偽善者の憂鬱Ⅱ

「少し、痩せたかい?」

 彼女は、僕を見るなり苦笑した。

 どうだろう。自覚はなかった。それに興味も。僕の意識は家鈴さんのことでいっぱいだった。見た感じは何も変わっていないように見えた。卒業したときから何も変わっていない。見惚れるほどに綺麗な髪も、瞳も。ただ……中学とは違う制服が、彼女を違ったひとのように感じさせた。それに今はいたわるような雰囲気がある。僕が上手く話せないでいると彼女は「行こう」と促した。僕たちは、いつかの坂道を上がっていく。

 二人で、丘の上のベンチに並んだ。彼女のカバンからは菓子パンが二つ。無言で僕に差し出してきた。受け取り、それを頬張った。しばらくはそうやって沈む夕陽を眺めていた。眩しかった。泣いてしまいたくなるほどに。そして込み上げてきた懐かしさで胸が一杯になったとき本当に涙が溢れていることに気が付いた。

 僕は進学してから今日に至るまでのこと順に話した。佐前空人と友人になったこと。やがていじりが始まったこと。叩かれたり、首を締められたりしたこと。金銭を要求されたこと。暴力を振るわれたこと。そして……。

 僕は、家鈴さんに謝った。不快な想いをさせてしまったと。嫌なことに巻き込んでしまったと。軽蔑して、絶交してくれても構わないと。僕が弱いのがいけなかったのだと。

 それまで黙って聞いてくれていた彼女は、そんな泣き言を溢した瞬間、きつく眉を釣り上げた。怒鳴られる。そう思った。でも彼女は少しばかり拳に力を込めただけで声を荒げたりなんかしなかった。ふっと肩から力を抜くと感情を顕わにしたことを恥じるように「君は本当にバカだな」と微笑んだ。「絶交なんてするわけないだろ?」と。

「先生には相談したの?」

「……一応。でも、深刻には受け止めて貰えなかった」

「クラスの、他のひとたちは?」

「見ているだけで、何もしてくれない」

「……御両親は?」

「言えるわけがないよ。こんなこと」

「だろうね」

 彼女は、背もたれに身体を預けた。

「誰かに助けを求めりゃ良いのに。……なんてのは外野だから言えることだ。当事者になると中々そうはいかないんだ。不思議とね」

 そして、自嘲めいたものを浮かべ、

「ボクも同じだった」

 はっきりとした口調でそう言った。聞き流せない言葉に思えた。

「同じって……家鈴さんは、みんなの輪の中に入ってはいなかったけれど、いじめられたりはしてなかったでしょ?」

「いじめられたりはね?」

 家鈴さんは困ったふうに笑うとオペラグローブの指先を摘まんだ。薄い皮を剥がすみたいに白い生地がするりと抜ける。

 僕は困惑した。そこには何もないはずだった。以前見たのだから間違いない。滑らかな肌があるだけで不審なところは何もなかった。そして……やはり何もない。綺麗な手の甲があるだけだ。眉根を寄せていると彼女は、また自らを嘲るような目つきをした。そして露わになった両手をゆっくりと反転させる。そこには、

「あ……」

 掌の皮膚が分厚く変色していた。

 一目で分かる傷痕。火傷の跡だ。それも、かなりひどい。

 彼女は、言葉を失った僕に向かって、申し訳なさそうに眉を下げた。

「二人目の父親が良くなくてね。まあ、随分と痛い目に遭わされたものだよ」

 見苦しいだろ? と首を傾ける。

「小賢しい男だったよ。カッとなって短気を振るう癖に傷跡が残るようなマネはしなかった。でもこのときばかりは余程機嫌が悪かったらしいね。半端に跡が残ってしまった」

 僕は、彼女の手を掬い傷痕を撫でた。触れた指先に硬い感触が返ってくる。硬くて、歪な感触。その歪みの背景が……彼女の痛みと絶望が脳裏を駆け巡った。感情が溢れて止まらなかった。彼女の手を握って肩を震わせた。家鈴さんは「ありがとう」と囁いた。

