歌声のほうへ誘われた。

 夕陽で満たされた教室に黒い影が伸びていた。漆黒の奧に輝く紅。彼女だった。腰かけた机から髪を垂らし、ささやかに音を奏でていた。

 彼女は僕の視線を認めると、にっこり微笑んだ。でも鈴を転がすことはやめず子守唄みたく安らぎを響かせた。やがて机上から舞い降りた彼女は、黒衣をはためかせてくるりと廻った。腕を揚羽のように広げ、唇で優美を紡ぎ上げた。

 そして悪魔は、自らの心臓に指先を当てると、天に向かって左手を差し伸べた。

 僕は、その姿に、じっと魅入ってしまっていた。深く。深く。吸い込まれるように。

 そのときだった。床のスマホが受信を報せた。

 目の覚める心地だった。慌てて飛び起き音源を掴んだ。画面には一件の通知。彼女からだった。早く開こうと指を伸ばし、触れる瞬間ぴたりと止めた。

 じっとりと汗が滲んだ。内臓が引き攣るような感覚。歯を食い縛る。ぎゅっと瞳を閉ざしたけれど身体の震えは止まらない。考えれば考えるほど澱んだ煙が心を覆った。

 しかし……気が付いたのだ。歌が止んでいることに。見やると悪魔の姿は消え失せていた。指はすんなりと画面に触れた。

 そこにはこう書かれていた。

『君は今、助けが必要な状況なんだね?』

 僕は、声を上げて泣いた。

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