 しばらくは僕の泣きじゃくる声だけが響いていた。

 それが落ち着いて、街灯が躊躇いがちに灯ったとき、家鈴さんがぽつりと漏らした。

「卒業前に、自己犠牲の話をしたね」

 彼女は、眼下の景色を眺めていた。

「ボクには弟がひとりいてね。齢は少し離れていて母が再婚したときにはまだ5歳だった。あの男はそんな子どもにも容赦がなくて……躾と称して小さな身体を痛めつけた。母はあいつの奴隷だった。だから弟を守ることができるのはボクしかいなかった。あいつは夜の仕事をしていて日中はずっと家にいる。弟を保育園に迎えに行くのは自然とあいつの役目になった。外面は随分良かったらしい。園の先生に愛想良くして、他の親御さんにも気持ち良く挨拶をして、家に帰ると弟に暴力を振るった。弟は何の抵抗もできなかった。仕方がないからボクは急いで帰って弟の代わりに蹴られてやってたんだ」

 家鈴さんはお腹のあたりをさすった。

「まあ……耐えがたい苦痛だったよ。洗面所で気を失ったときは生きた心地がしなかった。弟が僕を引っ張ってくれなければ本当に溺れ死んでいたかも知れない。あいつの訳が分からなかったところはボクたちを目障りに扱う癖に、家から出ようとしたら癇癪を起すんだ。そんなにオレが嫌なのかって。一体何なんだろうね? おかげで逃げることもできなかった」

 家鈴さんは、軽く笑った。冗談を口にしているみたいに。

「万事そんな調子だったから……何て言うのかな。段々耐えられなくなってきたの。どうして私ばかりがこんな目に遭うんだろう? この地獄はいつまで続くんだろう? 誰か弟を助けてくれるひとはいないのかな? 私の代わりに殴られてくれるひとはいないのかな? あれ? ひょっとして、これって? って」

 僕は、ハッとした。

 彼女は、こくりと頷いた。

「そうだよ。ボクは弟を見捨てたんだ。あいつが欲しかったのはサンドバックだ。何もボクがその役割を引き受けなくたっていい。。それまでどこかに避難してりゃあ良かった。だからボクはそうすることに決めた。とにかく外で時間を潰して、あいつがいなくなったのを見計らって家に帰る。たったそれだけで痛い目に遭わなくて済むの。簡単でしょ? 地獄を見るのは弟であって私じゃない」

 彼女は、あの自嘲めいた笑みを浮かべた。

「……幻滅したよね? 私もだよ。私も、私に幻滅した。安全な場所でやり過ごしておきながら家に帰って『守ってあげられなくてごめんね?』なんてチョーシの良い泣き顔を浮かべてる自分に。だから……肉体的な苦痛からは解放されても心はずっと苦しかった。全然楽にならなかったの。あんまり苦しかったから私は、私じゃなくてを演じることにした。苦しいのはであってじゃないってね。そう……逃げた先でも、また逃げたの。でもあんまり効果はなかったかな? 心は苦しいままだったから」

 家鈴さんは、ふっと頬を緩めた。

「そんなとき私は君に出会った。覚えてる? 君が傘を貸してくれたときのこと。あの日はバケツをひっくり返したみたいな天気だった。あのときの私は卑怯な自分が許せなくて、でも家に帰って殴られるのも嫌で……もういっそのこと死んでしまおうかなんて本気で考えてた。そこに君が現れた。そんなに濡れたら風邪引くよって、自分の傘を差し出して」

 僕は、その日のことを思い出していた。彼女は土砂降りの歩道を幽霊みたいに歩いてた。僕が傘を差し出すと、まるで初めて目にしたものみたいにしげしげとそれを眺めていた。

 彼女は、からからと笑った。

「最初はね? こいつなに格好つけてんだ! って思ったの。こっちは家族を見捨てて逃げまくってるのにイヤミかコノヤロウ! って。もう情けないったらなかったよ。悔しくて悔しくて……でも、本当に嬉しくて。あんまり悔しくて嬉しかったもんだから君がどういう人間なのか確かめてやろうって考えた。君が心の底から献身的な人間かどうか。ただの偽善者かどうか見定めてやろうってね。でも……すぐに自分が馬鹿なことをしてるって気が付いた。君には、善人であろうとする意識なんてなかった。君はただのお人好しで、困っているひとを見かければ当たり前に手を差し伸べられる、そんな誠実な男の子だった。……救われた気がした。こういうひとが世の中にはちゃんといるんだって。それだけで救われた気持ちになったの。それに正直どうでも良くなってきちゃったんだ。君がどんな人間だろうと、君といる間は自分の罪を忘れていられたし、羽が生えたみたいに楽しかったから」

 何も言えないでいると、彼女は、まっすぐに僕を見つめた。

「ホントだよ? 狩尾くん。私はね、君と一緒の時間を過ごせて本当に救われてたんだよ?」

 潤んだ瞳に……硝子みたいな瞳に、僕の姿が映り込んでいる。

 ちっぽけな姿が映り込んでいる。

 気恥ずかしくなって目を逸らした。

「……その喋り方、似合わないよ」

「ハハ、そうだね。君とボクはこうじゃない」

 彼女は、目を細めた。

 こうじゃないと笑いながら、その奥で煌めく光はやっぱりいつもと違っていた。僕は、たぶん耳まで真っ赤になっていた。薄暗さで分からなくなってしまえば良いのにと、そう思った。

 まともに視線を合わせられないまま彼女に尋ねた。

「今は、大丈夫なの?」

「ああ、直に母親の目も覚めてね。三年の中頃には離婚した。今の父親は……前のと比べれば随分まともだよ。ボクも弟も穏やかにやれている」

 僕は「良かった」と胸を撫で下ろした。

 家鈴さんも「うん良かった」と頷いた。

「でもね親友。何度でも言うよ。ボクを救ってくれたのは母親でも離婚届でもない。君だ。ボクは君にこそ救われていたんだ。つまりは話が長くなってしまったけれど……ボクが言いたいのはこういうことだ」

 彼女は、胸に手を当てた。

「ボクは、ボクを救ってくれた君のためならば命だって惜しくない」

 そんな大げさを言った。堂々とした眼差しで。

「本当だ。絶対に見捨てたりなんかしない。必ず助ける。君がそいつを殴りたいのなら一緒に行って殴ってやる。御両親に相談するのが怖いのなら勇気が出るまで側にいてあげる。だから……お願い。もう独りで我慢しないで。私を頼って。絶対に君を助けるから」

 家鈴さんは、僕の手を握った。強く、強く、握り締めた。彼女から流れ込んできたものが僕の中を満たしていくのを感じていた。その力は胸に広がり、下腹部を巡って、芯を熱くした。そして頭のてっぺんまで熱で一杯になったとき僕はもう何も考えられなくなっていた。

 目の前にある彼女の顔に、そっと頭を傾けた。

「んっ」

 家鈴さんは、少し驚いたようだった。握った指先からそれが伝わってきた。そして、その緊張が次第に解れていくことも。やがて触れ合っていた点が離れたとき、彼女はゆっくり息を吐いた。放心したように僕を見つめ「どうか軽蔑しないで欲しいんだけど」と断りを入れた。

「……さっきね。君からメッセージを受け取ったとき、君が書いた文章じゃないってことはすぐに分かったんだけど……でも、ふと、こんなことを考えてしまったんだ」

 声が、消え入りそうなほど小さくなる。

「そうなったらいいな、って」

 僕たちはもう一度唇を重ねた。

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